興味深い出来事はいつも突然姿を見せる。だからいい授業やHRの記録はないのだ。過ぎた後、しばらくしてその価値に気付く。予め記録しようとすれば、不自然な演出や演技が生まれて「嘘」になり失敗に終わる。後日、生徒たちに確認しながら書いたのが、以下の記録である。入試では毎年定員割れの心配をする住宅地の都立高校。その晩秋の1時間である。
一年生の臨時HR、司会はない。女子が六人、黒板を背にみんなと向かいあって始まった。
「・・・私たち、みんなにいっぱい迷惑かけました。クラスの雰囲気も壊しちゃいました。私たち自己中だった。ごめんなさい、謝ります。・・・お願いがあります。私たちのいけない点をここで言って欲しいんです」
双方とも緊張してなかなか言葉が出ない。関係が疎遠になっていたのだ。
「・・・陰でコソコソ音われるのって、いやなんです。・・・反省します。言ってください」最初の発言者を待ってクラス中が固唾をのんでいる。
「・・・陰でコソコソ言われるのって、いやなんです。反省します。言ってください」 最初の発言者を待ってクラス中が固唾をのんでいる。
「通路に勝手に私物を置くのはやめてほしい。ジャマなんだ」口火を切ったのは小柄で紳士的K君だった。
「陰でコソコソ言うなって言ったけどさ、君達だって僕のこと、コソコソ言ってるじゃないか」司会が居ないから、おずおずと立ち上がって発言する。
「遠足のときのわがままは許せないよ。みんなの前で一度も謝ってないぞ」
一学期の遠足はクラス別、1-6は築地と浅草を散策した。六人は昼食を兼ねた市場見学後の集合に、「いまから食事する」と携帯で友達に連絡を入れて、30分も遅れた。集合場所のバスは既にいない。六人は地下鉄で次の集合地へ急ぎ、うな垂れ小さくなっていた。
発言の間隔は長いが、男子の批判が続く。
「化粧がくさい」
「昼休みのラジカセうるさい」
「ドアを開けたら自分で閉めろ」
「教室はみんなのものだ、君たちはわがまますぎる」
「P君に謝れ、言っちゃいけない事があるんだぞ」批判が次々とあふれ出て、六人は青ざめた。
「そんなこと、私たちだけの責任じゃない」と六人組の一人が吐くように言うのを「それを言ったらおしまいよ」と押し止める小さな声も聞こえた。
「僕も六人に嫌われて、いろいろ言われて、教室にいるのが苦しくなったんだ。休み時間には、授業が始まって先生が来るまで外に出ていたりした。・・・でもさ、悪いのは六人だけじゃないよ。僕にも反省しなきゃいけないことがある。彼女たちだけ責めるのは間適ってるよ」
N君は授業やテスト勉強でも頼られて、一学期は六人からも人気だった。その彼も二学期には六人に露骨に嫌われた。優しかった彼女たちの視線であればこそ耐え難かったに違いない。チャイムが鳴っても廊下でうろうろする彼を何度も見かけた。
「私、みんなの前でしゃべるのとっても苦手で、とろくて笑われるんじゃないかって心配なんです」 ひとこと一言をかみしめるように胸に手を当ててCさんが立ち上がったとき、僕はびっくりした。
「でも今日は喋ろうと決心して学校に来ました。文化祭では無視されて辛い思いもしました。でも、聞いてください。あのー、六人がやってたことを私も楽しんでたんです。みんなも同じじゃないかな。六人だけが悪いわけじゃない。私も反省しなきゃ」
Cさんは、文化祭で長時間かけて工夫した飾り付けを、六人に取りはずされ、精神的に失調し呼吸を乱し、病院に運ばれ以後しばらく登校できなくなったことがある。
Cさんの発言でわかるが、この日のこの時間が臨時HRになるだろうとの予想はクラスに既にあった。臨時HRは皆の期待でもあった。発言の風向きが変わったが、発言は途切れない。
「J子(六人の一人)たちの気持ち、よく分かるの。P君にきついこと言ったことも。私もね、いじめられたことあるから分かる。がんばって欲しいからこそ、そういう言葉が出るんだよね。悪気なんかないのよ」
「でも、私が一番悪い。言っちゃいけないこと言ったんだから、謝ります。許してもらえないかもしれないけど」
P君は九月転校生である、表情が気になって始業式を待たず面接した。
「・・・いじめられるかもしれなくて・・・」 非道く脅えていた。
「小学校でも中学校でも何度もいじめられ、自分を責めました。他人は誰も信じられない」小さな声で呟いた。クラスの連中は察して、P君をクラブや遊びや弁当に誘った。しかし、P君はそれにも戸惑う。特に女子に挨拶されたりすると、体がこわばる。それを見て、回りもどうしていいかわからず狼狽え、接触に二の足を踏む。言っちやいけない言葉「男のくせに、はっきりしないんだったら死んじゃえば」はこうした状況で投げつけられた。
P君はHRの成り行きを教室の端っこで聞き、青ざめ、汗をびっしょりかいていた。
「外に出るかい」と聞くと、小さいがしっかりした声で「いいえ、ここにいます」という。
「私も、六人が音楽かけてたのを楽しんでたよ、いいじゃない、教室が明るくなって。それから、授業中うるさいのは六人だけじゃないでしょ」こう言ったのは、誰に対しても、ハッキリしたものいいのSさん。校内で平和運動の署名活動して、禁じようとする校長と堂々と論戦もした。
入学間もないころ、クラスの生徒たちは「1-6の男子はいいよね」、「女子がかわいくて、面白い」などと、互いを気に入っていた。しかし、知らない者同士が40人も集まって、すぐにうち解けるのはどこかに無理がある。 夏休みがあけ、文化際の準備がすすむにつれて、「うちの男子って、サイデー」、「可愛くねー」、「△□君サイテー」、「○◇さんたちは許せない」と言いはじめた。中でも評価の落差が大きかったのはY君とN君。サイテーと扱き下ろされて教室に居づらくなっていた。 そのY君が笑みをたたえながら、ゆっくりとこう言った。
「僕はねえ、たしかにいろいろあって、やっぱりいけないことだったと思う。だから、みんなから批判されてるんだ。でもね、僕は前の六人ともみんな好きだよ。これからもいっしょにやっていこうよ」六人を見ると。たちまち目の周りが赤くなって潤んでいるのがわかる。
「あのさーなんて言うのかなァー、そうなんだよね、やっぱりさー」とみんなを笑わせながら、秋のHRを締めくくったのも、サイテーの類のH君だった。 絶好のタイミングでチャイムが鳴り、忽ち六人の周りには人垣ができた。
「ありがとう」
「とってもすてきだった」
「かっこいいよ」
「テレビドラマみたいなことって、本当にあるんだね」・・・
これが「1-6の50分」である。授業開始のチャイムに促されて教室に戻る六人の一人が「先生、ありがとう」と振り向きながら言った。それまでの50分間、僕はまるで忘れられていたことに気付いた。
Ⅱ
コルチャック博士の孤児院では、子ども裁判の判決はすべて「許し」であった。和解では、批判のあとに対話・討論・妥協が続く。和解は「他者の中に自己を見ること」だからである。
1-6の場合、そのきっかけは「サイテー」と烙印された「敵対者」によってもたらされている。教員の浅知恵が出る幕はない。少年の知恵や判断は、年の離れた大人に勝る。少年の成長を「指導」が妨げていないか。
ともあれ他者は、再び仲間となった。それは一学期の復活ではない。互いのサイデーの姿が曝され、批判され、新たに評価され、新たな役割を期待される存在としてである。こうして、欠点を含めて、或いは欠点のゆえに、互いを認める関係が生まれる。六人の周りに出来た人垣は、類人猿のグルーミングに似ていた。我々は類猿人でもある。この日の午後、P君が、グループに混じって笑っているのを初めて見た。そして気が付けば、女子の挨拶にぎこちなく照れて、片手を上げて応じるようになっていた。自分を守る仲間がいることを、臨時HRで見たことが彼の世界観を根底から変えたのだと思う。考えてみれば、競争と懲戒に満ちた学校空間には、類人猿の過去から受け継がれてきたグルーミング=和解は非生産的まどろこしさとして排除されてきた。
ことの始まりは何だっただろうか。六人が文化祭を仕切って(それ自体は遠足での失態を挽回しようとの意図があったのかもしれない)、自信過剰になったことだ。舞い上がって尊大になるのは、大人の文化人や知識人ですら避けられない。彼女たちの振る舞いは、同級生からも教員達からも顰蹙をかう。担任への眼差しが生徒からも教員からも険しくなった。
授業中の気ままなお喋り、机の上に拡げげられた化粧品、机の周りに散らかされた私物、あからさまな陰口。その上六人のなかも小さな揉め事があって、家庭でももめる。彼女たちは四面楚歌、少しも気が休まらなかったのではないかと思う。P君への暴言があったのは、この頃。
「早く、何とかして・・・」と訴える声は、生徒にもクラスの授業を担当する教師にも出ていた。しかし、僕は皆が問題を共有していないことが気になった。無関心な者も問題から逃げる者も少なくなかったのである。
放錬後、彼女たちを待って立ち話をした。
「どうして私たちだけなの。みんなやってる、私たちだって謝って欲しいことされてる」とむくれた。
「うん・・・遠足のことは?」
「あれは、・・・私たちが悪い。自己中だった」
「・・・このままでいいかい・・・」
「全然よくない、クラスがぎくしゃくしてる」
「どうしたらいいかな・・・」
「・・・時間ちょうだい、先生・・・私たちだけで話させて・・・考えてみる」 時間、担任の僕もそれが頼りだった。問題を全体が認識することが、解決の糸口である。現象の全体を認識するためにはどうしても時間がかかる。説教ではなく個人の内面から生まれる認識でなければ意味はない。
こうして、彼女たちの話しあいが始まった。放課後の教室で、マクドナルドで、公園の木陰で、夜遅くまで話し合ったことを僕はあとから聞いた。
六人とも気が強い、ときには激しい口喧嘩にもなった。意見を異にする者との間で、わかり合えそうもないことを伝え合うのが表現である。
意見を同じくする者とだけ付き合うことは、アランによれば、狂信以外の何ものでもない。争いを避けて同調するのは、奴隷根性である。
夕暮れの街角のテラスやベンチでハンバーガーやアイスクリーム片手にけんか腰で話しあい、議論で熱くなった頭を冷ましながら帰宅する姿を、僕は実に高校生らしいと思う。
自分たちの属する社会を自分たちの手でよくしたいという熱気が、学園から消えたと論評されることがあるが、問題は依然としてこらえ性のない大人の側にある。熱気が籠もる前に、「無難」に解決する手際の良さが「指導」だと思い込んでいる。
彼女たちの約一週間にも及ぶ長い討論の結論は、「とにかく、誰かが最初に謝らなくちゃ始まらない」だった。結論が出ると、彼女たちは、臨時HRのために 一時間下さいと要求してきた。
時間は、人を追い詰めもすれば、事柄を熟させもする。成り行きを心配した何人もの生徒達から「先生、なんとかしましょう。私たちをあてにして」との申し出もあった。そして50分の臨時HRは始まったのだ。
この臨時HRのあと、生徒たちが休み時間にも廊下や校庭に出ない日が続いた。「先生のクラスどうしたの、何かあったの」と怪しまれもした。僕は生徒が「先生も入ってよ」と言うのを聞いてじっとこらえた。
教室の中では、休み時間にも話し合いが続き、色々な約束が交わされ、提案があふれていた。最後に席替えが提案された。不思議なことにそして当然のことに、皆が「前に座りたい」、「授業に集中したい」という。さまざまな意見があったが、「思いきって自由にしよう」との提案が採用された。気の合うもの同士がかたまって、机は少しも整然としていない。しかし通路は片づけられ、教室の空気は落ち着いて、授業への集中度は見違えるように増した。続く
Ⅲ
学校で共通の要求として自覚すべきは、生徒教師共に授業でなければならない。この要求が核になっていてこそ、平等な関係が教室に出現する。以前に戻ったのではない、そこにあるのは新しい関係。気ままな放縦で、お喋りや化粧をしてはみたが、それが自由では無いと気付いたのだと思う。やってみて懲りるのは、昔からのいい学び方である。「気ままな放縦」を禁じるだけでは「気ままな放縦」の魅力を高めてしまう。
こうした時、教員側の授業そのものの改善が伴っていないのがいつも難題だ。それはやがて生徒たちの反乱をよぶことになる。揉めごとが生徒たちの中だけで調整克服されるのでなく、授業や教師の姿勢を含めた学校のあり方に目が向かねぱならない。揉めごとを通して、そこにふさわしい自前の「地域に根ざした」秩序が形成される。こうした「公」的民主的秩序は、虎ノ門の会議室や西新宿の椅子から画一的に作れるものではない。
揉め事の基本は「不整」である。いろいろな人間が混じらなければ揉まれることもない。「公」も形成されない。偏差値体制が四十年も続くと、輪切りにされるのは「学力」ばかりではない。家庭階層・言葉と文化・交友範囲まで、みごと輪切りにされ、整然としている。揉め事の基本が、肝腎のところで断ち切られている。
これは、社会科の教師にとっては致命的な隘路である。なぜなら、日々接する生徒・父母・市民の多様性とその自由の程度が、僕たちの知的な豊かさ・柔軟性を基礎づけるからでありる。「オレの授業は進学高並みだ」「僕のクラスは三年間、一人の処分も出さなかった」などという声が盛んな職場。多様な自由と揉め事の消えた学校は、ぼくらを退廃させている。
二年生に進級して、授業ボイコットがあった。教員の多くは処分をほのめかしたが。僕は「抗議行動である、何故なら次の時限には全員が教室に戻り整然と授業を受け、抗議声明も用意していたのだから」と主張した。
丁度ボイコットの一週間前、教育実習生がクラス全員に求めた感想文を入れた封筒が教卓上にあった。件の教員はそれを生徒に断りもせず開封。
「・・・ふーん・・・○○先生のような先生になってください、か・・・」次の感想にも同じような部分がある。揶揄するように読み上げ続けた。感想とはいえそれは、実習生との信頼関係に基づいて書かれた私信でもある。
「いい加減にしてください、勝手に読まないで」Sさんは我慢ならず叫んだという。クラスに蓄積された件の教師へ不満は頂点に達し、ボイコットに及んだのである。不満とは授業の中で生徒が人として扱われていないことであった。抗議声明は、件の教師の授業で読まれた。
「私たちには誰にも奪えない尊厳があります・・・ コルチャックを知ってますか・・・ 学校で一番えらいのは教師ではありません、生徒です・・・」 生徒たちが一行ずつ書いたという。
体罰する若い教師を追いつめて、謝罪させた前任校の女子生徒二人を思い出す。大学卒業したての教師は、大学で「最初が肝心、なめられてはならない」と叩き込まれ、些細なことですぐ生徒をたたいた。そのせいか、この授業だけは静まりかえった。このクラスの小柄な女性担任は、すぐに抗議したが相手にされず悩み、僕は相談を受けた。どうしたものかと考えているうちに、また男子生徒が叩かれた。授業が終わるや、二人の女子生徒が廊下にとび出し、・・・ついに職員室の前で捕まえ、言い訳を試みる教師に向かって、
「でも、やめなさい」
「つぎの授業で謝りなさい」と言い切った時には黒山の人だかりが出来ていた。体罰はそれ以降ない 当日研修して不在の僕は、ことの顛末を翌日伝え聞いた。数日後、彼女たちを見かけ呼びとめた、
「ああ、あれね。だって先生、くやしいじゃない」
「私も、△△君がたたかれていたとき、去年の先生の授業を思い出したの。そしたら、悔しくて、悔しくて、いつの間にか飛び出したら二人で追いかけていた」
「先生、忘れたの? 去年の授業で尊厳って言ったでしょ、人間には誰にも奪えない人権があるって」・・・ こうして「学力」は思いがけないところに突然あらわれ、現実を変える力となる。学習とは定義によれば、現実行為に影響を与える過程なのである。彼女たちは「人権」を単に言葉として記憶しただけではなく、「概念」化したのである。 教師は高校生のこういう聡明さに気づかない。偏差値に目眩ましされているのは、学校であり教員である。
卒業後、「授業」が思いおこされ、職場や地域に「厄介ごと」を招きよせることも少なくないる。ある卒業生が、有給休暇を申請して理由を聞かれ「理由は聞かれない、と習いました」と応えて
「どこで習ったか知らんが、おまえの言つてることは筋だ。しかし、筋だけで世の中はとおらん。おまえのようなヤツは初めてだ、お前の出身校からはもう採用しない」と上司を怒らせることはよくある。
だが、こうした揉め事を通しての対話と、調整こそが肝心なのだ。「公」は、そこにこそ生まれる。民主主義もすべてそこを通る。波風の立たない秩序は、弱者の我慢と諦めと無知よって形成される。強者はそこで、傲慢で無神経な暴力性を蓄積し、秩序の観念を独占する。 揉め事は、弱者が諦めず我慢しないとき、そして知識がそれを支えるときに起きあがってくる。社会科はその道具でありたい。
ブルデューは社会学を「はた迷惑な」「既成秩序を乱す学問」と言って擁護した。社会科もその本質において、対立.混乱.を引きおこさずにはおかないのであり「はた迷惑」こそが使命であると言って良い。 卒業生の同僚が次々とリストラされても、級友に体罰が加えられても、何も起きないとすれば、僕らの授業には「使用価使」はないのであり、僕らの労働は少しも「有用労働」ではない。
「我々の誤りは、すべて無謀な判;断によるものであり、我々の真理</はすべて例外なく誤りが矯正されたものである」 アラン
1997.6「ひと」293号掲載論文『ごたごたの中から民主主義が生まれた』を修正加筆
追記 僕はこの一件に関して、家庭が果たした役割を書いていない。重大な手落ちである。断固たる指導力を素早く発揮しない担任に、不満を感じた人たちも少なくなかった筈だ。多くのお母さんやお父さんが、臨時HRの朝まで、そしてその後も適切な助言や叱咤激励を生徒たちにしていたことが、後日分かった。学校は父母の力、眼差し無しには成り立たない。
生徒たちが夜更けまで公園や街角で議論できたのは、この高校の通学範囲が広くなかったことによる。日曜日に集まるのも容易い。それはPTA活動にも言える。保護者が平日の夜や土曜の午後に話し合うのも出来る。高等学校が小学区制であることの優位性は疑いない。
HR後1-6は、共同の要求=授業を受ける権利に辿り着いている。無意識のうちにプラグマティズムにたどり着いている。思想はこうして若者の日常から生まれる。
そのことに僕はなかなか気付けなかった。こういうことこそ授業で語らねばならない。日本の高校では哲学に割く時間があまりにも少ない。それ故、高校生が持つ知性の働き・輝きを、生活指導の問題として矮小化してしまう。こうした失敗は数え切れない。許されることではない、悔やまれる。 矮小化した生活指導は、高校生たちの中にある自己成長の可能性を汲み出せない許りか潰している。指導する側に、逸脱や「病的傾向」に対する想像力がないからである。定義によれば病的状態とは、健全な状態の極限形態である。環境の変化に適応して、危機を切り抜けるために起る有機体の健全な反応である。逸脱や病的言行は、悉く不健全と考える矮小な生活指導の立場からは、憎悪は指導・排除の対象でしかない。しかし歴史や哲学は、憎悪を客観化することができる。客観化は自分の内側を見詰める余裕を与える。
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