戦争の根源 Ⅱ 富の偏在が戦争を生む

 承前 
軍隊内にも物資の偏在は及んだ

 国家予算を遙かに凌駕する富が、特権層の手元に死蔵されるのは、何時の時代であれ確かな事実である。それが敗戦間際に接収貴金属として現れた。
 仮にそれが戦争以前に貧しい庶民の手にあれば、直ちに現金化され、購買に向かい国民経済を潤したはず。それは開戦回避の力強い条件となる。
 どんなに安い賃金で良質な製品を大量に造っても、買う者が貧しければ売れない。売れない商品の山は、国内市場を諦め海外を目指す。日本が売り込む海外市場は、既に列強の支配下にあった。武力の衝突は不可避。こうして植民地を巡る戦争が始まる。そこに動員され殺され飢え死にする兵士は,自分たちが生産した製品すら買えない労働者であった。
 戦争は富の偏在が仕掛ける。社内留保が増え続ける(資本金10億円以上の大企業の内部留保は1918年度末で449兆1420億円に達し過去最高を更新)一方、実質賃金は減り続けている。購買力が伴うわけがない。大衆課税すればなおさら。この現実に恐怖すべきなのだ。
 
 僕は当blog『日清戦争に96万円投資して2000万円を得た天皇財閥』にこう書いた。
 近代日本最初の侵略戦争・日清戦争前後のあからさまな証言が、西園寺公望の日記にある。 軍備増強には増税は不可欠。山県内閣は、国会に増税案を何度も上程した、がそのたびに否決。山県は、増税反対派議員の買収を考えた。議員歳費を五倍に引き上げ、更に有力議員には直接買収資金与えて増税案を成立さた。驚くべきは、その買収資金が天皇から出たことだ。当時の額で98万円。当時1000円で都心に一軒家が買えた。今の額で100億円以上に相当する。・・・ 増税で軍備増強したお陰で日清戦争に勝ち、清国からせしめた賠償金の特別会計は、1902年度末で総額3億6,451万円。うち二千万円を天皇が受け取った。98万円投資して、あっという間に20倍強に増やしている、開戦前(1893年)の国家予算が、8,458万円である。こんなに旨い投資噺はない。・・・ 
 「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えない。・・・天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑いたくもなる。いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこんなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分がなんともやりきれない。」渡辺清「敗戦日記」1945.11.10
 戦艦武蔵も大和も三菱製、零戦の開発も三菱である。「軍財抱き合い」と言う言葉があった。財界と軍部の協力体制を示す傑作な言葉である。儲かるから三菱は東条に献金したのである。巨大な大量殺戮装置は、株の配当を通して天皇を潤した。生き神を信じた兵士たちが、木の根やミミズしか口に出来ず死に絶えている時に。 
 こうして天皇家は、三井・三菱・住友・安田を凌ぐ大財閥となった。

 敗戦時の皇室財産総額は、GHQ発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。いずれも海外に分散隠匿された資産は考慮されていない。(この年の靴磨き10銭)

 天皇制の欠陥は、天皇個人の「誠実」な仕草や皇族の笑顔によって相殺される類いのものでは無い。天皇制の構造が本質的に戦争と親和的なのである。

戦争の根源   Ⅰ 占領軍御用の「強盗」

哲学者のギャング体験
 「人に話したこともめったにないけれどもね。ぼくは終戦直後に京都から疎開した。・・・四国の多度津・・・そこに二ヶ月くらいいたかなあ。そのあいだ、国鉄の四国鉄道局の嘱託として・・・占領軍の鉄道輸送部だが、の通訳をしていた。・・・確か十月の中旬か下旬だったと思うが、マッカーサー司令部が命令を出して、全国の銀行を捜査したことがあった。金貨銀貨を銀行が隠してもっているだろうという疑いで、急に摘発をやったんだな。全国いっせいに指令が来てね。いわば銀行襲撃ですよ、ギャングみたいなもんだな。 ・・・隊長がぱくを呼んで、おまえ戦争中何をしとったと聞くから、ぱくはファシズム反対の雑誌に関係していて、そのため二年間ほどほうり込まれていたと言ったら、よし、そんならいっしょに行こうといって、握手を求めて手を差し出した。・・・兵隊たち十数人といっしょにトラックに乗って町の銀行を急襲Lにいった。何という銀行だったかな、多度津の第何とかいう銀行ですよ。兵隊たちは自動小銃をかまえてまさに銀行ギャングですな。お客さんは震えているし、支店長出てこいといって、ぼくがいちいち隊長の通訳なんだ。そして、支店長室に案内させてね、支店長、震えとったなあ。・・・そして金貨銀貨を隠しているはずだ、出せ、とこういうわけですよ。事実案内されて土蔵みたいなところへいくとそこにありましたよ、白い布袋につつんだ銀貨が。で、勘定してレシートを書いて支店長にわたして引きあげました。そんな事件があったですよ」 
 これは哲学者の真下真一が、鶴見俊輔との対談で語った体験である。

 地方銀行の支店でさえこうした事件が有った。大都市や東京の銀行ではもっと大きな事件=銀行強盗があったと考えられる。
 米軍占領直後の1945年9月30日日曜夜8時頃、日銀本店を兵士を乗せた米軍装甲車が取り巻いた。着剣の兵士を従えたGHQ経済科学局クレーマー大佐であった。名目は銀行観察で日銀首脳部も集合を命じられ別館に待機した。彼は、日銀内部の各室を巡視する筈だったが、肝腎の鍵をもつ看守に帰宅を命じてしまった。月曜からの監察は厳重だったが、クレーマーの機嫌は悪く焦った表情で、時々怒鳴り声が聞こえた。だが地下の大金庫を見て、彼の機嫌は直り笑みさえ浮かべたらしい。金庫が空けられた後は、役員も遠ざけられ詳細な調査がおこなわれ、午後四時半頃までかかった。その有様は、当時の日銀総裁渋沢敬三が書き残している。
 そこには日銀本体の他に、「資金統合銀行」と名付けられた組織の大金庫があった。敗戦直前の1945年5月設立されている。日銀の別動部隊と言われ,多額の資金がここから軍需関係に注ぎ込まれたと推測されている。推測されていると書くのは、実態は闇に包まれ現在に至っても解明されていないからである。

 クレーマー大佐の怪しげな査察以降、不思議な事件が相次ぐ。先ず、GHQで接収貴金属管理をしていたマレー大佐事件。米本土で軍事裁判にかけられ、10年の判決を受けたが詳細は日本には知らされなかった。容疑は日本から10万カラットとも言われる大量のダイヤを持ち出したことにあった。マレー大佐も日銀を調べたが、終えて帰国した時,ダイヤが発見されたからだった。彼はそれ以前にも休暇で帰国した際、妻に着服したダイヤを渡したり現金に換えていたことが分かっていた。名前が知られている事件ではヤング大佐事件がある。日本航空スチュワーデスが関与した事件もある。また、退蔵貴金属調査に関わった重要人物の不審死事件もあった。真下真一が関わった地方銀行支店に於ける「強盗」事件は、報道も記録も無い。

 一体日本にはどれだけの貴金属があり、どれだけ持ち出されたのか。「接収貴金属等の処理に関する法律」は1959年。
   第一条には「この法律は、連合国占領軍に接収された貴金属等で、その後連合国占領軍から政府に引き渡されたもの等について、公平適正かつ迅速に、返還その他の処理をすることを目的とする」と書いてある。

 この法が成立した時点で、日銀地下の接収貴金属はダイヤに換算して16万1283カラットと発表された。
 貴金属が集められたのは1944年夏から年末。集めた軍需省は「ダイヤモンドは目標の9倍、白金は2倍」と発表したが、肝腎の目標額は伏せられたまま。松本清張は買い取りに使った資金から逆算して、138万4615カラットにはなると推理している。
 1949年国会で、マッカート資金と言われる金が鉄道会館や造船業界に流れてはいないかという質問が出ている。マッカートは、GHQ経済科学局長でありクレーマーやヤングの上司であった。
 このマッカート資金=M資金と噂されるものには,フィリピンやインド関係の「財宝」までが含まれるようになる
 「M資金」がどのように実在し虚偽であるかは、今尚不明。だがそれ故に、この情報に児玉誉士夫や小佐野賢治らが群がり、全日空や富士製鉄までが巨大で荒唐無稽な詐欺に引っ掛かってしまう。 
 続く

他人の痛みはいくらでも我慢出来る

女の子の背中には人形が背負われている
彼女は自分の痛みも知らない
 偏頭痛が持病になったのは20代。七転八倒の苦しみを誰も理解しない。痛みの最中、自殺を考えた。医者も平然と「痛みで死んだ人はいません」と言う始末。確かに震えながら吐き数時間寝れば、酒が飲めるほど快活になりはする。 偏頭痛の治療法が劇的に進化したのは、京大病院の頭痛専門医が偏頭痛を発症してからだ。彼は言った「偏頭痛の痛みがどんなに激しく苦しいものか、やっと分かった」と。 酷い話である。「他人の痛みはいくらでも我慢出来る」のだ。 

 妹が嚥下出来なくなった。飲み込ませようとして、介助者が「はいゴックン」と言う度に、妹は「ゴックン」と言うだけ。口の中に食べ物が溢れた。喉を通らなければ栄養は、点滴やチューブに頼るしか無い。どんどん衰弱する。
 「入院が必要です、それでも数週間の命でしょう」と医者は言う。しかし妹は、点滴やチューブによる延命を頑なに拒んだ。
 嚥下には、喉の筋肉と神経が関わっている筈。夜分医者を訪ね、尋ねた。喉にある神経の塊の機能を、喋ることで促すことが出来るのでは無いかと。入院は取りやめになった。
 次の日妹に「飲み込むためには喉の筋肉を動かす必要がある。喋ることと飲み込むことにはきっと繫がりがある。何でもいいから喋れ」と促した。彼女は「何でもいいの」と、とりとめなく喋り始めた。 昼が近付き、水を飲ませると飲み込んだ。本人も周りも驚いた。流動食も飲み込んだ。
 嚥下について、専門家たちが毎日患者を目にしていながら、「あーん、ゴックンしましょう」で済ますことに恐怖を覚えた。
 妹はそれから一年生きた。造血機能も働かなくなり輸血なしでは生きられないところまで生きた。輸血を拒否して妹は眠るように亡くなった。

 職場や地域での自身の自治活動から逃げていた者が、分掌によって生徒たちの「自治」指導をすることに強い違和感がある。嚥下機能を無くした年寄りに「はい、あーんして、ゴックン」と言うような心許なさを覚える。
 「米軍がイラン革命防衛隊スレイマニ司令官を殺害。イランは報復宣言」の報道を受けての、世界と日本のTwitterのトレンド差に注目が集まった。 TwitterのトレンドとはTwitter内で使われた用語の頻度のことである。つまりTwitterを利用する人々の関心は何かを知ることが出来る。 
  2020 年 1 月 05 日 の各国twitterトレンド1位 アメリカ・カナダ・イギリスでは Iran 
 ドイツ・フランス・ロシアではWWⅢ(第三次世界大戦) 
 日本ではBABA嵐 (人気タレントによる「ババ抜き」遊びの中継)   日本のTwitterトレンドには29位まで、中東関係の用語は一つもない。
 ラクビーで日本中が酔い、口にした「ワンチーム」の実態はこの程度のものである。現実逃避の幼児的自己愛に過ぎず、底が浅い。それに相応しくこの国の首相は、この重要な期間をゴルフとグルメ三昧で過ごし、恥じていない。

 自治活動を学校で「指導」しているのは日本だけ。その成果が、世界的危機への徹底した無関心として現れている。

 嚥下出来ない老人に「あーん・・・」を繰り返し、点滴とチューブに依存させるのを指導や医療とは言わない。だが依存させる側には、虚妄の満足感が残る。虚妄の満足経験は累積して「指導」の体系を作る。
 文科省が指導要領で自治活動の指導を義務づけているのは、その効果が無いばかりか逆効果である事を熟知しているからだ。

 停退学などの処分をする権限を持つ部署が自治指導を兼ねるのを、なぜおかしいと思わないまま今日まで来たのか。憲兵が労組や政党を導くような不気味さを感じる。
 戦前の内務省的発想から、学校は未だに解放されていないからだ。思想や素行の善導意識が蔓延る。

君は疲れている

病に倒れて知る 鉢の中にも宇宙
 深い豊かさが、君の文章から消えた。単調で鋭さがない。それには誰より君自身が気が滅入っているに違いない。
  
 ずっと昔のことだが、僕にも誰より早く登校し誰より遅く下校して、仕事を抱え込んだ時期がある。学校内外の仕事が次から次に押し寄せても、軽々とこなしているつもりだった。

   ある日、職員会議で発言しようと立ち上がった瞬間、雲に乗ったように上下左右の感覚を失い倒れ込んでしまった。そのまま入院。病院に三ヶ月、自宅静養の三ヶ月を過ごした。入院初期は、一日毎に500g 体重が減った。突発性難聴という診断だった。後遺症で今も右耳の聴覚は無く耳鳴りが残る。
 この入院を含め三度の半年近い病休を経験した。二度目は殆ど自宅で寝たままの日々を過ごした。病床から見えるのはベランダの鉢に生えた雑草と空だけ。最後の入院は大学で講義中、意識を失った時。半身不随になり、完治に半年を要した。
 思えば、体が休むことを命じたのだ。休む回路を壊した僕を病で寝込ませて、肉体と精神の回復を待つしか無句なった。休まないことは美徳だと思い込んでいた。ストライキの時だけは説明して休講したが、
授業を休んだことは無い。 授業すれば精神も肉体も甦るような錯覚に酔ったのだ。弱い自分を見ない、不遜。

 自宅の病床から見えたのは、来る日も来る日もベランダの鉢と空だけ。快適さ便利さは消えたが、気が付くと草の伸びる速さに体が同期し始めている。鉢と雑草の世界もまた宇宙である、不思議な感覚だった。学校を辞めるのも悪くないと思う頃、僕はゆるゆる回復し始めた。
 病気になることで、命の瀬戸際を逃れる。自らを救う仕組み・能力が人間のどこかにある。学級に危機が迫ったとき,生徒たちの中から人間関係=集団を修復・再建する動きが自然に生まれるように。
 その仕組みが、回りへの気兼ねや組織に対する義務感で壊れたり弱くなっているとき、過労で倒れてしまうのだ。この仕組みの脆弱さは、三度も入院した事で分かる。

 何人もの友人を過労で失った。友人の家族の悲しみに暮れた表情が僕の中にたまり続ける。 

 君は疲れている。
 僕は鋭く豊かな君の語りを再び聞きたい。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...