池川都議「頭髪というのは人権と深く結びついています」・・・「ツーブロック禁止という校則は一定数あります。なぜ、ツーブロックはだめなんでしょうか」。
対して藤田裕司教育長は「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているもの」。
具体的な事件・事故の報告はあるのかとの問いには「事例は報告されていません。都議会での(教育長の)発言は、髪型や服装が原因で生徒が事件や事故に遭わないように、生徒を守る趣旨の発言」と答えている。
皮肉なことに、ある意味で教育長の答弁は的を射ている。「外見等が原因で事件や事故に遭うケース」とは、校内の体罰を指摘しているとも読み取れるからだ。
多くの体罰が教委に報告されている筈だ。クラブや生活指導の規律を口実に、幾多の中高生が「事件や事故」に遭遇し、死に至ったことも希ではない。
だが本質はそこにはない。
我が国では、校則「指導」は担任に過度の負担を押しつけている、そこにあるのは教育ではない、教育とは相容れない権力行為に他ならない。
元来「全ての経験は、在る意味では不良経験に他ならず、経験を経ないものが所与のコースを人々、に押し付ける所には、如何なる教育もありえない」藤田省三『不良精神の輝き』
校則に反して「ツーブロック」にすることが一つの経験なのである。 だから、例えば米国では規則違反の「指導」や処分は管理職やschool policeが担う。教える教師の役割ではない。
生徒たちの表現の自由や良心の自由を、具体的に守るのが教師の職務である。教師の多くは、不良経験を持たないか、忘れた者である。若者から見れば、枯れて死んだような教師に、所与の「よい子」的生き方を押しつけられるのは不快極まりない。「真理」を語れば語るほどに、少年たちの気持ちは教育から正しく離反していてゆく。
教科担任や学級担任が、規則違反の「指導」や処分に関わるごとに、教育は遠ざかるのである。そのことの不誠実さに気付かない教師には、精神的堕落が蓄積する。
もう一点考察しなければならない。それは、「偏差値」が下がれば校則も指導=取り締まりも理不尽さが増すことにある。教師と生徒の関係が知的な文化性に満ちあふれ、授業が穏やかで好ましく進行するのは、理不尽な校則それ自体のない偏差値の高い学校に限られやすい。対して偏差値の低い学校では、教師と生徒の啀み合いが日常的であって、とても学ぶ雰囲気ではない。
池川都議が言うように、頭髪は服装などとともに「外見の自由」として「人権」である。人権とは、人間であることだけを資格として全ての人に保証される権利である。成績がよくないことや家庭が豊かでないことを根拠に、それを奪うことは許されない。
教師にとっても、生徒たちの成績不振を理由に、不愉快な頭髪「指導」を強いられる筋合いではない。どんな生徒も如何なる教師も、最高の環境で授業に参与出来なければならない。
僕はこの点に教員組合が鈍感であることが歯痒い。非正規労働などの格差に日本の若者の怒りが爆発しないことの素地を、偏差値による選別・隔離・差別が磨いている。
僕はこのことが、優生思想と「命の選別」に直結していると考えている。
追記 池川友一議員は
https://zheibon.blogspot.com/2017/08/1.html ←クリック
https://zheibon.blogspot.com/2017/08/2.html ←クリック で取り上げた宇高申先生(中教組委員長)の孫である。