1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅰ

 花森安治は、全世界的な学生紛争の勃発する「1968」年の前年に不気味な批評を書いた。

 学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中へ出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ。

 たとえば、東京でいうなら、丸の内とか虎の門あたり、あのへんを、昼休みにぞろぞろと歩いている、若いサラリーマンたちを、ながめてみたまえ。

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 へたな空想科学小説にでてくる、どこかの遊星の、独裁者の意のままに支配されている人民たちみたいに、みんな生気のない顔をして、べつにどこへゆくというあてもなく、みんなが歩いているから、じぶんもそっちへ歩いているといったふうに、動いているのだ。

 真昼の強烈な日光の下で、突如あたりの風景が、すうっとくらくなる、立ちぐらみというのだそうだが、いくらか、それに似ている。

 見ていて、うすら寒いのだ。

 いったい、人なに事かを憂えているときは、顔色に生気があり、日に光りがある。このどぶねずみ色群の、のろのろとした動きには、そのような、大それた気配はない 

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 顔色の生気のないことをいうまえに、顔つきの、だれもかれもおなじように見えること、さながらナンキソ豆の面つきのようであること、それからいうのが、ものの順序だったかもしれぬ。

 なるほど、ひとりずつを離して、ことこまかに観察すると、おのずから多少のちが小はあって、佐藤君を三木君ととりちがえるようなことはない。

 しかし、佐藤君の顔と三木君の顔のちがいは、つまりはナンキン豆にも、皮がこびりついているのもあれは、焦げて苦いのもある、その程度のちがいで、ひっくるめてみれば、このごろの連中の顔は、まったくおなじような感じである。

 むかしは、女性の顔が、こんなふうに、どれもおなじような感じだった。

 リンカクでいうと、面長とか面丸とか色つやでいえは、じゃがいもの皮をむいたのと、むかないのとか、一方はキッネ顔、一方はタヌキ顔といったちがいはあったにせよ、ひっくるめての感じは、どれもおなじだった。二言でいうと、つまりは<良妻賢母>風とでもいうか、内心はともかく、いつも一歩か一歩半ひき下ったような、見たところ、つつましく、たよりなげな顔つきであった。

 どこで、どう回路を引きそこねたか、このごろは、男の連中が、おしなべて、おんなじような顔つきになっている。

 一くせも二くせもありげな、ギョロリとした面がまえは、先日小菅刑務所を見せてもらったが、そこでも見つからなかった。

 まして、のろのろと昼休みのビル街に動いているどぶねずみ色群のなかに、半くせも四分の一くせもありそうな面を見つけようというほうが無理なのだ。

 おしなべて、一見たよりなげで、二見良夫賢父ふうで、三見ケチでずるそうでこれでは、だれの顔を、だれの顔とすげかえてみても、べつになんの差し支えもござりませぬわいなあ、といった顔つきをしている。

 だれの顔つきもおなじだということはみんなのっぺらぼーの顔で歩いている、ということだ。

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 兵隊だったころに経験したことだが、どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。

 しかし、このごろ どぶねずみ色の服を着て、のろのろと、けだるそうに生きているのは、こどもでも老人でもない筈である。

 それとも、このごろの青年は、戸籍面の年令だけが青年で、中身のほうは、ひねくれたこどもか、若年寄りのどちらかなのだろうか。

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 どんなわかりきったことでも、一度じぶんの手で受けとめて、じぶんなりに考えてみて、ほんとにそうなのか、じぶんでたしかめる。もし、そうでなかったらハッキリさせる、そうなるまでたたかおうとする、この抵抗の精神は、青年だけが持っていた筈である。この精神だけが世の中を、すこしでもスジの通ったものにしてゆけたのである。

 みんな、だれの命令でもないのに、どぶねずみ色の服を一生けんめいに着こんで、しかも我ひと共に怪しまない、そんな姿勢のどこに、この青年だけが持っていた<さからいの精神>がみられるというのか。

一体何時から日本はこんな馬鹿げた児戯に力を込め始めたのだ、千歳飴が相応しい


 いまは、天下泰平だという。

 ウソをつけ。世界といわず、日本といわず、いったい、どこが天下泰平なのですか。 いうならば、乱世である。

 お互い、うじゃじゃけ(傷跡などがただれた状態になる。 また、だらしない様子)のかぎりをつくした乱世ではないか。

 まいにちの新聞の見出しをならべただけでも、とても正気な人間の集っている世界とはおもえない。

 それだけに、こう連日連夜、ばかげたことに、十重二十重と取りかこまれていてはくよほど、しっかり立っているつもりでも、足をとられてしまう。まあ仕方がない、とあきらめる。しまいには、それがあたりまえのような気が、してくる。

 あげくの果てが、みんな、のっぺらば一の顔にどぶねずみ色の服だ。みんなが着ているから着ている。

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 たかが、服のことぐらい、、どうだっていいじゃないか、というのか。

 その通りだ。たかが服のことだ。こちらも、それがいいたくて、さっきからうずうずしていたところだ。

 まったく、どうだっていい筈だ。いい筈なのに、どうして、みんな申し合せたみたいに、どぶねずみ色の、ものはしげな服を着ているのだ。

 紺の上衣に、うすいグレーのズボンをはいたっていい筈だ。・・・

 第一背広なんか着なくたっていい筈だ。ジャンパーだっていい筈だ。

 それを、みんながしているとおりにしていたら、まちがいがない、などと横町の年寄りみたいなことを考えて、そう考えるのが、大人の考えというものだ、とおもっているのなら、たいへんな大まちがいだ、。

 たしかに、そういう考え方は、こどもではない。しかし、決して大人の考えでもないのである。それは、ともかく生きているだけ、という老人の考え方にすぎない。

 そんな考え方では、世の中をよくしようなどと大それたことはもちろんだが、この凄じい乱世を、果して乗り切って生きてゆけるかどうか。

 のんでものんでも、のどのかわきのとまらない因果な病人みたいに、ひとのすることばかり追っかけるクセがついてしまったら、ひとが赤旗を振れといえば、うしろの方で目立ぬように赤旗をふり、ひとが鉄砲をかつげといえば、ロの中でぶつぶついいながら、鉄砲かついで船に乗せられてしまいはせぬか。

 どぶねずみ色の服を着せられている諸君よ。たかが服のことだが、このつぎ服を買うときは、ひとのことは気にしないで、じぶんの着たい服を買いたまえ。

 すると、たかがそれくらいのことをするにも、いささかの勇気がいることに気がつく筈だ。

 しかし、君よ。君がねがうところの、親子何人かが、おだやかに暮してゆけたら、というささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの、<いささかの勇気>がなければ、だめなのだ。らくなことだけをしたい、いやなことはしたくない、といった臆病者では、到底手に入れることはできない等なのだ。       花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』     続く

 1967年この年僕は高校三年生になった。既に前年頃から制服や校則に対する火花を散らすような抵抗が、あちらこちらの高校で始まっていた。教室で、廊下で、校庭で、教師と激しい論争が繰り広げられ、大きな人だかりになった。同時にそれはベトナム反戦と密接に絡んでいた。

 花森安治はこうも言う。

 みんながスキーに行くから、おれはゆかない。みんながクルマに熱を上げているから、おれはそっぽをむく。みんなが安ウイスキーをのんで麻雀をするから、おれはのまないし、やらない。

 それがいいとか、わるいとかいうのではない。それが青年なのだ。すくなくとも、青年とこどもがちがうのは、そういうところなのだ。

 そんなことを言っては損だと知っていても、いわなければならないことは、ハッキリと大きい声でいう。そんなことをしてはまずいとわかっていても、しなければならないことは、きっぱりとやる。

 それが青年というものだ。すくなくとも、青年と老人がちがうところは、そこなのだ。

 かりに、世の中がすこしでも進歩しなければならないとしたら(こどもと老人は、そんなことを考えもしないし、信じもしない)それがやれるのは、青年しかない。   

五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...