敗戦から40日以上も過ぎて、三木清は 獄中で官憲に殺害されてしまった |
だが、彼らの獄中「法廷闘争」はもっと知られてもよい。 権利としての裁判という思想の無かった時期の闘いだから。
起訴後公判に付された者、約280名。公判=法廷闘争は1931年6月25日、東京地方裁判所で始まった。
公判を利用して、闘いと弾圧の真実を国民に向けて明らかにする必要があった。そのため多数の被告たちは地区ごとに40名単位で審理された、そこに毎回中央委員十二名を立会わせることを要求した。あの時代によくも実現出来たものである。
被告たちは、要求が容れられなければ、絶対に陳述しないと繰返した。対して検事側は公判の公開禁止を要求したが、宮城裁判長はこれを斥けた。それのみか刑事訴訟法にもない被告らの陳述上の相談まで許可している。これが「被告会議」と世上呼ばれることになった。
ただし裁判所は、君主制の廃止、国体の変革、私有財産の撤廃などに触れればいつでも非公開にすると被告側に通告。更に報道各社にはあらかじめ、「肯定宣伝する記事についてはもちろん、単なる報道記事でも、国体の変革に関する事項、・・・その他の共産主義の宣伝に関する事項は一切記事にしてはならない」旨警告を忘れていない。
宮城裁判長は、事前に相当勉強たらしく、かなり専門的に突っ込んでいる。
被告たちは裁判公開維持のために、言葉づかいも丁寧にした。徳田球一のように裁判長を「あんた」と呼ぶことあったが大体敬語を使っている。
名古屋地方裁判所辻参正判事は、この法廷闘争を見聞して「法廷心理学の研究」をまとめ上げている。松本清張は、これを効果的に引用して、小説を臨場感に満ちたものにしている。
・・・裁判中は炎暑のさなかではあったが、傍聴席は毎日満員をつづけた。
第一日目、まず佐野が起ち、総論を述べたのにつづき、鍋山の組織論に入った。
ここに、全法廷を通じて傍聴した辻判事の「法廷心理学の研究」から、各被告たちの印象が綴られている箇所を抜き書きしてみよう。 ・・・
「被告人佐野学は、前回と同じく白餅の木綿着にて六尺豊かなる彼の図体を包む。胸の辺をだらりとあけ、ちょっと反り身になり、手に原稿を持って起つ。悠揚迫らず。さすがは革命の闘士を以て任ずるだけあり、その音量豊かにして力強く、説くところ論理整然、言葉の表現巧みにして、しかも熱あり、教養無きプロレタリアにその論旨を徹底せしむるに十分なり。・・・(公判第七日)
・・・
○国領は、二時間の長きにわたる滑々たる演説を終って汗を拭く。傍聴席は、秩序整然とした、また別趣の味ある国領の陳述にかえって魅せらる。剛慢な彼は、この法廷で何かやり出すであろうと期待されたが、しかし、今日は不気味なほどおとなしい。・・・恰もマイクロフォンの前に立つが如く。彼の息のかかる所には、弁護士側からつけた二人の速記者が黙々として鉛筆を走らせている。然り、この法廷はブルジョアにとっては怖るべき放送局であり、コンミュニストにとってはまた素晴らしいマイクロフォンではあるまいか。(公判第十五日)
○徳田球一は、先の同志たちと同じように、半ば左向きをし、右斜めに裁判長を見、左方傍聴席を振返るが、やや反り身になって三階の大審院の窓を硯み、太い蛮声を張上げ、ユーモアを飛ばしながら述べる。(公判第十八日)
○裁判長は被告徳田球一を招く。この公判開始以来、あらゆる機会に闘志満々、鼻柱あくまで強く、奔放で、法廷における唯一の駄々っこであり、反抗児であり、人気者である徳田球一(38歳)は、今日は殊勝らしく裁判長の前に立つ。
『青年および婦人運動史』の代表陳述を許されたのである。
裁判長『君は東京地方裁判所で司法官試補になっているのではないか』
徳田『ええ、試補になったが、一日も裁判所に出ないので、ある日所長に呼びつけられて、さんざん油をしぼられた。それから間もなく弁護士になって、とんでもないものにひっかかったわけです』(満廷哄笑。公判第十八日)
・・・私(松本清張に)は・・・書くことが残っている。たとえば、警察署や刑務所などの凄惨な拷問についても述べたいのだが、もはや、余裕がない。
徳田が日本の軍国主義の役割を述べている際、法廷の窓外に号外売の鈴が鳴り渡り、法廷に一種名状のできない緊張が報った。満州事変の突発である。彼は、このことをどこで聞いたのか、その鈴の音を聞くや、一段と声を張上げて、
「ただ今、帝国主義は満州に出兵した。日本の青年は、断然、これに反対して戦うであろう」と絶叫した。
「三・一五共産党検挙」松本清張『昭和史発掘』文芸春秋
「法廷闘争はかなり成功した」が、松本清張の評価。
締めくくりの、法廷窓外の号外売りの記述が、映像的効果を生んでいる。徳田球一は敗戦までの18年間を非転向で貫いた。この検挙による犠牲者をあげておこう。非転向者の内194名が拷問死、1503人が獄中で病死した、逮捕者は数十万人。これらの被害者に対する補償、謝罪はいまだにない。これを忘れて、如何なる人権意識も定着しない。犠牲者ひとり一人について、絵巻に構成して残す義務が憲法を守ろうと決意する我々にはある。なぜなら、平和憲法は彼らの遺志だからである。
徳田球一は、裁判長を「あんた」と呼んで琉球人弁護士らしい豪胆さを維持した。主権者としての少年/少女に必要な能力は、このような不服従に基づく表現行動である。戦前の弾圧極まる監獄にあっても、法廷闘争を組織した精神こそ「日本・琉球列島」の伝統である。
しかしその「徳球」にして、国民による獄中政治犯(敗戦当時4000人)解放を粘り強く待つ「戦略」的英明さに欠けていた。国民による「政治犯解放闘争」は、天皇制政府の犯罪性を内外に知らしめる千載一遇の機会であった。その兆しはあった←クリック。これが実現していれば、天皇メッセージはあり得なかった筈だし、日本国民のマッカーサー礼賛も、共産党の米軍=解放軍規定もなかっただろう。従って日本の基地問題は根底的に違った様相を見せていたに違いない。
追記1 治安維持法によって逮捕・拘束された人々は数十万人とみられ、その内、送検された人々は7万5681名、送検後に死亡した人々が1682名だという(1976年1月30日、不破哲三衆議院議員の衆院予算委員会質疑)
追記2 敗戦の9月26日に世界的哲学者の三木清が獄死。10月1日GHQ設置。10月2日、仏人特派員が三木獄死の情報をえて、おどろいた欧米記者たちが騒ぎだした。調べると看守がわざと、介癬患者が使った毛布をあてがったことが判明。床に落ち、もがき苦しんでの死であった。張作霖の殺害を爆殺というなら、三木清の死は「感染殺」である。敗戦から2ヶ月、まだ全ての政治犯4000人が獄中にいた。
10月3日、東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、英国人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けており、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張。岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。全く敗戦の意味がわかっていない。10月4日、GHQは人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法廃止と山崎の罷免を要求。東久邇内閣はショックを受け総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止され、特高警察も解散を命じられた。
追記3 金田勝年法務大臣は2017年6月2日の衆院法務委員会で、「治安維持法は当時、適法に制定されたものでありますので、同法違反の罪にかかります、拘留・拘禁は適法でありまして、また、同法違反の罪にかかる刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」と答弁、補償を却けている。何たる暴言。