クラブを創る楽しみ

 僕は、クラブを幾つかつくった。最初に作ったのは、小学三年の時山岳部。町の山と丘に登る、むろん非公認。忽ちクラスの10人ぐらいが参加した。しかし計画が具体化するにつれて、抜ける者が出てきた。危ないと親に止められるのである。何人かの親から「あんたのうちには父ちゃんも母ちゃんもいないから、誰も反対しないんだ」と説教された。母は結核療養所、父は東京に事務所を構えて単身赴任して、うちには祖母と、祖母の姉妹。三人とも未亡人になっていた。家に帰って話すと、三人とも「男が一度決めたことを、やめてはいかん」と口をそろえて、計画に知恵をかしてくれた。詳しい地図も書いて磁石付水筒や双眼鏡も準備してくれた。ある二又から先は緩やかな登りになる、そこからは家があったら必ず寄って、道を確かめて水をもらい、名前を言う・・・ことなどを約束させられた。どんな草や木の実が食べられるかも、外に出て現物で教えてくれた。当日、参加者は減りにへって、ついに僕ともう一人だけになってしまった。祖母たちは朝早くから弁当を作ってくれた。楽しくも発見に満ちた一日であった。遊びに夢中になっている間に陽が傾き、慌てて山を下りた。深い林の中はすでに薄暗く、心細くなって歌をうたった。林道に出て後ろからやってきた三輪トラックが、町の入り口まで乗せてくれた。集落の景色がいつもとは変わって見えたことを覚えている。『スタンバイミー』が映画化されたとき、最後の場面は驚くほど共感できた。
 二つ目は、東京に来てからつくった草野球仲間。僕は言い出しっぺではあったが、下手でいつも9番ライトと決まっていた。大人の指導も介入もなく、球を買う金にさえ困った。ルールがその場でいくらでも変わるのが特徴だった。ピッチャー指名制は、打者が相手チームから気に入った者を選べる。守備輪番制は守備位置が毎回変わる。一方が強すぎてもルールを変えた。勝つことより楽しむことが重要だった。問題はグラウンドで、四谷にもあちこちにあった空き地がどんどん消えて、公園も野球禁止になったことだ。おかげで遠くまで出かけて場所を探した。
 最も気に入った場所は、迎賓館正面広場の芝生である。国会図書館が移転して改装を進める寸前の束の間であった。正面の門には鍵も見張りもなく、建物にも人影がなく中に入れた。正面に広い大理石造りの階段があり、立派な絨毯が敷かれ歩けば靴が埋まった。驚いて裸足で歩いたが誰もいなかった。何日か芝生で野球を楽しんだが、数日のうちに入れなくなってしまった。次に僕らが目を付けたのは慶応大学医学部構内だった。遺体安置所の脇はひと気がなくて好都合だったが、ここも数日でばれて、外苑に逃れた。オリンピックの気配もなく、草茫々の広場だらけであった。ここもやがて区営の草野球場として囲われてしまう。日曜日には商店街の草野球チームと場所取り競争で野球そのものより疲れてしまった。
 高校では意味のないこと、役に立たないことを旨とする同好会を作り、敢て顰蹙を買った。

 今、高校のクラブには入る気になれない。物は足りてユニフォームまで揃って、豊かだが、大会ばかりで大人の監視の下。詰まらなそうだが息は詰まる。もし僕が高校生ならこんなクラブをつくる。

 ディオゲネス倶楽部、シャーロック・ホームズの兄マイクロフトが会員となっている人嫌いのための会員制クラブと同じ。ディオゲネスはギリシアの哲学者。「徳」を人生の目的に据え、自らを欲望から解放自足し、何ものにも動じない心を持つため肉体的・精神的な鍛錬を重んじた。犬のような生活を理想としたため、犬儒派とも呼ばれ、酒樽で生活したこともある。アレキサンダーが「私がもしアレクサンドロスでなかったらディオゲネスになりたい」と言ったと伝えられる。学校のクラブが友情や協働などの生産的スローガンに満ちていることに挑戦するクラブである。

 立法倶楽部、模擬議員立法を試み文化祭やブログで公開する。例えば、「公職者犯罪量刑特別法」閣僚・財務官僚・経済学教授等で、違法な取引などで利益を得た者の全財産を没収して、一般国民に課せられる量刑の2倍以上の刑をその職務の重さに応じて加算する。最高刑は無期懲役、執行猶予はない。「国民不敬罪」沖縄で公務員が県民を侮辱する発言を繰り返している。国民の尊厳を汚した公職者を厳罰に処する。裁判は侮辱された者によって構成する。そのほか「駐車場緑化法」「交差点安全法」・・・既に主権者として存在している高校生の決意を示すサークル。

権力犯罪裁判所、蹴鞠同好会、偏差値打ち壊し連盟、校長等選挙管理委員会、家出相互援助機関、自転車・徒歩通学組合、学校森林化作業班、自炊食堂運営局、教員審査機構、

 自治金庫、自治会の運営に必要な資金を管理、調達する。会費を学校が授業料と同時に徴収するのをやめ、会員生徒から直接、批判や要求を聞きながら集める。卒業生などからの寄付も募る。監査は専門的知識を持った卒業生と第三者。

 独立新聞社、如何なる機関からの支援も受けず、圧力には決して屈しない新聞。購読料と個人による寄付で運営。一般商業紙が二の足を踏む問題にはすすんで挑戦する。卒業生や父母とのネットワークを存分に生かして取材、一般紙やTVを驚かせる。最大の強みは、不定期、広告なし。

 劇場共同組合、演劇や合唱や展覧会の裏方を務める。公演場所、資材調達、演出・指導の交渉、文化祭の日程に拘わりなく、芸術を振興する。
地域社、都会探検部、議員首長品質検査協会、蜂蜜社、絶対無益学会、偉人顕彰再検討委員会、境界一周会、スポーツルール改変同好会、後ろ向き同盟、他校侵入者の会、証言収集室、反五輪・嫌世界遺産学会、中間テスト初志貫徹協会、イグ学会、紙飛行機倶楽部、弁当記録院、落書き・ビラ保存会、スポーツ待合室、労働交換協同組合、狩野亨吉会、山宣会、マット・キラウ調査会、被処分者解放同盟、「賞」嫌悪者の会、昔時刻表出版会、なまけもの研究会、
 すべてのクラブは、無断欠席を妨げてはならない。

ガンジーは英国の戦争に協力して何を得たか     「善意」で受験競争を煽るの愚

 
「道を学ぶことは人を愛することにつながらなければならない」
 英国外交官が孫中山に「中国が第一次大戦に参加すればドイツから青島を奪い返せる」と、唆したことがある。苦境にあった指導者につけ込んだのである。しかし先ず孫文は、英国がかつてインドやビルマを盗り今チベットを狙っていることを非難、中国を統一したら必ずイギリスから香港を奪い返すと宣告。外交官を恐れ入らせ「私が中国に生まれていたら、あなたと同じように行動するだろう」と言わせている。
 この時英国は、インドに将来の自治をえさに大戦参加をもちかけている。ガンジーはこれに応じ、120万のインド兵と物資を投入した。にもかかわらず約束は反故にされ、大英帝国はローラット法とアムリットサル大虐殺を以てインドを弾圧。
 英国はドイツ植民地奪取を目論み、引き替えにインドの独立を匂わせたのである。ガンジーはこれにのった。同時に中東を巡ってはアラブ人とユダヤ人を同時にペテンにかけ、現在に至る世界の混乱を招来させているのである。 日本も日英同盟と英国の要請を口実に大戦に参戦、中国や太平洋におけるドイツ権益を略取している。

  貧困と成績低迷に苦しむ生徒に対して親切丁寧に校外補習を施す組織、そして彼らを賞賛するマスコミに、僕はこの慇懃無礼極まる英国外交政策に似たものを感じる。勿論学力をつけるのは悪くない、それ自体権利である。問題はそれを貧困の連鎖と結びつけることだ。英国が独立それ自体を勧めるのはいい、しかし戦争参加と結びつけるのが間違っているのと同じではないか。貧困の連鎖は、それ自体として、つまり労働条政策、社会保障政策によって実現しなければならない。
 苦学生に向かって、君も受験戦争に参加して誰か一人を蹴落とさないかね、そうすれば君は貧困の連鎖から逃げられる、先ずは眼を閉じて誰かを蹴落としなさい、と説く。それは英国が印度を騙した手口と同じであることを看破しなければ、貧困の連鎖は決して無くならない。
 政策が貧困を放置・深刻化し続けていることの責任には少しも触れず、成績と貧困が直接の因果関係があるかの如く結びつけられている。
 如何なる経済環境に育っても平等な教育を保証する、それが国民の教育権思想の根幹である。権利行使によって如何なる不利益も受けないのでなければならない。下位のものは低い所得を受け入れざるを得ない状況に眼を向けなければならない。上位の者が特権を独占することと同時に問う必要がある。
 順番が狂っている。教師がそのことに反射反応しないとは・・・。仕組みをまず壊さねばならない。
 孫文は、武力侵略行為の有無を独立の要件にする大英帝国の非文明野蛮を、英外交官に突きつけられたのである。彼にはそれを恥じる教養はあった。
 我々は点数成績低迷に苦しむ生徒に、受験戦争参戦を煽り賛美しているのだ。
 貧困を産み出す仕組みそのものとの闘いを回避する言い訳としての善意の補習。なるほど前者は共謀罪の対象であり、後者は政権協賛の幻術である。

  自らの安寧のために占領軍に沖縄を差し出したおぞましい過去を、この国の支配者は持っている。日本列島そのものを浮沈空母として提供して恥じない政権まであった。いま日本の政権は、せっせとアメリカの戦争政策に協力を惜しまない。
 独立の概念が未だに無いのである。理念もない。従って外交は従属か支配しか想像できない。孫文のように外交による平和と独立を実現するには、先ず自立しなければならない。

追記  荻生徂徠は、仁とは心のことではない、その日暮らしの細民を食えるようにすること、正業に就かせる、そういう社会的定義を仁に与えている。朱子学が慈悲などを持ち出して、こころの問題にするのを『政談』で厳しく批判している。18世紀はじめのことである。

賢くなった野郎ども。・・・質朴な生徒・・・それがよくなってきた 5

                                                                                    承前
  2002年秋、ようやく二学期。行事だらけで気が重い。外部から見られて、管理はきつくなる。日記に授業のなかみが書いてある。一学期は、学年が同じでもクラスごとにテーマを変えていた。同じテーマでも内容は同一ではなかった。三年四組では、クラスの中が同調しない三つのグループに分かれていたので、複式学級風に、三つの授業を同時に展開した。二学期になってどのクラスもテーマだけは揃えられるようになった。しかし展開はそれぞれに違わないわけにはゆかない。

  9月16日    
  一年生が二人つまらなそうにベランダに寝そべっている。
  『授業中に話してたら「殺すぞ」って、ショックで』
  『もし、その先生が君たちの要求を取り入れたら授業を聞くかい』
  『もちろん』起き上がってそう言う。
  『聞くのは要求の一部分かもしれないよ』
  『それでもいい』
  たぶん本当だ。二人とも僕の授業の時は、周りに『静かに』と促しているのだから。

9月17日(火)
  社会科教室で文化祭の片づけの三年生に
 「文化祭は満足したかい」と聞いた。
 「全然・・・三年間づーっとつまんなかった・・・だってさ、この学校じゃ何でも先生が勝手に決めちゃうんだもん、今回の日程も最悪」夏休み直後では、自然な盛り上がりは形成されない。
  「勝手なこと押しつけといて、そんなやつの授業聞けるわけないじゃん」
  「言葉遣いが悪いっていう先生がいるけど、なんで尊敬できないやつに敬語使わなきゃいけないの」
  「都合悪くなると逃げちゃうんだもん、信用できない」
 「この学校は、先生と生徒の仲が良いと言う先生や生徒がいるけど、生徒の教員に対する感想は二極化してるのかな」
 「そんな事無いって、みんなお終いにしたいって、思っているよ」

9月17日(木)
  Mさんが、異動で勉強しなくなった自分自身に戸惑っている。「楽な学校」に行って、新たに勉強しないでも済んでしまう。奇妙だがこれも依存だ。学ぶ動機は、完全独立変数でなければならない。

  富士高でTさんが、精神的に失調していると風の噂に聞いた。生徒たちが、何でもほぼ「自主的」にやってしまうかららしい。教師に依存しない。授業に、研究に集中できるではないか。そうか彼は、依存してくる生徒に依存していたのだ。自立できない者同士の相互依存、それは「麗し」くも自己破綻に至らざるを得ない。
9月22日(日)
  「どんな人間であっても、その存在意義をつくらずにはおれない。たとえ警備員であっても」とはT大学で憲法を受け持つ高校同窓生Mの持論。                   
 「よい授業」をするという教員としての存在意義を失った教員は、些細な事柄に重大な意義を見いだす。そして、それに対する逸脱を取り締まる事に、辛うじて彼の存在意義を発明する。藁をも掴む心情から絞り出した意義だ。しかし藁である事を知らねばならない。

9月25日(水)
  四時間目、5組の生徒四人が廊下にいる。
  「先生の授業には、間に合うように来たの」
  「何処にいたんだ,駅前かい」
  「秘密、でも四時間目は先生の授業だからそろってきたの」
  「日記に書いておこう」
 「先生でもこんなことがうれしいの?」 にゃっと笑っておいた。

  パレスチナとイスラエルを授業で考えた。最初にテロリストだったのは誰なのか、自爆する青年たちの村と生活はどうなっているのか、我々はそれを知ろうとしたのか、9.11には世界が涙を流すのに、パレスチナ人の虐殺には反応しない我々に罪はないのか。
  知らないこと,知ろうとしないこと、が罪なのだ。ジェニンの現場で泣き崩れてしまったアメリカ女性は、「祖国の実態を知って」泣いたのではない。知ろうとしなかった自分自身の罪深さに泣いたのである。

9月28日(金)
  フォスターの『民主主義に万歳二唱』から授業を始める。多様性と批判可能性故に彼は民主主義を擁護した。三唱目は止めておいて。なぜか、もし多数が戦争を望んだとしよう。多数決に従うのは誰なのか、多様性と批判可能性をどう保証するのか。

10月7日(月)
  「昨日ヨーロッパで、アメリカの戦争に反対するデモがあったでしょう。見ちゃった」
 唇に二つのピアスをつけていた4組のkさん。休み時間、後ろから僕をたたいて言う。
 「髪の毛、黒いでしょ」
 「うーん、慶応の女子大生かと思ったよ」ほんとにそう見えた。茶髪を辞めさせたければ、茶髪を忘れることだ。本人だって似合わないとは思っている。しかし教員の理不尽な言動に従順になるのは、自尊心が許さないし、仲間内では最大の恥なのだ。だから「指導」が激しくなればなるほど、反発も極まる。反発は怒りを伴い、学習意欲を阻害する。

  「この前の、ビデオ惹き付けられちゃった。見るぞって、そんな気になっちゃった」
  6組で最も進級の見込みのないといわれている生徒。南京大虐殺に関わった元兵士の証言を聞いた。日本軍による二千万人殺害・米軍の原爆投下・アフガニスタンの爆撃・強制連行そして拉致連行事件に底通するのは何か。「戦争は誰だってイヤ」と言う発言は真実なのか。・・・

10月11日(金)
   五時間目、心地いい風が隣接する森から教室を吹き抜けているのに、授業観察で校長がいる。
 「少し昼寝しよう。寝過ぎると疲れるが、短時間の昼寝は脳にとてもいいと生理学者たちは言うよ。試してみよう」
 「昼寝より先生の授業の方がいいな」
 でも少し寝てみた。

10月16日(水)
  武谷三男の三段階論で、ルペンの発言・援助と自立をテーマに講義。 

10月21日
   放課後、三年生のIさんが、今までで最も印象に残ったことと言って
 「数学が全く苦手だった私と、英語が苦手な友達とで、試験前の一週間、毎日互いに教えあって、二人とも信じられない点を取ったこと」をあげた。
 教えあう関係・分かち合う関係が構築されなければならない。これは権利である。それを組織化するのは、学校の義務である。学習の成果が私有化され偏差値に依存し、進学校と底辺校に分解・隔離されてしまうのである。

追記  Iさんとその友達と同じような結びつきが、KH高にも他の学校にもたくさんあった。下町の工業高校の元番長たちの学習意欲を高めたのは、小中学校ではいじめ尽くされ、すっかり自信を失っていた生徒と仲間になってからである。MH高では、物理が解らなくて泣いた女子が火種になって、テスト前一週間の勉強会がつくられ、星の出る時間まで学び合っていた。15人から20人が集まって卒業まで続いた。彼らの学び方の特徴は、理解することであって、点数を稼ぐことではなかったのが印象的である。点数は理解の目安として捉えられていたのである。

患者教師・鈴木順先生

  戦前、ハンセン病患者は、「絶滅すること」によって皇国に尽くすことを強いられ、ハンセン病療養所に死ぬまで隔離された。絶滅隔離と言われた所以である。従って治療らしい治療はなく、患者として扱うどころか、療養所内のあらゆる労働にこき使った。患者教師もその一つである。子どもも死ぬまで隔離するから、義務教育は猶予、すなわち放置された。
 どの療養所でも、患者が自力で「寺子屋」を作り、少し教育のある者が教えた。ハンセン病の子供たちは二十歳まで生きられるかと言われた時代である。患者教師は、就学猶予が解除された戦後も療養所教育に大きな役割を果たした。しかし教育委員会は、最後まで彼らの報酬を負担していない。顕彰さえしていない。患者と家族を絶望の底に追い込んだ絶対隔離の発案者光田健輔は、こともあろうか文化勲章をもらっている。

 毎日の授業の実態はどうだったのだろうか。病状悪化で教室を去って、病棟に入った鈴木順先生の随想がある。病室入り数ヵ月後、学園は東村山町立小中学校の分教室となった。彼は生まれ変わった学校を見にゆく。
       拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社刊より引用する。


 「…辞めさせて貰ったのは、去年の夏である。…「先生。早く癒っておいでね」子供達が両腕にぶら下がって、そう言ってくれた時には、泪が出た。… お盆も近い或る日の午後。…ぶらりと病室を出た。…築山に登ると、開け放した窓を通して教室の中がよく見えた。
築山は写真の左奥、教室の南側にある。
 私がいた頃は、三つある教室を、中学三年のA組、中学一・二年のB組、それに小学部のC組と分けて使っていた。私は小学部のC組を受け持っていた。 
…築山から見ていると、教室で勉強している子供達が一人ひとり見わけがついた。誰だか判らないのが、その後転校して来た子供なのだろう。真ん中の教室にO君がいた。Tちゃん、Kちゃんもいた。その西側の教室には、Y君とSちゃんの姿…去年の夏は神経痛と熱瘤で休みがちだったAちゃんも見えた。 
…私は、欠席している者が一人もいないのを知って嬉しかった。東側の教室では、音楽の時間だったのか、生徒が起立したかと思うと、やがてオルガンの音が響いてきた…(鈴木先生は、小学校の思い出を書いたある画伯の随想を読んで、物思いにふける)     …チン、チン、チンというベルの音が聞こえた。どの教室も一しきりに騒がしくなって、窓が閉められた。…やがて、子供達は、向こう側の玄関から下駄に履き替えて出てきた。 
…ちっとも変わっていない。だが私達が(故郷の学校で)やったように、素っ飛んで帰ってゆくものがいない。私には、何もかも判るような気がして、胸の熱くなるのを、どうすることも出来なかった」   『多磨』1954年5月号


  描かれているのは、本校からの派遣教師・青山先生赴任翌年の分教室である。複数学年を一つの学級として扱う複式授業であったことがわかる。通常なら五〇分の授業内容を僅か三〇分でこなす分教室患者教師の力量は、複式という困難の中で発揮されていたことになる。小学生全体も中三も一クラスであるのは、ハンセン病の潜伏期が長く年齢の上昇とともに発病者が増えるためである。青山先生がこの頃の授業の様子を、氷上先生がその五年後を紹介している。
 
 「三年生男子一名・四年女子一名男子二名・五年男子一名・六年女子一名、全部で六名居りますが、それを一学級とみなして授業形態をとるのが建前になっています。児童の心理状態、能力の差によりまして、合同で又は二グループにわけてその中で複式に又は個別的に授業するための時間割で経営しております。 幸いに私の来る前からいらした園の先生三名にお手伝いを頂いて居ります。それで一つの教室で三人の先生が同時に授業することもあります。猶広い場所がいる時は公会堂をかして頂くこともあります」   『多磨』1954年5月号


 「現在分教室は小学生七名、中学生十五名…派遣教官一名ずつ、補助教師は小学に三名、中学に四名と、習字、図画、家庭に一名ずついます。教室は五ツしかありませんので学年によっては複式授業も余儀なくしている組もあります
                         藤田四郎(氷上恵介)「分教室と子供たち」『多磨』1959年3月号

  複式授業はやがて小さな教室を更に分割して解消されるのだが、複式授業や少人数の困難を患者教師は、どう考えていたのだろうか。専門教科尊重の人的体制は整っていた。 園の様々な立場の人間が分教室教育を語ったことがある。


氷上 生徒が少なくて、一対一の授業もあるでしょう。実力はつきますね。森 生徒数が少ないと、完全に理解してくれないと、先へ進めないわけです。たとえ一学年の全教程をやれなくてもそれはプラスですね。でも学校教育の正常な姿でないことは確かですね。ここの学級に問題があるとすれば〝らい″ということより、それにあると思います。…太田 普通では学校教育と、家庭教育は分離してしまって、よく問題になるのですよ。ここでは、それが完全に一つになっていて、非常に良いことだと思うのですよ。井上 家庭教師に近い…。子どもが興味さえ持てば成績も良くなるわけですね。

       「座談会 鈴木敏子著「らい学級の記録を巡って」『多磨』1964年2、3月合併号
  氷上=氷上恵介(患者教師・作家)  森=森牧太(患者教師)太田=太田信夫(園会計課長)井上=井上務(園検査科職員) この他にも、三木義男寮父、光岡良二(患者教師・詩人)、田尻敢医師らが出席している。生物の解剖や実験では、全生園に隣接する国立ハンセン病研究所の研究者も顕微鏡、動物、解剖道具を抱えて教室にやって来た。報酬はない。

追記 ハンセン病特効薬プロミンが予算化されたのは、ようやく1949年である。鈴木先生もプロミンによる治療を受けたと思われる。先生を、様々に調べ問い合わせしたが、この随想以外に記録がない。「素っ飛んで帰ってゆくものがいない。私には、何もかも判るような気がして、胸の熱くなるのを、どうすることも出来なかった」と書いているのは、後遺症で走れない子もいたし、家族の待つ家もないからである。
 青山先生は、東村山町教育委員会から派遣された「派遣教師」である。はじめ、自分の幼児への感染を心配したが、専門家の説明を得て、自ら分教室勤務を希望、分教室の普通教育の基礎を患者教師と共に築いた。

消費者教育ではなく、反消費運動と反Racismを

 ドイツ、ハンブルクのスーパーマーケットが「多様性が欠如した世界がどんな光景 なのか」を見せる為に、店内の外国製品を全て撤去。衝撃的な光景を公開している。
blog  「Supermarket Removes All Foreign Food From Shelves To Make A Point About Racism, And Here’s The Result」
  日本では「多様性が欠如した世界」とあいまいな言い方をしているが、ドイツでははっきりと、「Racism」と言っている。

  消費者教育ではなく、反消費運動へ学生・生徒を組織化したい。生活の全てが消費に覆い尽くされ、植民地化。欲望に中毒した若者は、自らの少なくとも二分の一は、消費者では無い。
  ハンブルグのスーパーに学んで、例えばヘイト言説の標的である、中国と韓国由来のあるいは依存度の高い文化や製品なしの高校生活を、志願者を募って実行。我々の生活全般が、文化的に物質的にも、この二か国との協力関係なしには、一時も成り立ちゆかないことが一目瞭然となる。その経過を文化祭やBLOGで発信したらいいものになる。
   条件を厳しくすれば、やまとことばしか使えなくなる。教科書は意味不明になる。カナも漢字由来だ。・・・袋物のお菓子は、衣料品は・・・

「賢くなった野郎ども」についてのジョゼフ・ジャコトの説

  ジョゼフ・ジャコトの場合、学生は19世紀初頭の大学生である。ある程度の「能力」は前提として考えられる。しかし僕の場合、学区最底辺校である。
 だが実際に授業すれば意外な好反応に、凍結硬直していた僕の精神が、まず瞬時に解凍された。しかしその反応の解釈が進まない。暫くして気付いたのは、個性差が他の学校に比べて非常に大きいことであった。それは遠足の時の私服から感じた。流行にかかわりなく、互いに真似したり同調した形跡もなく多様で似合っていた、その伸び伸びした雰囲気は「偏差値の高い」受験校と変わりない。
 そして、質問が違う。わからないこと自体を聞くのではなく、どこで、何を見ればいいのかやどう調べるのかを問うのである、あくまでも自分で調べようとする者が多いのだった。このことには、次のS高校に転勤して、質問が単なる事項に留まる生徒が多いことから思い当たった。迂闊だった、なぜ自分で調べることにこだわるのかを、KH高で調べておくのだった。しかしKH高ではそれが一般的であったからこそ、僕は気付かなかったのだ。次のS高はほとんどが受験して、教員も入学者の偏差値を上げることに目の色を変えていた。不思議であり、又当たり前なのかもしれない想い、この疑問を生徒たちにぶつけてみた。何度かやり取りをして解ったのは、「受験は、何故を問わず結果だけを単語と言う形で問うからではないか」だった。そうか、だからS高では、穴埋め式のワークシートを使う授業や穴埋め問題50 問式のテストをやる教師が多かったのか。
 KH高の前に僕がいたMH高も大学受験者は多くなく、しかし入学する生徒たちの成績は幅広く分布していた。ここでもKH高と同じような質問をする生徒が多数派であった。
 法政大学出版局の ジャック・ランシエール著『無知な教師』が、ジョゼフ・ジャコトを取り上げている。日本では彼を風変りな教育者として揶揄する雰囲気がある。正当な評価を期待したい。

  ジョゼフ・ジャコトは フランス革命に参加した軍人、教育者もであった。帝政期に国外追放、ネーデルランドに亡命。大学でフランス文学を教えることになったが、ジャコトは現地の言葉を解しない。学生はフランス語を知らない。
  にもかかわらず、結果はジャコトの予想を上回る。学生たちは徐々に文筆家の正統なフランス語を話し、書くこともできるようになったのである。一体何が起こったのか。
  彼が授業でやったことと言えば、フランス作家の『テレマコス』の対訳本をを学生たちに渡して、対訳本を見て自分でフランス語を学び、書かれた内容をフランス語でジャコトに言うことを、通訳を通して指示したこと。授業の間、ジャコトはフランス語については何も教えていない。『テレマコス』の内容についてフランス語で学生に様々に問いかけ、注意を喚起し、フランス語で話しかけていただけで、学生にはフランス語についての知識や文法解説等が何も「説明」を与えらなかったのである。
  ジャコトはこの経験を考察、様々な実験を行っている。その結果彼がたどり着いた結論は何だったか。

 まず彼には、すべての人がことばを話す以上、知的平等は目的ではなく知的平等はすでに存在している、という前提がある。更に彼は、人類共通の知性のコードはないと言う、だから人は他人に理解させ、他人の知性を理解するためには、自らのすべての技を意識的に動員しなければならない。つまり我々が学ぶとき、カーナビのように手助けするものはない、各自が自らのすべてを覚醒させて其々の知的地図を、そのたびに描かなければならない。カーナビに当たるのが「説明」である。カーナビは特に未知の土地では便利だが、我々の地理感や好奇心は衰弱する。
 「説明」がなくても学生たちは学びうることをジャコトの学生は証明した。理解できない無能力な生徒が「説明」する教師を必要としているのではない。逆に「説明する教師」が、無能力な生徒を必要としているのではないかとジャコトは言う。
  無能な学生とは何か。blog「何もしないことをする・誰が無能なのか」の後半で、数学に天才的な能力を見せる少女と対する教師のことを書いた。無能な生徒は、教師がつくるのである。
  ジャコトの「説明とは教育学の神話にすぎない」はこういう文脈で理解できる。
 自らを優秀と自認する者は、物事を単純なものから複雑なものへ、部分から全体へいう手順で理解していく。優秀と自認する者が劣るとみなした人を自らの状態に引き寄せようとすること、それを「説明」と言う。
 理解できない人や劣った人が説明を欲しているのではない。説明を行うことで自らを常に上位に保つために無能力な者が期待されている。

 教える者と学ぶ者の意志は一致するという点では、どんな教師も変わらないが、知性の関係は大いに異なる。「説明する教師」の場合、学生の知性は教師の知性に向かう。その結果、学生の知性は常に教師の知性に従属し、教師を越えることはない。ジャコトの場合、学生の知性は彼の知性とは関わらない。何故なら彼は、フランス語の説明はしていない。学生の知性は、『テレマコス』という書物や作家・作品自体の知性に直接結びつくのである。学生は「説明する教師」に支配されることなく自らの知性の力を存分に発揮させることができる。それゆえにジャコトは自らを〈解放する教師〉と呼んだ。たいして「説明する教師」は「愚昧化する教師」と呼ばれることになる。「愚昧化する教師」とは、教育方法を熟知した優れた教師のことである。このような教師は、その素晴らしい教授法によって学生を魅了し、教師なしでは物事が理解できないと学生に思わせ、学生の知性を働かせなくさせる。学生の知性を働かせなくさせる点では、暗記や穴埋めばかりさせている教師も、教授法に優れた教師も同じなのだ。

  このジャコトの説に巡り合うまで、僕はKH高で起きた一連のことをうまく説明できないできた。研究会でも驚嘆されはするがそれまでであった。しかしジャコトの説を知ったとき、僕はKH高からS高に異動、KH高は統廃合で消滅した。KH高の管理主義的雰囲気に僕は何度か退職を考えた。しかし生徒たちとの授業(blog「いきなり賢くなった。・・・質朴な生徒・・・それがよくなってきた 1、2、3、4」)打って変わって充実した発見と自己研鑽の日々であった。幻かと思うことがある。

  ジャコトが説明をせず、学生を『テレマコス』という作品や作家の知性に直接結びつけたように、僕は敢て「難しく、わかりにくい」ことを承知で、人文・社会科学の先端の話題や論争、時には自然科学まで、僕自身が面白く重要だと考える素材を日常を起点に直接授業にした。だから、僕の語りを通り越して、その奥にあるものに生徒たちは結びついたのではないかと思う。もう一点、我田引水をしたい。それはジャコトが自らを「解放する教師」と位置付けたことに係わる。ジャコトと学生の間には言葉以外に互いを隔てるものはない。しかしKH高の生徒と教師の間には、管理主義的あるいは能力主義的偏見の厄介な壁がある。それを破らなければ「解放する教師」とはなりえない。この件については(blog「いきなり賢くなった。・・・質朴な生徒・・・それがよくなってきた 1」)をご覧いただきたい。最初の、教師たちがもっとも忌避したクラスでの出来事である。
  KH高の授業評価アンケートで、難しい授業と判らない授業は、毎年断トツ一位で僕の授業であった。教室で生徒に詫び言を言うと
 「先生の授業は、あれでいいの」と皆して様々に言う。
 「難しいからいいし、判らないことが一旦判って、判らないことが増えるのがいい」とも。そういう反応を期待してはいたが、面と向かってそういわれるとほっとする。
 「では、今まで通りでいいのかい」と問うと
 「次の授業までの、中途半端なもやもやが楽しみ」
 「不安だからいい」と言う。
 「では僕の君たちに対する評価注文を言おう、・・・満点。ただしもっと無遠慮な質問があると嬉しい」というと
 「先生の授業は質問が出てくるのに時間がかかるよ、やっぱり難しいや」と。

  当時の日記2003年3月27日に面白いことが書いてある。
 「一年生の答案に、授業中に、しかも僕が喋っている間にさえ質問する生徒がいる事への愕きと、何でもない日常的な事が次第に複雑で難しい問題になっていく事の面白さを述べているものがあった」

追記 今、痛感するのは、彼らに張り付けられた「低学力」というレッテルは、社会的にあるいは政策的に造られたものだということである。「底上げ」は簡単なことであり、我国の学力分布の特徴である低学力層の厚さは克服できるていうことである。
 問題は、「低学力」が政策的に形成されたことにある。これは政治闘争・階級闘争の範疇である。熾烈な抵抗と懐柔が予想される。



若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...