どの療養所でも、患者が自力で「寺子屋」を作り、少し教育のある者が教えた。ハンセン病の子供たちは二十歳まで生きられるかと言われた時代である。患者教師は、就学猶予が解除された戦後も療養所教育に大きな役割を果たした。しかし教育委員会は、最後まで彼らの報酬を負担していない。顕彰さえしていない。患者と家族を絶望の底に追い込んだ絶対隔離の発案者光田健輔は、こともあろうか文化勲章をもらっている。
毎日の授業の実態はどうだったのだろうか。病状悪化で教室を去って、病棟に入った鈴木順先生の随想がある。病室入り数ヵ月後、学園は東村山町立小中学校の分教室となった。彼は生まれ変わった学校を見にゆく。
拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社刊より引用する。
「…辞めさせて貰ったのは、去年の夏である。…「先生。早く癒っておいでね」子供達が両腕にぶら下がって、そう言ってくれた時には、泪が出た。… お盆も近い或る日の午後。…ぶらりと病室を出た。…築山に登ると、開け放した窓を通して教室の中がよく見えた。
私がいた頃は、三つある教室を、中学三年のA組、中学一・二年のB組、それに小学部のC組と分けて使っていた。私は小学部のC組を受け持っていた。
築山は写真の左奥、教室の南側にある。
…築山から見ていると、教室で勉強している子供達が一人ひとり見わけがついた。誰だか判らないのが、その後転校して来た子供なのだろう。真ん中の教室にO君がいた。Tちゃん、Kちゃんもいた。その西側の教室には、Y君とSちゃんの姿…去年の夏は神経痛と熱瘤で休みがちだったAちゃんも見えた。
…私は、欠席している者が一人もいないのを知って嬉しかった。東側の教室では、音楽の時間だったのか、生徒が起立したかと思うと、やがてオルガンの音が響いてきた…(鈴木先生は、小学校の思い出を書いたある画伯の随想を読んで、物思いにふける) …チン、チン、チンというベルの音が聞こえた。どの教室も一しきりに騒がしくなって、窓が閉められた。…やがて、子供達は、向こう側の玄関から下駄に履き替えて出てきた。
…ちっとも変わっていない。だが私達が(故郷の学校で)やったように、素っ飛んで帰ってゆくものがいない。私には、何もかも判るような気がして、胸の熱くなるのを、どうすることも出来なかった」 『多磨』1954年5月号
描かれているのは、本校からの派遣教師・青山先生赴任翌年の分教室である。複数学年を一つの学級として扱う複式授業であったことがわかる。通常なら五〇分の授業内容を僅か三〇分でこなす分教室患者教師の力量は、複式という困難の中で発揮されていたことになる。小学生全体も中三も一クラスであるのは、ハンセン病の潜伏期が長く年齢の上昇とともに発病者が増えるためである。青山先生がこの頃の授業の様子を、氷上先生がその五年後を紹介している。
「三年生男子一名・四年女子一名男子二名・五年男子一名・六年女子一名、全部で六名居りますが、それを一学級とみなして授業形態をとるのが建前になっています。児童の心理状態、能力の差によりまして、合同で又は二グループにわけてその中で複式に又は個別的に授業するための時間割で経営しております。 幸いに私の来る前からいらした園の先生三名にお手伝いを頂いて居ります。それで一つの教室で三人の先生が同時に授業することもあります。猶広い場所がいる時は公会堂をかして頂くこともあります」 『多磨』1954年5月号
「現在分教室は小学生七名、中学生十五名…派遣教官一名ずつ、補助教師は小学に三名、中学に四名と、習字、図画、家庭に一名ずついます。教室は五ツしかありませんので学年によっては複式授業も余儀なくしている組もあります」
藤田四郎(氷上恵介)「分教室と子供たち」『多磨』1959年3月号
複式授業はやがて小さな教室を更に分割して解消されるのだが、複式授業や少人数の困難を患者教師は、どう考えていたのだろうか。専門教科尊重の人的体制は整っていた。 園の様々な立場の人間が分教室教育を語ったことがある。
「氷上 生徒が少なくて、一対一の授業もあるでしょう。実力はつきますね。森 生徒数が少ないと、完全に理解してくれないと、先へ進めないわけです。たとえ一学年の全教程をやれなくてもそれはプラスですね。でも学校教育の正常な姿でないことは確かですね。ここの学級に問題があるとすれば〝らい″ということより、それにあると思います。…太田 普通では学校教育と、家庭教育は分離してしまって、よく問題になるのですよ。ここでは、それが完全に一つになっていて、非常に良いことだと思うのですよ。井上 家庭教師に近い…。子どもが興味さえ持てば成績も良くなるわけですね。」
「座談会 鈴木敏子著「らい学級の記録を巡って」『多磨』1964年2、3月合併号
氷上=氷上恵介(患者教師・作家) 森=森牧太(患者教師)太田=太田信夫(園会計課長)井上=井上務(園検査科職員) この他にも、三木義男寮父、光岡良二(患者教師・詩人)、田尻敢医師らが出席している。生物の解剖や実験では、全生園に隣接する国立ハンセン病研究所の研究者も顕微鏡、動物、解剖道具を抱えて教室にやって来た。報酬はない。
追記 ハンセン病特効薬プロミンが予算化されたのは、ようやく1949年である。鈴木先生もプロミンによる治療を受けたと思われる。先生を、様々に調べ問い合わせしたが、この随想以外に記録がない。「素っ飛んで帰ってゆくものがいない。私には、何もかも判るような気がして、胸の熱くなるのを、どうすることも出来なかった」と書いているのは、後遺症で走れない子もいたし、家族の待つ家もないからである。
青山先生は、東村山町教育委員会から派遣された「派遣教師」である。はじめ、自分の幼児への感染を心配したが、専門家の説明を得て、自ら分教室勤務を希望、分教室の普通教育の基礎を患者教師と共に築いた。
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