乞食根性丸出しで「もらえる」「もらう」と言うな

貰い物の勇気でレジスタンスは出来ない
    金メダルplayerの活躍や「芸能人」の登場を見て、「おかげで元気を貰った」「勇気を貰った」と人が言うようになってだいぶ経つ。天皇一族を見かけて涙する者までいる。しまいには、首相が居間で貴族気取りの脳天気な姿を見て、怒るどころか「励まされた」と言う輩まで出る始末。
 漫画や映画に登場した場所を「聖地」と呼んで有り難がり、聖地巡りまで流行る。

 「元気」も「勇気」 も他人から貰うものではない。自分自身の生き方や決意から生みだすもの、自分自身の人生の「主体性」を込めた単語だ。それを他人に載せて有り難がる手軽さ。自分の人生が軽くなったと知るべきだ。漫画やテレビに出た場所を聖地と言うなら、自分の日常の場は何と言うのか。俗地や汚穢地か。そのことに、気付け。個人の尊厳を自ら毀損するこれらの現象の卑屈さに。

 運動会で入賞すると、ノートや鉛筆を校長が手渡しする。あれも「貰」うと言ってしまう。英語ではgetを使って、競技した者の主体性が貫かれる。卒業証書も貰うと言うな、自らの能力でget(獲得)するものだ。だから校長や日の丸に恭しく頭を下げてはならない。
 武将や貴族から下げ渡された「貰い物」を家宝にする詰まらない習慣がある。武将が自分で作ったものならまだしも、民・百姓から巻き上げた金で購った物だ。はっきりそう言え。

  新聞やテレビの景品付き商品の宣伝でも、今なら何々が「貰える」と可笑しな物言いをする。「貰える」の主語は何だ。
 政府の無策で生活を破戒された人々の、必死の叫びと行動で漸く実現しそうな「一律十万円」まで、「貰える」と口走ってしまう。
 宗教政党から「頂戴する」のではないぞ。お前は主権者だ。どこから出る金かよく考えろ。

 そして、「貰った」つもりの元気と勇気を何に使えるか、考えたらいい。そんなものは、紛い物だということに気づくはずだ。
 「貰」という字は「お貰いさん(乞食)」や「ものもらい(眼病)」に使った。乞食になるな、我々は全て主権者なのだ。

仕事を分け合うドイツの「持続可能性」

童話から学んだドイツのサスティナビリティ
   新型コロナウイルス感染症はドイツでも猛威をふるった。しかし、その致死率は、近隣諸国に比べて驚くほどに低い。
 医者の数が、日本は致命的に少ない(人口1000人あたり、日本は2.3人、英国2.8人、仏国3.1人、独国4.1人、米国2.6人)。ことが大きいと書いた。https://zheibon.blogspot.com/2020/04/blog-post_8.html
 だが一人で背負い込まず「働かない」文化=ワークシェアリングを許容し合う豊かさにも注目する必要かある。

 蜂や
蟻は常に忙しげだが、実際に働いているのは2割から3割に過ぎない。しかし危急の事態に力を発揮するのは、怠けているように見える蜂や蟻である。普段から全員が働きづめであればいざという時、集団は疲弊して存続できなくなるのである。あらゆる組織が、働かない者を常に確保しておく必要性があることが分かる。

「残業せず、休暇はしっかり取る」ドイツ。2018年OECD38カ国のデータでは、ドイツの労働時間が最も短い(日本は22位)
   残業はしても「長時間働く人ほど評価が高くなる」わけではない。ドイツ人も働かないというわけではない。
 管理職は仕事内容で給料が決まる、それが労働に於ける世界標準である。彼らは労働時間は決決められていない、残業代もない。しかし、ガツガツ仕事で上を目指す人間は進んで残業するし、家に仕事を持ち帰ることもあるという。

 時間労働者は、1日の上限は8時間、上限を過ぎて働いた分は残業代ではなく時間で補償される。つまり、その分他の日に早く帰ったり、貯まった残業時間で休暇を取ることで還元される。この労働時間管理システムは特殊なものではなく、ドイツで普及しており、「労働時間口座
Arbeitszeitkonto)」と呼ばれる。ただし、大企業以外は事情が異なる。ドイツでは10時間以上の労働は違法となるため、日本同様サービス残業もあるからだ。それでもそれでも「長時間働く人ほど評価が高い」という評価はなく、他の人が帰らないから帰りづらいことはない。仕事の内容が契約で明白だからである。

 個人の長い休暇で、取引に差し障っても社会はまわる。そう社会は構成されねばならない。社会のために個人に我慢を強いることの愚かさを知るべきである。

 ドイツの年間有給休暇は、6カ月勤務で年24日以上。日本は6カ月勤務で年に僅か10日。更に忘れてならないのは、ドイツでは有休休暇と別に病気休暇が制度化されていることである。

 取引相手の担当者が休んでいる時、事情が分かる人が他に居ないか聞くと「その担当は自分じゃないから分からない」と軽くあしらわれる。社内で鍵を保管している人が長期休暇に入ってしまい、書類キャビネットが開けられなくなる。仕事は個人に属するからである。
 客へ迷惑を掛けないシステムを徹底ししない。お互いに迷惑を掛けあい、不便をかこちあいながら生きる社会なのである。

 結局我々日本人は、たかが単なるシステムのために首を絞めあいながら生きている。職場のいじめやパワハラは構造的なのだ。
 迷惑と不便を許容すれば、他人が何をしようと同僚や顧客が自分にどのような評価を下すかも問題にしない。 

 日本なら直ぐ携帯で呼びだすことでも、休みに入った人の携帯にはかけない、それが常識化している。仏国会は勤務時間外の連絡を法で禁じられた。

 皆勤や精勤を式や賞状で褒めることが如何に愚かなことか、今更気付いても既に手遅れ。少なくとも学校は過労死やDVの責任を負わねばならない。
   僕は皆勤が習慣になった生徒たちに、通学電車で都心まで乗り越す
楽しみを教えた、実行も奨励した。平日の都心の雰囲気は、彼らには新鮮な発見だったらしく、暫くは教室の興奮が収まらなかった。
 そうでなければどうして教師が自由に休めようか、ストライキも打てない。それは義務とモノだけが増えてゆくゴミ屋敷的人生。卒業式で皆勤や精勤の生徒が次々と呼ばれることほど恥ずかしいことはない。 
 血が出ても死人が続出しても、「無駄」を徹底的に排除し、社会の持続可能性の根幹を断ち切る起業家や政治家そして教育舎たちは、日本が短期間に疲弊してしまうことを望む「売国奴」に違いない。その証拠にやけにカタカナ語をひけらかす。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...