中学教師過労死ライン57% と、休む権利・休ませる義務

 「京都の旭丘中学枚・・・かつて修学旅行で東京に来たとき、熱海で一泊した。そのとき食べるのも寝るのも子どもといっしょ。寝る段になったら、教師は廊下に出て、そこにふとんをしいて寝たそうである。子どもや教師、そのほかの行動についても、宿の女中の感嘆のまとであったという」 『金沢嘉市のしごと4 校長日記』 あゆみ出版 p152
  敗戦後のまだ貧しい時期、学校運営は父母の寄付に依存していた。旭丘の教師たちは父母から一切金をとらない方針を立て、不足分は公費をPTAと共に行政に要請した。しかし足りない。その分は教師がすすんで被ったのである。しかし、それが平和教育や素晴らしい生徒自治による行事などと共に、中身抜きに偏向赤化教育と詰られたのである。
 こうしたことも手伝って、必要以上に頑張ってしまう「癖」が日本の教師に根付いてしまった。だから家が貧しい子たちのために、様々な行事も引き受ける。余裕のあるうちの子は泊りがけで海水浴に行く、子どもの誕生会をして友達を招く。それでは貧しいうちの子がかわいそうだからと、学校が引き受け、臨海教室やクラス誕生会をする。ひな祭りや七夕もクラスでやる。貧しい家庭、休みの取れない家庭は教師たちを頼ることになる。それを日本の社会はいつの間にか、学校の機能・役割だと思い込むに至ったのである。
 スポーツも学校が引き受けた。全国大会の組織まで教師たちは引き受けてしまったのである。今では、部活の成果が生徒を集め偏差値を上げる手段ともなり、今更引くに引けない規模になっている。
  何故我々は、貧困や労働条件の問題を、それ自体として取り上げ闘わないのだろうか。子どもがかわいそうという問題に置き換えてしまう。置き換えて教師に回してしまう。迂回しているうちに本筋を見失う。 
 多分労組が、企業別であることが足かせとなっている。強い組合のある大企業では、休暇も賃金も確保できても、零細企業ではそうはゆかない。だから階級意識より企業一家意識を身に着けてしまう。零細企業労働者のために闘う連帯は生まれない。かと言ってそれを補う社会保障制度はおくれに遅れている。
 それゆえ、貧しい者はいつまでも貧しい。それを毎日間近に見ている教師は、それを放っておけない。問題が深刻になって、ストやデモで訴えると、待ち構えたように「子どもを放っておくのか」と非難される。
 実にひどい言いがかりである。貧困や低賃金・長時間労働を放っておいて知らんぷりしているのは、誰なのか。零細企業をいじめ、社会保障は怠け者の社会をつくると言ってきたのは誰なのか、そうして政党を政府を組織してきたのは誰なのか。我々はいつも、ことの実態や本質を追及せずに、お手軽な現象に涙を流して、当たり散らしやすい者に押付けて来たのではないか。それが、貯まりにたまって、「中学教師過労死ライン57%」である。
 今来年度予算の概算が各省庁から財務省に出される時期だから、少しは期待できそうなことを言う。しかし命中しない周辺の船さえよけられないイージス艦に一隻1500億円(アメリカでは900億円 韓国 800億円 )、役立たず危険な欠陥機オスプレイに1機100億円(経費込み200億以上、米国内価格 50億~60億円)などに回せば忽ち不足する。外交力のない阿部外遊ではすでに10兆円がばら撒かれたと、自民党の村上代議士さえ言っている。

  戦前すでに、1936 年、ILO の有給休暇条約が採択されている。同じ年フランスでは人民戦線政府のもとで二週間のバカンス制度ができている。81年には自由時間省を設立し、休暇を四週間から五週間に延長。2000年には週35時間労働時間が法制化されている。
 イタリアでは、
 共和国憲法第36条「労働者は毎週の休息及び年次有給休暇に対する権利を有し、この権利は放棄することができない」
と規定している。違反すれば上司が処罰される。

 例えばフランスの子どもの夏休みは2ヶ月、宿題は一切ない。フランスでは、休暇の制度と共に、休暇の社会的インフラも整えられた。各地に安価な費用で過ごせる民宿、貸し別荘、キャンプ場などが存在している。また、子供をひと夏預かる林間学校なども避暑地や海所得が低く、社会的な扶助を受けている階層には、バカンス用に交通費あるいは滞在費の補助制度まで存在する。
                                                         
 初めての ILO 総会(1919 年)において、スウェーデン労働者が、すべての労働者に有給休暇を与えることを検討すべきとする決議を提案している。1926 年の ILO の調査では、すでに 1900 万人の労働者がすでに何らかの形で年休を持っていた。1935 年の時点で、北欧諸国、イギリス、フランス、オランダ、イタリア、スイスなどにおいて相当数の割合の労働協約が年休に関する条項を持っていた。
 年休とは週休とは異なり、連続した休日を意味していることも知る必要がある。病気休暇制度もないので、わが国では、病気のために年休を細切れに取り崩してしまう。それでも消化できない。
 元来家庭が、親子の関係を親密にするうえで担っていた行事などの大半は、働く者の諸条件をILOの諸条約を批准し諸勧告を受け入れさえすれば、 親と子のもとに戻ってくる筈である。親は子を、子は親を取り戻すのである。日本政府は口では国連中心を言うが、条約を批准しないこと甚だしいのである。

  教師の命を犠牲にすることは、教師が大学卒業後蓄えた技能を失うこと。コンピュータ化がそれを代行するとでも行政や経済団体は考えているのだろうか、彼らは儲かる。囲碁や将棋の対戦がコンピュータ化できたのは、制限された場で双方とも同じ動きしかできないからである。教育は生徒も教師も千差万別であり、教室は多様な社会を反映して、その三者の組み合わせは捉えきれない。マニュアル化も教科書化もできない。だから生きた経験の貴重さは計り知れないのである。教師を休ませるのは行政の義務である。
 中学教師過労死予備軍は実数に直せば、およそ16、000人。高校教師も実際の死亡率は中学より高い。この事実を知っていながら有効な対策を取らない行政は、過労死に対して、刑法上の罪を問われるべきである。その裁判こそ、裁判員制度に値する。

追記   裁判員制度は、冤罪事件にかかわった警察官・検事、裁判官の罪状を問う裁判や、官房長官が勝手に「問題ない」とする政治家官僚の罪を問う行政裁判などに適用すべきで、死刑判決に加担させるような使い方は主権者の定義を間違えている。

Active Learning 疑 2 「意見言えなければ、飛び降りろ」だって

 原発事故後避難を続ける生徒が通う中学校で、先月1年生の担任の男性教諭が、生徒に対して「飛び降りろ」と発言していた。学校側は担任交代を決め、保護者への説明会で謝罪。問題発言をしたのは、事故後生徒たちが避難しているいわき市に仮設校舎のある双葉町立双葉中学校の50代の男性教諭。NHKの取材に応じた複数の生徒と保護者によりますと、教諭はこの春の異動で生徒5人の1年生の担任になった。先月下旬、授業中に男子生徒が自分の意見を発表できない様子を見て「飛び降りろ」などと発言した。また、この生徒の声が小さいことへの指導だと、腹を強く押したり首を絞めたりする行為を繰り返したという。
 今月上旬複数の保護者から抗議を受けた学校側が聞き取り調査を行った結果、教諭は「飛び降りろ」と発言したことは認めましたが、腹を押したり首を絞めたりする行為はしていないと答えたらしい。学校は保護者と生徒に対し「不適切な言動があった」などと伝えた。
 学校側は2学期から担任の交代を決め、保護者への説明会を開き謝罪。
 生徒や保護者によれば、教諭が「飛び降りろ」と発言したのは先月下旬で、これは、先月18日に埼玉県所沢市の小学校の40代の男性教諭が4年生の児童に対し「窓から飛び降りなさい」などと発言したことが報道された直後だった。
                                                                            
  まさかこんなに早く、想定通りの事件が起こるとは思わなかった。「Active Learning疑 1 」で僕は
 「 思索は深く静かで暗い過程である。青少年の内面の燃え立つような激しい精神の営みであっても、外から Active であることを見ることは決してできない。高校生はそういう時期にあり、三年間丸ごとその渦中にあることだって少なくないのだ。アインシュタインや湯川秀樹の青少年時代は Active だっただろうか。鶴見俊輔はどうだったか、レオナルド・ダ・ヴィンチもラッセルも・・・いずれも孤独や自然の中で自己と向き合う少年期であつた。深く考えることが好きな少年にとってActive Learningの軽薄な雰囲気は堪らないに違いない」と書いた。

 高校生だけではない。中学生はもっと繊細かもしれない。自分の中で渦巻いているもやもやのどれが意見なのかさえわからない。解っても「意見」を言いたくない。自分の「意見」に立ち入られたくもない。または長く深い思索の微妙な途上にあって難儀しているときに、軽々しく「意見」をと催促する無神経さに絶望しているかもしれないのだ。
  意見をいうのは自由な権利である。同じように意見を言わない自由も保証されなければならない。Active Learningが教科で位置付けられれば、「意見を言う」が標準作業化されねばならない。何故なら「意見を言う」ことが評価の対象となるからである。意見を言うことは、いいことだという思い込みがある。いいことは強制してでも達成させなければならないという倒錯が、かつて管理主義的言説が席巻した頃あった。
  いいことは、私的なわがままを邪魔しないことによってのみ実現されるのではないか。そうでなければ「主体的」が泣く。

追記  「ものごとは心でしか見ることができない。大切なことは目には見えない
  中学生が「星の王子さま」のこのセリフをすぐ暗記して、大学を卒業しても口ずさむのは何故なのか。僕らはそれを知らなければならない。
  小さな星の小さな庭のわがままなバラに水をやり続けて「なじみ」になる、それは我々の日々の授業のことではないのか。
  バラのわがままに腹をたてて旅に出るのを「自己」と言い、わがままを聞き水をやることを通して「なじみ」になるのを「他己」という。

「宇高申先生」番外 小中高生の勤評闘争

                                                                                          承前

  勤評反対の札つけて授業してをれば児童がかはるがはるきてさはりゆく  
                            小谷稔「アララギ」

  代用監獄の宇高先生に休み時間ごとに声援を送った中学生は突出した例外だったのだろうか。もしそうなら、闘争支援運動の広がりを当局は余り恐れなかったのではないか。ここの映像は、京都府議会を小中学生が占拠して、勤評反対の意思を表明したものと思われる。新聞各社が、闘争の拡大は生徒に迷惑がかかると言い続けていたことへの雄弁な反証である。子どもたちにとって、誠に迷惑なのは、
勤評そのものであることは子供自身が身に染みて感じていたことで、決して、勤評に対する抗議行動が迷惑だったのではない。すり替えも甚だしい。


二つ目の写真は、勤評反対の全国統一行動を前に反対闘争を支持する高校生が都教育庁に座り込み警官に排除される光景である。僕はこの時小学四年生の秋、東京に出てきたばかりであった。五年生になって、急に業者テストを多用、席順は成績で分けられ、僕は少しづつ反抗的になり、ついに担任と学級会で対決してしまった。blog 「番外 勤評は小中学生に何をもたらしたのか 1 」
  しかし僕は、自分自身が反抗的になり担任と対決するに至った根源が勤評であることをまだ知らなかった。

ノートは先生と私の共同作品

  ドゥルーズは、優れた教師とは「私のようにやりなさい」ではなく「私と一緒にやろう」という者だと簡潔に言う。整った「完璧」な板書、よくできたワークシートの類は、前者である。ノートは「先生と私の共同作品なの」は後者を表している。それは教師主体の受動ではないし、生徒主体の能動でもない、ともに主体形成する。
  当blog(今授業してているこの生徒たちの中に、自分より優れた者がいるかも知れない)
に、前者への疑問をぶつけた。「完璧」な板書やよくできたワークシートは「自分の矮小な雛型を大量生産するのである。チェーン展開して大量生産大量消費に向かった食べ物で、成功した例はない」と。
  後者、ノートは「先生と私の共同作品なの」、については、思い出がある。

  僕が教員組合の青年部員ではなくなった頃、三年生(彼女についてはblog「あきらめさせないぞ」に書いた)が準備室にやってきて、
 「もう駄目ね、この学校」と言う。この女子生徒の「駄目」には重さがある。詰まらない授業をする教師には、職員室まで追いかけて容赦のない批判を加えていたからである。論理的な追求に教師たちが戦々恐々とする有様であった。一年と二年で現代社会を受け持った。何時追いかけてくるか、半ば楽しみにしていたのだが、ついにやって来ない。答案も発言も適切かつ個性的。発表や討論では仲間を良くまとめリードもした。しばしば社会科準備室に現れ、質問したり対話したりを楽しんでいた。 
 中学の同級生を呼んで、僕の授業に参加させたこともある。だが学校や教師への眼差しはいつも鋭かった。 
 「まず、板書がここの教師はみんな駄目」  うーんついに来たかと思った。僕は教科書も使わず、ノートも持たず、写真や文献を持って教室に行く。黒板には記号や概念、固有名詞が書き散らされ、たぶん聞いたことのない文章や、その断片が下手な図とともに並んでいたはずである。 
 「御免、言い訳しないよ」と言えば 
 「先生のあの板書、あれがいいの」と言う。 
 「中学(自由の森学園)でも先生たちの多くも、どこから板書が始まりそれがどこに飛ぶのか予測がつかない。先生の言葉のどこがどう展開してどの単語や図に結びつくのか、とても緊張したの」 
 「それじゃ、質問するのも大変だ」 
 「自分の考えと先生の言葉が頭の中で混ざり合う、時には友達の考えや言葉、質問、それが一つのまとまったものとして出てくる。だから私のノートは先生と私の共同作品」 
 ノートが生徒にとって僕と彼女の共同作品なら、僕にとって授業そのものの全過程が共同作品である。息遣いやおしゃべりまでが同調して来るのである。 
 「ではこの学校の先生の板書は、ある意味で完璧だから困るんだ」 
 「そうなの、教科書を箇条書きにしてきれいに要約してあるから、それさえ写して暗記すればテストもほぼ満点。なーんにも考えないで済む。そして何にも考えなくなる。それを先生たちに言っても理解してくれないの」 
 「君にとって完璧な板書は、思考の妨害か」

 生徒が考えないで済むのなら、教師も考えなくなるだろう。彼女は、板書の本質を探り当てている。僕がぼんやり考えていたことを、見事生徒の目から説明している。
 しかし、こうした緊張感のない板書や授業をおおかたの生徒は歓迎しているのだ。生徒だけではない、教師も。何故なら教職課程で、よい板書の書き方をわざわざ教えているからだ。それどころか大学自体が所属教員に、板書について細かい指示をする始末である。愚かだと思う。

 哲学者のアランが、大学教師の資格がありながら、高等学校で教え続けたことをもっともだと思う。この時期の青年男女は、蛹から脱皮し羽を伸ばして飛び立たんばかりの刹那の蝶のみずみずしくも逞しい美しさを持っている。みずみずしくも逞しい美しさは、明晰さとして現れ、僕らを驚かせるのである。しかし彼ら自身は、そのことに気付こうとはしない。そして我々教師の多くも無関心なのである。

追記 それでも、数学だけは板書が大切だろうと考える人は少なくないだろう。数学者の岡潔はこう言っている。
黒板とか、鉛筆とか、紙とかいう外物に頼っていると、計算しなくては正しさがわからないとなる。これでは闇夜の中をちょうちんもなしに歩いているのと同じで、いつまでたっても闇夜から抜けられないだけでなく、闇は深くなる一方である。しかも昼というものを知らないから、それが闇夜であることに気づかない」  『義務教育私話』

Active Learning 疑

   横文字のまま日本語化できない概念は定着しないし成功しないという見解がある。例えばホームルーム、なんだかわからないまま半世紀をとっくに過ぎている。曖昧且つ英語としても意味不明。ロングタイムという地方もある、余計わからない。生徒も教員もそれを概念化できない。
 「自治」と名付ければ、途端に革命的想像を働かせることが出来る。ホームルームで服装検査をやろうとすれば、拒否したくなる。君が代の練習も。それを通して君が代・日の丸の本質も見えてくる。ワークシートも良くない。
 最近ではシチズンシップ教育。エビデンスやアセスメントもなぜ横文字のままなのか。日本語化して大衆が概念を深めることを恐れているか、横文字のまま恐れ入らせるつもりか。
 自分自身の言葉で語れない集団を、隷属集団と言う。自集団の在り方を外部に左右されている。対するのは、主体-集団。自己の在り方を自ら規定して、自らの言葉を持っている。我々は相応しい日本語を見つけ、自らの言葉として語らねばならない。
 日本の職場で横文字のまま、ヤブガラシのように全国の職場に蔓延り、労働者意識を解体したのがQC。労働者の意識に定着しないからこそ、経営側の都合のいいように使われたのである。
 QCサークルは、同じ職場内で品質管理活動を「自発的」に小グループで行う活動だった。品質管理活動の一環として自己啓発、相互啓発を行い、職場の管理、改善を継続的に全員参加で行った。
 QC運動が 基本理念として掲げていたのは、①人間の能力を発揮し、無限の可能性を引き出すこと。/②人間性を尊重して、生きがいのある明るい職場をつくること。/③企業の体質改善・発展に寄与すること。の三点、どれもなんとなく良さそうで、曖昧で何でも含まれそうなところがミソである。
 TQCは  QCが主に工場などの製造部門の品質管理手法であったが、これを製造部門以外(設計部門、購買部門、営業部門、マーケティング部門、アフターサービス部門・・・)にまで適用し、体系化した。
 時間外で全員参加であるにも関わらず残業には含まれず、「主体性」が上から押し付けらる事態が多発した。毎回一件はとにかく提案する、提案したことは実行する。おかげで忽ち労働強化は実現、職場から人が消えた。基本理念が聞いてあきれる。株主と経営者にとって「生きがいのある明るい職場」となった。具体的な中身のない事柄に、意識と労力を傾けさせ、労働者と資本という関係から目を逸らせて階級意識を奪取した。労組組織率やメーデーの規模は小さくなるばかり。
 学校にも既に企業的手法は入り込んでいるが、それに「主体性」「自主性」「対話的で深い」を付け加えるのが、Active Learningである。Active Learningの効用には、当たり前らしきが羅列してあるが、中身はない。
 教育勅語の「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和)シ、朋友相信ジ、恭倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ」だけを取り上げて、どこが悪いと居直るのに似ている。「一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」にあたる部分はないのがミソ。だが、そこは反動化が進む教科書、右傾化著しい教育委員・議員の介入の方が効果的と
  Active Learningも評価と格付けから自由なら、ヴィゴツキーの最近接領域概念が生きるかもしれない。それは全生分教室の教育について、拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』で分析を試みた。他者の手助けが、ある場合には存在自体が無意識の手助けとなることもある。
 しかし仲間の助け合いの中に、忖度的競い合いと評価を埋め込み、「ボロ班」という仕掛けを発明するこの国で、最近接領域概念が生きるとは思えない。全生分教室が成功したのは、皮肉にも隔離され評価格付けが意味をなさなかったからである。予想されるのはActive Learningサークルが分掌・学年・教科ごとに「自主」的に組織されることである。
 そこで「品質管理」されるのは 生徒と教師。発言回数や内容は記録される。それを明るく競うように、へとへとになるまで行う。しかし予想されるActive Learningサークルは当然主体的自主的に作られるから業務外である。従って教員の残業問題は一気に片付く。文化祭や修学旅行の準備もActive Learning、採点も試験問題もすべてがActive Learningに流し込まれる。その成果はあらかじめ作業化された手順で点数化される。
 点数化された作業は評価管理することによって、学校を企業化する。そして格付けする。その専門家として企業から人間が送り込まれ学校の隅々までALサークルが張り巡らされると僕は睨んでいる。現代風の大政翼賛組織の末端となる。だから英語のままなのだ。中身を曖昧なままいくらでも膨張させることが出来る。
 明るい装いの滝山コミューンが電子端末装備で日本中に出現する。もともと全生研と文部省は不思議に響き合うものがあった。AL甲子園も組織されるかもしれない。万が一高校生が学校の思惑を超えてActiveになって、ごっこではない政治活動に目覚めないように予め線路を引いておくのである。

 根本的なことが抜け落ちるだろう。それは誰にとって、何に向かってActive なのかということである。アランの指摘するように、思索は深く静かで暗い過程である。青少年の内面の燃え立つような激しい精神の営みであっても、外から Active であることを見ることは決してできない。高校生はそういう時期にあり、三年間丸ごとその渦中にあることだって少なくないのだ。アインシュタインや湯川秀樹の学校時代は Active だっただろうか。鶴見俊輔はどうだったか、レオナルド・ダ・ヴィンチもラッセルも・・・いずれも孤独や自然の中で自己と向き合う少年期であつた。深く考えることが好きな少年にとってActive Learningの軽薄な雰囲気は堪らないに違いない。
 勿論深い思索が適切な表現行動を促すこともあるが、軽薄で情緒的に雷同する者のほうが目立ちやすく素早い。だから歴史ではいつも、深く思考する者は軽薄な勢力に出遅れてしまう。
 だから、官僚とそれに迎合する現場教員から生まれた浅知恵は、格差を拡大して憎悪を煽り、まともな者たちがようやく行動するころには荒野原になっているかもしれない。
 南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦はでっち上げと騒ぐのも、日本民族としての「主体的で深い学び」と言い出しかねない。

  ヤブガラシは蔓性の雑草。畑や花壇はもちろん薮まで枯らしてしまう勢いがあるからその名がついた。Active Learningは日本の学校をヤブガラシのように席巻して何も残さない。またの名を貧乏葛という。

底辺校っていうな

  底辺校という言葉はどうにかならないかと言う声は常にある。使うべきではないと言う声もある。しかし、どんな結構な名前を発見したところで、言葉が使われる対象が存在している限り、単なる言葉狩りに終わり、却って後味の悪さを残すだけである。そうした困難さ自体が、この問題の核心である。

 「ライ」という言葉も忌まわしさがまとわり着いて、患者や家族を苦しめた。ハンセン病は古くは「らい」とも呼ばれた。「らい」は皮膚病をも含む名称であり、癩者に対する差別的身分を表す言葉でもあった。明治以降は国家が「らい」患者への偏見差別を煽り立てた為、差別と偏見の固定観念が強く付与された。その固定観念を打破するために、全国のハンセン病療養所入所者の団体「全国ハンセン病患者協議会(全患協)」が病名変更運動を展開し、ハンセン病という言葉が定着している。
  しかしハンセン病者の作家島比呂志は、「癩の現実を変革することによって呼称の意味内容が変わるのだ」と言い、全患協会長として政府と対峙してきた松本馨は「強制隔離体制下の現実は、癩以外の言葉で表現することは出来ない」と怒りを込めて語っている。しかしある程度効果はあった。しかし、それは名称が変わったことから直接もたらされたものとは言えない。ハンセン病に係わる貧困・偏見との対峙・啓蒙、薬や治療など病気そのものの克服・・・などとの気の遠くなる程の患者自身の長い闘いが同時に取り組まれたからである。差別と偏見の実態がある限り、言葉をどう変えようと変えたその言葉に「差別と偏見の固定観念」は付与されるのである。 
 
 だがハンセン病療養所は生涯隔離であるのに対して、「底辺校」は、忌わしくとも三年間の「我慢」である。「我慢」が終われば思い出したくもない、だから差別偏見を告発して闘うなんて真平なのだ。
 今は廃校となった学区最低底辺校で僕が教えていた時、ある教師が多分彼の前任校であるらしい受験重点校のトレーニングウェアを着ていた。一年中、毎日、背中に学校名がでかでかと書かれた姿で、通勤し教壇に立っていた。こうして教師は「底辺校」を逃げる。自分は逃げるのだが、生徒が「底辺校」生の証しとしての制服を正しく「誇りを持って」着ないのは決して許さない。近所のコンビニはこの高校の生徒の入店を張り紙で禁じてしまった。ナチス支配下のダビデの星の如しである。
  「底辺校」の忌わしさと戦う主体はどこに存在するのか。手掛りはあるのか。あったのである。高校三原則である。当時の文部省は「旧制の中等学校間にあったいわゆる格差を是正しその平準化を図ることと、小学校および中学校とともに高等学校をできるだけ地域学校化してその普及を図ろうと」考えていた。「小学区制・総合制・男女共学」の精神を最も長く守ったのは京都府であった。
  長野県立高校では、かつて制服廃止運動があって、その影響は強く残っている。地方の都市では一つの街に3つほどの高校があって、制服を見ただけで偏差値がわかるなど偏見を助長していたことから、PTAや教員組合がかなり積極的に取り組んだ経緯がある。
                                                                                         つづく

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...