「京都の旭丘中学枚・・・かつて修学旅行で東京に来たとき、熱海で一泊した。そのとき食べるのも寝るのも子どもといっしょ。寝る段になったら、教師は廊下に出て、そこにふとんをしいて寝たそうである。子どもや教師、そのほかの行動についても、宿の女中の感嘆のまとであったという」 『金沢嘉市のしごと4 校長日記』 あゆみ出版 p152敗戦後のまだ貧しい時期、学校運営は父母の寄付に依存していた。旭丘の教師たちは父母から一切金をとらない方針を立て、不足分は公費をPTAと共に行政に要請した。しかし足りない。その分は教師がすすんで被ったのである。しかし、それが平和教育や素晴らしい生徒自治による行事などと共に、中身抜きに偏向赤化教育と詰られたのである。
こうしたことも手伝って、必要以上に頑張ってしまう「癖」が日本の教師に根付いてしまった。だから家が貧しい子たちのために、様々な行事も引き受ける。余裕のあるうちの子は泊りがけで海水浴に行く、子どもの誕生会をして友達を招く。それでは貧しいうちの子がかわいそうだからと、学校が引き受け、臨海教室やクラス誕生会をする。ひな祭りや七夕もクラスでやる。貧しい家庭、休みの取れない家庭は教師たちを頼ることになる。それを日本の社会はいつの間にか、学校の機能・役割だと思い込むに至ったのである。
スポーツも学校が引き受けた。全国大会の組織まで教師たちは引き受けてしまったのである。今では、部活の成果が生徒を集め偏差値を上げる手段ともなり、今更引くに引けない規模になっている。
何故我々は、貧困や労働条件の問題を、それ自体として取り上げ闘わないのだろうか。子どもがかわいそうという問題に置き換えてしまう。置き換えて教師に回してしまう。迂回しているうちに本筋を見失う。
多分労組が、企業別であることが足かせとなっている。強い組合のある大企業では、休暇も賃金も確保できても、零細企業ではそうはゆかない。だから階級意識より企業一家意識を身に着けてしまう。零細企業労働者のために闘う連帯は生まれない。かと言ってそれを補う社会保障制度はおくれに遅れている。
それゆえ、貧しい者はいつまでも貧しい。それを毎日間近に見ている教師は、それを放っておけない。問題が深刻になって、ストやデモで訴えると、待ち構えたように「子どもを放っておくのか」と非難される。
実にひどい言いがかりである。貧困や低賃金・長時間労働を放っておいて知らんぷりしているのは、誰なのか。零細企業をいじめ、社会保障は怠け者の社会をつくると言ってきたのは誰なのか、そうして政党を政府を組織してきたのは誰なのか。我々はいつも、ことの実態や本質を追及せずに、お手軽な現象に涙を流して、当たり散らしやすい者に押付けて来たのではないか。それが、貯まりにたまって、「中学教師過労死ライン57%」である。
今来年度予算の概算が各省庁から財務省に出される時期だから、少しは期待できそうなことを言う。しかし命中しない周辺の船さえよけられないイージス艦に一隻1500億円(アメリカでは900億円 韓国 800億円 )、役立たず危険な欠陥機オスプレイに1機100億円(経費込み200億以上、米国内価格 50億~60億円)などに回せば忽ち不足する。外交力のない阿部外遊ではすでに10兆円がばら撒かれたと、自民党の村上代議士さえ言っている。
戦前すでに、1936 年、ILO の有給休暇条約が採択されている。同じ年フランスでは人民戦線政府のもとで二週間のバカンス制度ができている。81年には自由時間省を設立し、休暇を四週間から五週間に延長。2000年には週35時間労働時間が法制化されている。
イタリアでは、
共和国憲法第36条「労働者は毎週の休息及び年次有給休暇に対する権利を有し、この権利は放棄することができない」と規定している。違反すれば上司が処罰される。
例えばフランスの子どもの夏休みは2ヶ月、宿題は一切ない。フランスでは、休暇の制度と共に、休暇の社会的インフラも整えられた。各地に安価な費用で過ごせる民宿、貸し別荘、キャンプ場などが存在している。また、子供をひと夏預かる林間学校なども避暑地や海所得が低く、社会的な扶助を受けている階層には、バカンス用に交通費あるいは滞在費の補助制度まで存在する。
初めての ILO 総会(1919 年)において、スウェーデン労働者が、すべての労働者に有給休暇を与えることを検討すべきとする決議を提案している。1926 年の ILO の調査では、すでに 1900 万人の労働者がすでに何らかの形で年休を持っていた。1935 年の時点で、北欧諸国、イギリス、フランス、オランダ、イタリア、スイスなどにおいて相当数の割合の労働協約が年休に関する条項を持っていた。
年休とは週休とは異なり、連続した休日を意味していることも知る必要がある。病気休暇制度もないので、わが国では、病気のために年休を細切れに取り崩してしまう。それでも消化できない。
元来家庭が、親子の関係を親密にするうえで担っていた行事などの大半は、働く者の諸条件をILOの諸条約を批准し諸勧告を受け入れさえすれば、 親と子のもとに戻ってくる筈である。親は子を、子は親を取り戻すのである。日本政府は口では国連中心を言うが、条約を批准しないこと甚だしいのである。
教師の命を犠牲にすることは、教師が大学卒業後蓄えた技能を失うこと。コンピュータ化がそれを代行するとでも行政や経済団体は考えているのだろうか、彼らは儲かる。囲碁や将棋の対戦がコンピュータ化できたのは、制限された場で双方とも同じ動きしかできないからである。教育は生徒も教師も千差万別であり、教室は多様な社会を反映して、その三者の組み合わせは捉えきれない。マニュアル化も教科書化もできない。だから生きた経験の貴重さは計り知れないのである。教師を休ませるのは行政の義務である。
中学教師過労死予備軍は実数に直せば、およそ16、000人。高校教師も実際の死亡率は中学より高い。この事実を知っていながら有効な対策を取らない行政は、過労死に対して、刑法上の罪を問われるべきである。その裁判こそ、裁判員制度に値する。
追記 裁判員制度は、冤罪事件にかかわった警察官・検事、裁判官の罪状を問う裁判や、官房長官が勝手に「問題ない」とする政治家官僚の罪を問う行政裁判などに適用すべきで、死刑判決に加担させるような使い方は主権者の定義を間違えている。