当blog(今授業してているこの生徒たちの中に、自分より優れた者がいるかも知れない)
に、前者への疑問をぶつけた。「完璧」な板書やよくできたワークシートは「自分の矮小な雛型を大量生産するのである。チェーン展開して大量生産大量消費に向かった食べ物で、成功した例はない」と。
後者、ノートは「先生と私の共同作品なの」、については、思い出がある。
僕が教員組合の青年部員ではなくなった頃、三年生(彼女についてはblog「あきらめさせないぞ」に書いた)が準備室にやってきて、
「もう駄目ね、この学校」と言う。この女子生徒の「駄目」には重さがある。詰まらない授業をする教師には、職員室まで追いかけて容赦のない批判を加えていたからである。論理的な追求に教師たちが戦々恐々とする有様であった。一年と二年で現代社会を受け持った。何時追いかけてくるか、半ば楽しみにしていたのだが、ついにやって来ない。答案も発言も適切かつ個性的。発表や討論では仲間を良くまとめリードもした。しばしば社会科準備室に現れ、質問したり対話したりを楽しんでいた。
中学の同級生を呼んで、僕の授業に参加させたこともある。だが学校や教師への眼差しはいつも鋭かった。
「まず、板書がここの教師はみんな駄目」 うーんついに来たかと思った。僕は教科書も使わず、ノートも持たず、写真や文献を持って教室に行く。黒板には記号や概念、固有名詞が書き散らされ、たぶん聞いたことのない文章や、その断片が下手な図とともに並んでいたはずである。
「御免、言い訳しないよ」と言えば
「先生のあの板書、あれがいいの」と言う。
「中学(自由の森学園)でも先生たちの多くも、どこから板書が始まりそれがどこに飛ぶのか予測がつかない。先生の言葉のどこがどう展開してどの単語や図に結びつくのか、とても緊張したの」
「それじゃ、質問するのも大変だ」
「自分の考えと先生の言葉が頭の中で混ざり合う、時には友達の考えや言葉、質問、それが一つのまとまったものとして出てくる。だから私のノートは先生と私の共同作品」
ノートが生徒にとって僕と彼女の共同作品なら、僕にとって授業そのものの全過程が共同作品である。息遣いやおしゃべりまでが同調して来るのである。
「ではこの学校の先生の板書は、ある意味で完璧だから困るんだ」
「そうなの、教科書を箇条書きにしてきれいに要約してあるから、それさえ写して暗記すればテストもほぼ満点。なーんにも考えないで済む。そして何にも考えなくなる。それを先生たちに言っても理解してくれないの」
「君にとって完璧な板書は、思考の妨害か」
生徒が考えないで済むのなら、教師も考えなくなるだろう。彼女は、板書の本質を探り当てている。僕がぼんやり考えていたことを、見事生徒の目から説明している。
しかし、こうした緊張感のない板書や授業をおおかたの生徒は歓迎しているのだ。生徒だけではない、教師も。何故なら教職課程で、よい板書の書き方をわざわざ教えているからだ。それどころか大学自体が所属教員に、板書について細かい指示をする始末である。愚かだと思う。
哲学者のアランが、大学教師の資格がありながら、高等学校で教え続けたことをもっともだと思う。この時期の青年男女は、蛹から脱皮し羽を伸ばして飛び立たんばかりの刹那の蝶のみずみずしくも逞しい美しさを持っている。みずみずしくも逞しい美しさは、明晰さとして現れ、僕らを驚かせるのである。しかし彼ら自身は、そのことに気付こうとはしない。そして我々教師の多くも無関心なのである。
追記 それでも、数学だけは板書が大切だろうと考える人は少なくないだろう。数学者の岡潔はこう言っている。
「黒板とか、鉛筆とか、紙とかいう外物に頼っていると、計算しなくては正しさがわからないとなる。これでは闇夜の中をちょうちんもなしに歩いているのと同じで、いつまでたっても闇夜から抜けられないだけでなく、闇は深くなる一方である。しかも昼というものを知らないから、それが闇夜であることに気づかない」 『義務教育私話』
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