底辺校っていうな

  底辺校という言葉はどうにかならないかと言う声は常にある。使うべきではないと言う声もある。しかし、どんな結構な名前を発見したところで、言葉が使われる対象が存在している限り、単なる言葉狩りに終わり、却って後味の悪さを残すだけである。そうした困難さ自体が、この問題の核心である。

 「ライ」という言葉も忌まわしさがまとわり着いて、患者や家族を苦しめた。ハンセン病は古くは「らい」とも呼ばれた。「らい」は皮膚病をも含む名称であり、癩者に対する差別的身分を表す言葉でもあった。明治以降は国家が「らい」患者への偏見差別を煽り立てた為、差別と偏見の固定観念が強く付与された。その固定観念を打破するために、全国のハンセン病療養所入所者の団体「全国ハンセン病患者協議会(全患協)」が病名変更運動を展開し、ハンセン病という言葉が定着している。
  しかしハンセン病者の作家島比呂志は、「癩の現実を変革することによって呼称の意味内容が変わるのだ」と言い、全患協会長として政府と対峙してきた松本馨は「強制隔離体制下の現実は、癩以外の言葉で表現することは出来ない」と怒りを込めて語っている。しかしある程度効果はあった。しかし、それは名称が変わったことから直接もたらされたものとは言えない。ハンセン病に係わる貧困・偏見との対峙・啓蒙、薬や治療など病気そのものの克服・・・などとの気の遠くなる程の患者自身の長い闘いが同時に取り組まれたからである。差別と偏見の実態がある限り、言葉をどう変えようと変えたその言葉に「差別と偏見の固定観念」は付与されるのである。 
 
 だがハンセン病療養所は生涯隔離であるのに対して、「底辺校」は、忌わしくとも三年間の「我慢」である。「我慢」が終われば思い出したくもない、だから差別偏見を告発して闘うなんて真平なのだ。
 今は廃校となった学区最低底辺校で僕が教えていた時、ある教師が多分彼の前任校であるらしい受験重点校のトレーニングウェアを着ていた。一年中、毎日、背中に学校名がでかでかと書かれた姿で、通勤し教壇に立っていた。こうして教師は「底辺校」を逃げる。自分は逃げるのだが、生徒が「底辺校」生の証しとしての制服を正しく「誇りを持って」着ないのは決して許さない。近所のコンビニはこの高校の生徒の入店を張り紙で禁じてしまった。ナチス支配下のダビデの星の如しである。
  「底辺校」の忌わしさと戦う主体はどこに存在するのか。手掛りはあるのか。あったのである。高校三原則である。当時の文部省は「旧制の中等学校間にあったいわゆる格差を是正しその平準化を図ることと、小学校および中学校とともに高等学校をできるだけ地域学校化してその普及を図ろうと」考えていた。「小学区制・総合制・男女共学」の精神を最も長く守ったのは京都府であった。
  長野県立高校では、かつて制服廃止運動があって、その影響は強く残っている。地方の都市では一つの街に3つほどの高校があって、制服を見ただけで偏差値がわかるなど偏見を助長していたことから、PTAや教員組合がかなり積極的に取り組んだ経緯がある。
                                                                                         つづく

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