ハンセン病療養所には、ハンセン病のカルテが無かった

                                               『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊
「ライは不治ではない」小笠原登博士
 第15回日本らい学会(1941年)での小笠原学説(一貫してハンセン病患者の隔離政策を反対し続けた京大医学部助教授)をめぐる論争も、真理の発見という学会に課せられた任務から著しく逸脱していた。患者のために、誠実に検証し対話討議するのではなく自派の勝ち負けにこだわる様は、「らい業界」と呼ぶに相応しいものであった。 
 論争がこうであれば、研究はどうだったのか。1955年国立ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容され、セファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に対するハンセン病検証会議聞き取りがある。一部を引用する。

 「セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない」和泉眞蔵検証会議委員        
 

   ハンセン病療養所に長い間、ハンセン病のカルテが無かったわけである。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータや記録として有っては困るものでもあったという驚天動地の構図が見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである。

 救癩の父光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。  小笠原登博士との対談である。
 
  (光田)  「あなたは、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」
  (小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」
  (光田) 「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」
  (小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」
  (光田) 「チブスがそうです」
  (小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」
  (光田) 「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません


 光田は、絶対隔離政策の発案者であり、戦前でさえ違法であった患者の強制堕胎・断種に手を染めたにもかかわらず、国は彼に文化勲章を贈っている。患者の怒りが如何ほどのであったかは、光田の銅像が患者の手で打ち壊されたことでわかる。


 原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。

 もちろん学校も、データー改竄や証拠隠滅を日常としている。僕自身の小学校での成績改竄は、二つの証拠を揃えることが出来た。だが既に担任の消息が不明。もう一件は、かつて僕が担任した生徒の中学三年時の成績改竄。これも証拠がある、これは当人が直接謝罪させた。
 こうした小さな改竄や、隔離された世界での改竄・証拠隠滅を、自分たちの問題として捉え追求してこなかったことが、今政権の巨大な「嘘」の山を築いている。蟻の一穴という言葉がある、どんな小さな問題にも直ちに反応するのでなければならない領域である。これは、人権の問題だと謂わば条件反射的に反応するのでなければならない。いま若者は、そのエネルギーと時間を「競争」だけに向けさせられている。教師には既に時間もエネルギーも尽きかけている。
 かつてハンセン病療養所で、理不尽の限りが罷り通っていたとき、それを憲法違反だと告発出来なかった。
我々はその報いに、今になって直面している。

追記 小笠原博士は、いつも学生時代の詰め襟を繕って着ていた。京大医学部からの報酬は、すべてハンセン病患者のために使ったからである。病棟での人手が足りなければ、実家である愛知県円周寺から人を送って貰っていたという。持ち家もなく、大学教授であった兄の家に居候していた。

虐殺の現場を保存し、学ぶ者の主体性を喚起すること

ナチによる虐殺を伝えるためオラドゥール村はそのまま残された
 フランスの夏休みは7月始めから9月第一週までの2ヶ月、しかもフランスの学校には「部活」はない。宿題もない。両親のバカンスも5週間と長いが、職種によっていつどれだけとれるか一様ではない。だから、子どもと一緒に休みを取れない家族のために、様々な組織がプログラムを用意する。例えば小学校では、Centres de Loisirsが、運営される。余暇センター。開設時間は、およそ午前8時30分から午後6時30分。給食があり、バスに乗って森へピクニックに出かけたり、気球に乗ったり、プールで遊んだり。自治体もボランティア団体も、多様な活動を展開する。
  中には、ドイツやポーランドの強制収容時で一週間を過ごすブランもある。日本の広島修学旅行や沖縄修学旅行とは大いに趣が異なっている。人数で様々な作業や奉仕を通して、ひとり一人が歴史と対話することに重点をおく。以下に挙げる感想は、パリの隣、ブローニュ・ビヤンクール市のプログラムで、中学生と高校生が、アウシェビッツへ出かけた時のものである。『イル・サンジェルマンの散歩道』から引用。

レア 17歳
「記憶する義務を持続し、人は最悪のことをなし得るのだということを決して忘れないことが絶対に必要」
マチルド 16歳
「これが繰り返されるのを避けるために、僕たちは批判精神を発揮し、憎悪と暴力を見過ごしにしないようにしなければならない」
セリア 15歳
「私たちは現実を目の前にして、嫌悪、悲しみ、恐れを強く感じた。その意味で、この旅は私たちに信じがたいほどの恩恵を与えてくれた」
クリストフ 15歳
「昔の強制収容者の証言は、僕をより強くした」
イネス 14歳
「僕たちは、過去の過ちを学び、どの様な状況に置かれてもそれに距離をとり、記憶しなければならない」

 以下は、日本の中高生の平和作文コンテストでそれぞれ自治体や官庁の賞を取ったもの。

福島県大玉村 中3 W君
  実際、折り鶴を見ているともう戦争のような争い事は、なくなってほしいという思いが強くなりました。今、当たり前に生活できることに感謝しなければならないと思う気持ちになりました。・・・争いをなくすために、一人一人が人を思いやり国と国が仲良く平和になる日が来ればいいのにと願うばかりです。そして、被爆体験者の方々の経験を無駄にしないように・・・。
綾部市 中3  I君
 ・・・戦争、私は同じ人間として戦争は絶対におこしたくない。もう二度と悲しい戦いはしてほしくない。そして、世界平和を願いたい。同じ地球に生きている一人の人間として・・・。
大津市 中2  Y君
  ・・・たった一人では小さすぎる力でも,大勢の人間が一人一人努力すれば大きな力になるのだから,無駄な事など何もない。だから私はどんな些細な事でも人のために,人の役に立つ事をしていきたい。そしていつかは,人として本当に正しい道を選べる人間になりたい。

 フランスの少年たちが、自分たちの具体的な課題を見据えているのに対して、日本の少年たちは「願い」や「~したい」のレベルに止まっている。自分の国の平和まで、人間を超えた力や他者に依存しているのだ。日本の平和教育が、少年ひとり一人の決意や主体的選択に支えられていないからである。
 
  いくつか例を挙げて考えたい。


 1944年6月10日土曜日の朝、フランス中部のオラドゥー
ル・シュル・グラヌ村にナチス親衛隊が突然現れ、「武器や弾薬を調査する」と村民に通告。男性は数カ所の納屋に、女性と子どもたちは教会に集められた。親衛隊は先ず、足を狙って一斉に射撃、逃げ出せないように。次いで納屋と教会に火が放たれ、逃げ出す者には機関銃が向けられた。村の建物328戸が全焼。人口の約99%である642人が死亡、生き残ったのは僅か26人。この事件に関与した親衛隊関係者のうち裁判を受けたものは、すべて釈放されている。攻撃命令を下した指揮官ハインツ・ラマーディングは戦後企業家として成功、一度も起訴されることなく1971年に死去した。
  ド・ゴールは、ナチス占領の実態を後世に伝えるため、オラドゥール村を再建せず遺構として残すことを決定。1999年には、オラドゥール村における虐殺を伝えるCentre de la mémoireが開設された。
 
  ヒットラーは政権奪取と同時にギロチン15台を作らせ、その1台がベルリン西郊プレッツェンゼー処刑場に置かれた。ナチスが政権下の12年間、この部屋で2500人の市民の命が奪われた。床には流れた血の色が今もとれずに残っている。1945年4月、ソビエト軍がベルリンに入り市街戦の銃声が響くなかでも処刑はまだ続いていた。処刑場はプレッツェンゼー記念館として残されている。
 プレッツェンゼー処刑場については、小田実の言葉が残っている。

 「一番胸に響いてくるのは、ここが普通のドイツ市民が殺されたところだということです。外国の放送を聴いただけで、あるいはヒットラーの悪口を言っただけで、ちょっと冗談をささやいただけで、もちろん抵抗すれば、抵抗した市民たちが、すべてがここに連れて来られて殺された。
・・・一番残忍な方法で殺すために、肉屋の牛肉を掛ける吊り輪のようなものに引っ掛けて殺すとか、あるいはギロチンとか、まだ血の跡が床に染み付いて残っているぐらいですね、一日に大変な数を殺す、そういうことを繰り返していくわけです、私がここで一番恐るべき光景の一つとみたのは、もちろんギロチンとか、その写真とか、あるいは吊り輪の実物とかですが、それともう一つはただの紙切れなんです、紙切れなんですね、何の紙切れかと言いますと死刑された人に対する請求書なんですね、請求書、死刑手数料です、それに家族に対して送りつけるんです、死刑された人たちの請求書、いろんな費用がかかったら払えというのです、家族が拒否すると今度はもちろん彼らがここに連れてこられてまた殺される、それで泣く泣く彼らは払ったのに違いないのです、このは非常に恐るべき紙切れと私はここで見たのです・・・そのような残酷な独裁政治のなかで人々は生きていたのです、そして処刑されますと、判決書に死に処す、ドイツ国民の名においておまえを死に処すという判決文も掲示され、死刑にした場合には個人の名前を書いたものをいろいろな所に掲示する・・・そういうことなんです。
 私はここに来ると、非常に粛然とした気持ちにもちろんなるのですけれど、ただその中で、すごい独裁政治の中で闘って死んだ人がいるということは・・・私にとって・・・非常に・・・
感動的なんです・・・私は、まあ、とにかくここに時々来て、自分の精神が衰えたときとか・・・心が弱くなったときは・・・ここに来るんです、ここに来ます・・・というのは、これを見てますと、この光景を見てますとですね、わたしは逆に生きる勇気が出てくるのですね・・・こうやって・・・すごい独裁政治の中で・・・・それでも闘って死んだ人がいる・・・闘って死んだ人・・・・自由と解放のために闘って死んだ人たちのことを考えますと、かえって、私は勇気が出てくるのです・・・
 その意味で私はここによく来たのです・・・・いろんな残虐の跡をたどりながらここに来て、そしてこの残虐の極致である場所に来たときに・・・私はかえってこのような残忍な光景の中で・・・しかし闘って死んだ人がいた、十分に生きた人がいた、ということを私は知るのです・・・そして、私はたいへん勇気を得た気持ちになるのです・・・私はそこで、自分の一番大切な場所として、ベルリン滞在のあいだは時々ここに来ました   「わが心の旅、小田実、ベルリン:生と死の堆積」(1993年、NHK制作)小田実自身の語り。
 「・・・」が多いのは、そのたびに小田実の胸が詰まったからである。小田実もここで「自分の精神が衰えたときとか・・・心が弱くなったときは・・・ここに来るんです、・・・自由と解放のために闘って死んだ人たちのことを考えますと、かえって、私は勇気が出てくるのです・・・」と言っている。

 ベルリンの路上や建物の壁には、抵抗運動でナチスに虐殺された人々を忘れないための金属板が埋め込まれている。ベルリンだけではない、欧州の至る所に。パリでは、抵抗運動で銃殺された少年の名が、地下鉄の駅名となっている。←クリック

  例えば、小林多喜二が拷問され殺された取調室が残されて公開させることが考えられるだろうか。旧築地署に近い地下鉄駅やバス停の名称に多喜二が付けられる可能性があるか。関東大震災の朝鮮人虐殺の現場に、ひとり一人の名前や虐殺の日時を書いた金属板を貼り付ける運動が可能か。
 広島長崎の原爆や、沖縄の戦火や、無差別爆撃で命を落とした人々の名前や死亡に至った経緯を明記したプレートを町中に埋め込もう。
 戦争の歴史は、固有名詞とともに記憶される必要がある。固有名詞を通して初めて過去の惨劇は、ひとり一人の中に深い対話として蘇るのである。


 体罰死の現場である学校施設にも、過労死の現場である職場にも、個人名と経緯を記した金属板を埋め込まねばならない。「忘れない」でと願うのではなく、忘れさせない決意を形にすることが必要なのだ。

朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする

生きた現実的人間として思索せよ

人間とは区別された哲学者となることを欲するな、・・・思想家として思索するな、生きた現実的人間として思索せよ、・・・実存において思索せよ」          フォイエルバッハ
 人は、特に教員は、与えられた任務を期待通りにこなせば「有能」と他人から評価されると思い込んでいる。教務の時は教務らしく、生指の時は生指らしく「存在」することを期待される。さらに進学校では進学校らしく、底辺校では底辺校の教師らしく振る舞うことも期待されると思い込む、。勤務校と分掌が替われば、言うことだけでなく振る舞いや顔付きまで変わる。自分の「思い込み」に自分自身が支配され、実存として存在し得なくなっている。「人間とは区別された」教師に成ることを欲し、期待される。自分の生き様を、他人の期待に委ねてしまうのである。戦時下の教師は、天皇制軍国主義の期待に過剰に応えて、若者を殺し合いに導いている。
 「生き様を、他人の期待に委ね」ることは、教師本人も面と向かって問い詰められれば、「やむを得ぬ世過ぎの手段」だと顔を歪めて、一瞬「実存」に立ち返る。だが同時に、「他にどうしろと言うのだ」という居直りも強める。生活指導や進路指導では、「やむを得ぬ世過ぎの手段」としての生き方がアドバイスの一つとしてではなく、選択の余地のない「真理」として押しつけるようになる。


 青少年個人の主体的判断はこうして奪われてゆくのである。世界の中で日本の若者が、あらゆる国際的意識調査で見せる「判断停止」の際だった多さと不満のレベルの高さは作られたものだと考えねばならない。
 不満のレベルが高ければ、「判断停止」層は減少して明確な意思を表明する筈である。なぜそうならないのか。それは、不満の認識が個人レベルに止まり、集団や階級の課題とはならないからである。他人に先駆け自分は頑張ってしまう。他人と自分が、生きた現実的人間の要求において同一の仲間であることを認めたくないのだ。逃げている、後ろ向きでは、対象の実態を捉えることは出来ない。追いかけてくる足音だけが不安を煽る。だから組合の組織率は低下する一方。

  オルテガは「存在する」という言葉は静的なものであるから、人間の実存を言い表わすにはまったく不適当と考えた。われわれは人間が「存在している」と言うことはできない。人間はあれこれの者になる途上にあるとしか言えないのだと彼は主張する。実存主義者たちの見解、人間の実存の核心は可能性にあるという見解の意味を見事に言い表わしている。実存とはあらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在なのでる。特定の分掌に人間そのものを支配させてはならない。

 実存としての教師が、実存である青少年を「指導」するとはどういうことなのか。「あらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在」としての青少年を、「あらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在」としての教師が、如何にしてそれを行いうるのか。あたかも光速度で走りながら、光を捉えるような難行である筈だ。たかが会議で決められる筋合いではない。
  だとすれば、指導は対話によるしかない。対話とは、立場を捨てなければ始まらない。立場を捨てて対話することは如何にして可能か。オルテガもフォイエルバッハも答えてはいない。

  マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で 

共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」と未来を描いた。   
  「人間とは区別された哲学者となることを欲するな、・・・思想家として思索するな」とは、「各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨き・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」「生きた現実的人間」として思考し行為する。
 それはいかなる条件の下になし得るのか。

  資本論第3部第48章はこう書く。

この必然性の国の向こう岸で、人間の能力の発展それ自体を自己目的とする真の自由の国が始まる。しかし、それは必然性の国を基礎として、その上でのみ開花することができる。その根本条件は労働日の短縮である
  その実現性は、ポール・ラファルグの説を待つまでもなかった。にも拘わらずラファルグの説から150年を経てなお、この国では過労死克服の手掛かりもつかめない有様だ。
 
 既に、知的好奇心と労働時間は逆比例の関係にあることも証明されている。知的好奇心(新しいことに挑むのか好きだという人の割合)が40%前後とOECD諸国で最も低いのは、最も労働時間の長い日本と韓国。知的好奇心が90%前後と最も高いのは、北欧諸国と仏・伊・独でいずれも労働時間の短さはトップクラスである。
  好奇心が低いから、メダルに惹かれるのである。順位にこだわるのは、好奇心が枯れているためだ。好奇心とは、枠からはみ出すことである。排他的な活動領域から自由に逸脱して、任意の諸部門で自分を磨かずにおれないのが好奇心である。そこでは「ご褒美」などいらない。むしろ自由な好奇心の妨げでしかないからだ。
 
追記 少年の時期から、今日は海、明日は山、明後日は球技、明明後日は天文、さらに文芸に、絵画に、演劇にと日を変えるごとに、時が過ぎるごとに、好奇心を自由に走らせる日々を送らねばならないと思う。でなければ、我々は過労死から脱出できない。
 山形の山間にある小さな私立高校では、一学年が30人に満たないのに多くのクラブがあり、一人が三つのクラブに入っているのも珍しくないという。
 僕がこの僻地の高校で気に入っていることは、二つある。一つは教員が30年前の生徒を固有名詞で覚えていること。もう一つは下級生が上級生を呼ぶとき、~君と呼ぶことだ。「必然性の国の向こう岸で、人間の能力の発展それ自体を自己目的とする真の自由の国」を彷彿させるではないか。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...