生きた現実的人間として思索せよ |
人は、特に教員は、与えられた任務を期待通りにこなせば、「有能」と他人から評価されると思い込んでいる。教務の時は教務らしく、生指の時は生指らしく「存在」することを期待される。さらに進学校では進学校らしく、底辺校では底辺校の教師らしく振る舞うことも期待されると思い込む、。勤務校と分掌が替われば、言うことだけでなく振る舞いや顔付きまで変わる。自分の「思い込み」に自分自身が支配され、実存として存在し得なくなっている。「人間とは区別された」教師に成ることを欲し、期待される。自分の生き様を、他人の期待に委ねてしまうのである。戦時下の教師は、天皇制軍国主義の期待に過剰に応えて、若者を殺し合いに導いている。人間とは区別された哲学者となることを欲するな、・・・思想家として思索するな、生きた現実的人間として思索せよ、・・・実存において思索せよ」 フォイエルバッハ
「生き様を、他人の期待に委ね」ることは、教師本人も面と向かって問い詰められれば、「やむを得ぬ世過ぎの手段」だと顔を歪めて、一瞬「実存」に立ち返る。だが同時に、「他にどうしろと言うのだ」という居直りも強める。生活指導や進路指導では、「やむを得ぬ世過ぎの手段」としての生き方がアドバイスの一つとしてではなく、選択の余地のない「真理」として押しつけるようになる。
青少年個人の主体的判断はこうして奪われてゆくのである。世界の中で日本の若者が、あらゆる国際的意識調査で見せる「判断停止」の際だった多さと不満のレベルの高さは作られたものだと考えねばならない。
不満のレベルが高ければ、「判断停止」層は減少して明確な意思を表明する筈である。なぜそうならないのか。それは、不満の認識が個人レベルに止まり、集団や階級の課題とはならないからである。他人に先駆け自分は頑張ってしまう。他人と自分が、生きた現実的人間の要求において同一の仲間であることを認めたくないのだ。逃げている、後ろ向きでは、対象の実態を捉えることは出来ない。追いかけてくる足音だけが不安を煽る。だから組合の組織率は低下する一方。
オルテガは「存在する」という言葉は静的なものであるから、人間の実存を言い表わすにはまったく不適当と考えた。われわれは人間が「存在している」と言うことはできない。人間はあれこれの者になる途上にあるとしか言えないのだと彼は主張する。実存主義者たちの見解、人間の実存の核心は可能性にあるという見解の意味を見事に言い表わしている。実存とはあらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在なのでる。特定の分掌に人間そのものを支配させてはならない。
実存としての教師が、実存である青少年を「指導」するとはどういうことなのか。「あらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在」としての青少年を、「あらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在」としての教師が、如何にしてそれを行いうるのか。あたかも光速度で走りながら、光を捉えるような難行である筈だ。たかが会議で決められる筋合いではない。
だとすれば、指導は対話によるしかない。対話とは、立場を捨てなければ始まらない。立場を捨てて対話することは如何にして可能か。オルテガもフォイエルバッハも答えてはいない。
マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で
「共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」と未来を描いた。「人間とは区別された哲学者となることを欲するな、・・・思想家として思索するな」とは、「各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨き・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」「生きた現実的人間」として思考し行為する。
それはいかなる条件の下になし得るのか。
資本論第3部第48章はこう書く。
「この必然性の国の向こう岸で、人間の能力の発展それ自体を自己目的とする真の自由の国が始まる。しかし、それは必然性の国を基礎として、その上でのみ開花することができる。その根本条件は労働日の短縮である」その実現性は、ポール・ラファルグの説を待つまでもなかった。にも拘わらずラファルグの説から150年を経てなお、この国では過労死克服の手掛かりもつかめない有様だ。
既に、知的好奇心と労働時間は逆比例の関係にあることも証明されている。知的好奇心(新しいことに挑むのか好きだという人の割合)が40%前後とOECD諸国で最も低いのは、最も労働時間の長い日本と韓国。知的好奇心が90%前後と最も高いのは、北欧諸国と仏・伊・独でいずれも労働時間の短さはトップクラスである。
好奇心が低いから、メダルに惹かれるのである。順位にこだわるのは、好奇心が枯れているためだ。好奇心とは、枠からはみ出すことである。排他的な活動領域から自由に逸脱して、任意の諸部門で自分を磨かずにおれないのが好奇心である。そこでは「ご褒美」などいらない。むしろ自由な好奇心の妨げでしかないからだ。
追記 少年の時期から、今日は海、明日は山、明後日は球技、明明後日は天文、さらに文芸に、絵画に、演劇にと日を変えるごとに、時が過ぎるごとに、好奇心を自由に走らせる日々を送らねばならないと思う。でなければ、我々は過労死から脱出できない。
山形の山間にある小さな私立高校では、一学年が30人に満たないのに多くのクラブがあり、一人が三つのクラブに入っているのも珍しくないという。
僕がこの僻地の高校で気に入っていることは、二つある。一つは教員が30年前の生徒を固有名詞で覚えていること。もう一つは下級生が上級生を呼ぶとき、~君と呼ぶことだ。「必然性の国の向こう岸で、人間の能力の発展それ自体を自己目的とする真の自由の国」を彷彿させるではないか。
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