全生園の桜と「革命のような10日間」と土田義雄

「革命のようなたたかい」が生んだ景観
 多磨全生園の桜並木は、患者自治会初代委員長土田義雄がプロミン獲得と併せて取り組んだ自治会事業の一つである。山桜100本、吉野桜100本、しだれ桜100本、彼岸桜50本、八重桜50本、三ツ葉楓20本、榧50本が植えられた。その後の手入れも、患者たちが農薬を用いずに手作業で受け継いできた。その労苦が、春毎に満開の桜となり人々を60年もの長きにわたって、感嘆させている。

 土田義雄が発病したのは慶大在学中、一旦軽快退所したが応召、二・二六事件に巻き込まれ中国戦線に送られる。八路軍捕虜となり、その捕虜としての経験が彼を根底から変えたのである。農民からは針一本も奪わない。提供された物資には必ず費用を払い、時間があれば農作業を手伝う。司令官も兵士も平等の規律正しい八路軍を身近に見たのである。
 婦女子を強姦し殺害、徴発と称して食料は略奪、家には放火する皇軍を経験してきた土田義雄には革命的衝撃だった。急進的民主主義者となって敗戦とともに帰国。しかしハンセン病を再発、全生園に再収容される。
 土田を迎えて全生園の若い理論家たちが集い博友会を結成、ハンセン病療養所民主化闘争を組織したのであった。
 

 土田義雄は、プロミン獲得闘争でも表面に出ず最も重要な役割を担った。重症にもかかわらず、皆が注射出来るまではと、自分のためにプロミンを要求することは無かった。財力ある患者は闇のプロミンを買ったが、土田はそれも特権であるとして拒否した。ために結核を併発して急逝、35歳であった。古い因習を壊し、良いしきたりを数多く残し、反対派からも惜しまれた。自治会・左派・組合を徹底的に嫌悪した林芳信園長すら土田には敬して一目置いた。高潔で子どもにも丁寧な挨拶を欠かさぬ物腰柔らかな人柄に若者たちが集い、政治・哲学・文学・宗教を語りあい、魅力的な活動的「知識人」が生まれた。土田は上に立って指導することはなかった。存在自体が人々に安心感を与えたという。

物腰柔らかでクラシック音楽を愛したモダンボーイでダンスの上手かった彼が逝去したのは、1960年だった。
  

 土田義雄を中心に始まった1947年9月9日からの民主化闘争の10日間はあたかも革命のようだった。その革命前夜の全生園で開かれた粟生楽泉園闘争報告集会を、15歳の少年だった谺雄二が証言している。

 熱気がすごかったですよ。・・・・山本俊五さんという共産党員が立ったらね、職員席に座っていた園長がね、「君は、どこから入ってきた!」 ほら、・・・・面会人っていうかたちを取らないで、・・・垣根の隙間を越させて、裏門のほうから入らした。〔園長は〕それを知ってるわけ。もう、イライラしてるわけだ、林園長は。で、「君は、どつから来た!」って、一喝した。そうしたら、山本俊五さんがふりかえって、「あなたは誰です?どなたですか?」って聞いた。「わしは、ここの園長じゃ」つったら、「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」って。いやぁ、わたし、ビックリした。園長が怒られるなんていうのは、見たことなかったから。それで、園長が帰っちやった。 『栗生楽泉園入所者証言集 上』 

  この集会には、清瀬の結核療養所患者や東村山化成小学校教諭ら18名が垣根を抜けて参加していた。孤立しているのは園当局であった。たちまち職員の態度が目に見えて変わった。「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」の叫び声は、園長が天皇の臣下として患者に君臨する立場から、主権者である患者に奉仕する公僕となったことを、職員と患者に宣言したのである。

 毎年4月、美しく咲き誇る桜を愛で酒を酌み交わす人々の何人が、土田義雄や谺雄二らの生涯をかけた闘いに思いを馳せるだろうか。

 この民主化闘争以来、政府も議員もハンセン病患者を無視できなくなった。選挙権を獲得したからである。今18歳19歳の若者は選挙権を獲得した。だが高校生は「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」に相当する言葉を発しているだろうか。若者の政治経済的課題には背を向けて、若者の政治的行動の制限ばかりを強化している政権や教委に「
おまえは公僕だろお!降りてこい!」と叫ばねばならないのではないか。なぜなら、「らい予防法」廃止には更に数十年の闘いを要したからである。

記 土田義雄が排除して止まなかった「特権」については、書かねばならぬことが残っている。           つづく

報道は如何にして、権力の広報と化したか

ベルルスコーニもメディアを支配して長期政権を維持した
 2015年5月、日本外国特派員協会は「報道の自由推進賞」を創設してその受賞者を発表した。その中で 「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」を引用している。
  George Orwellの言葉だと言われているが、疑う声も少なくない。しかし『1984』の著者らしさを凝縮した警句として現今の日本を直撃する名言であることはまちがいではない。

 極右政治化のベルルスコーニは、大規模汚職・マフィアとの癒着・性的醜聞・議員買収・国際的失言・・・で物議を醸しイタリアの名誉を低下させたが、長期政権を維持した。これがネオリアリズムを生んだ国かと誰もが思う。
 英国のdaily.maild紙は、TVの娯楽やshow番組が人の知能に否定的影響を及ぼしているとを報じて、この疑問に一つの視点を提供した。ロンドン大学クイーン・メアリーカレッジが過去30年のイタリアの娯楽番組の拡大を調査分析した結果である。幼少から娯楽番組に慣れ親しんできたイタリア成人に認知機能テストを行ったところ、こうした番組を見なかったイタリア人に比べて5%悪い結果が出た。また年齢別ではより強い悪影響が出るのは55歳以上の人であることもわかった。


 メディアグループを所有、国内のtvの90%を支配したベルルスコーニは、tvを米国風娯楽番組とベルルスコーニ所有の広告代理店塗れにした。彼はスポーツ振興にも辣腕を振るった。そしていまだに「私の見解では、私は単に今日最高の首相であるだけではない。歴史上のあらゆる首相に比べても、私の功績は決して劣らないと感じている」と自己賛美を続けている。

   日本には、政権肝煎りのcool japan projectがnhkから民放まで占拠している。それに娯楽・買い物番組・sport中継を加えれば、1日の殆どは「人の知能に否定的影響を及ぼ」すものだらけになってしまった。まともな番組を見たければ、有料チャンネルと契約するか4k・8kテレビを買えと言うわけだ。貧乏人は、政権の圧力に屈した映像と娯楽やshow番組に洗脳される。

  例えばドイツ言論界では、cool japan風に「自分の国をほめる」という行為は、いかがわしい行為と見られる。多くの言論人、報道関係者は、cool japan風に「自分の国をほめる」記事や特集に眉を顰める。メディアの仕事は批判的な分析という合意があるからだ。「日本スゴイ」が横行するる日本の言論界とは、異質である。月刊誌も、今月は「わがほめ症候群」に罹患した。「日本スゴイ」をやれば、売れる。だが「日本スゴイ」は、自国に自信を失った証である。自国について自信がああれば、「日本スゴイ」を必要としない。

 フィンランドにはバラエティ番組はない。一番人気は討論番組で、二番目がニュース番組、三番目はドキュメンタリー番組だ。親が夕方の六時ごろに帰宅して、そういうテレビ番組を見ながら子供たちと語り合うと言う。そもそも、午後や深夜にまでtv電波を飛ばして、国民を愚民化する神経を持っていない。静かで安らぎに満ちた時空が、日本から絶滅しつつある。

 「私が若いころ、ジャーナリズムはもっとかっこいいものでした。64年、米国がベトナム戦争に介入を深めるきっかけになったトンキン湾事件が起きました
。ニューヨーク・タイムズは米政府の機密文書を入手し、事件が米軍の偽装工作だったことをスクープします。当時、同紙の幹部は社内の会議でこう言ったそうです。「これからタイムズは政府と戦う。圧力がかかり新聞も売れなくなるかもしれない。そうなったら輪転機牽一階に上げて社屋の一階を売ろう。
それでもダメなら二階も売る。輪転機を最上階の十四階まで上げることになっても戦おう」今、こんな気概があるでしょうか。問われているのはジャーナリズムも同じだと思います
」森まゆみ

 ジャーナリズムが広報に堕落したことの、根本的な部分を高校教師は負わねばならないと僕は考えている。1960年代、高校の新聞部は社研や演劇部などの言論表現活動と並んで熱心だった。生徒は政治的評論に躊躇しなかったが、教師たちはこれらの活動にいい顔はしなかった。僕は「指導」と言う語句を、この「いい顔はしない」教師たち抜きに思い浮かべることは出来ない。
 僕はそのころ、多感な高校生だった。活動的な生徒自治会やサークルが次々と、兵糧攻めで消滅していた。文部省の意向で、生徒会予算と活動に職員会議が介入したのである、文化祭の会計にも細かく目を光らせ始めた。デモにもカメラを構えた教師が付きまとった。僕たちはいくつかの高校と集まりを続けていたが、「僕たちの高校も、もう一緒にやれなくなった」と寂しく別れを告げる高校が相次いだ。話し合いが終わったあとの夕闇をトボトボと駅に向かった光景を忘れられない。
 自治的言論表現活動に代わるように、担任の「学級通信」が登場する。「学級通信」は初めから広報に過ぎなかった。派手派手しく「学級通信」集が出版され、アッという間に全国を席巻した。日刊だの夕刊だの形式だけが競われ、学校新聞消滅に拍車がかかった。

 批判的言論表現活動が消滅した高校を「学園」とは言えない。

記 nhkの教養・報道・ドキュメンタリー番組の著しい娯楽・show化傾向は、ロンドン大学の調査結果に学んだものに違いない。民放の娯楽番組も中身と風刺の消えた見苦しいものだらけとなった。国民の愚民化の為にあらゆる方策がとられている。

  

技術改善がすすめば、診断能力は低下する

Manualは専門家のレベルを下げる
 アメリカの医療技術には致命的な欠陥、矛盾がある。診察技術「改善」がすすむ度に、医師の診断能力が低下するのだ。最も典型的なのが精神科。例えば「DSM(診断と統計のためのマニュアル(Diagnostic andStatistical Manual of Mental Disorders)=米精神医学会)を使えば新人でも診断だけはつく。しかし、長期的にはその国の診断力は低下してしまう。身体科のほうにマニュアル(総称POS=課題解決型医療、医学教育 (Problem-Oriented System)の全盛時代が来ている。POSは直面している『現象・困難』に対処しようとする『焦点整理』である。この焦点絞りをやると、それ以外の点に目がいかなくなるリスクを抱え、POSを使い慣れてしまうと現象の消失=問題解決という思考経路が定着する危険もある。POSで解決できないのは自分の責任ではないとの思いも育つ。

 例えばアプガー指数
出産直後の新生児の健康状態を表す指数、同時に判定方法は、専門外医師の発案だし素人にも使える。それは裏返すと専門医師が素人化するということでもある。学校もこの手のマニュアルの泥沼。遅刻何回、欠席何回・・・合計何点で処分a 、それが繰り返されるとb・・・という具合。教師たちは数字だけで生徒を判断するようになり、ひとり一人に向き合わなくなる。新しい授業技術が開発普及しても、同じことが繰り返される。開発されマニュアルが印刷され普及したときには、新しい「想定外」が起きている。想定外に対応できるのを専門家と言うのではないか。
 どこの分野でも同様なことは既に起こっている。平社員や平教員に「想定外」があっても、柔軟に対応出来る発想を強いるなら管理職手当相当を請求すべきである。個室や休暇もいい。政府に、勤労庶民の生活を向上させる革新的取り組みを要求する。まぁ無駄だろうが。
 sonyやhondaさえ新らしい発想が生まれなくなったのはその為だ。社員からゆとりを奪い乾いたタオルを絞るように突き回した。ここ数年新しい発想は電気では海尔の独壇場。ノーベル賞の内容も少しも新しいものではない。ただの力業。

 僕が飲料メーカーのceoなら、先ず街に無秩序に設置された自販機を一斉に撤去する。人目を惹くために景観を損ねる交差点などにケバケバしい自販機を並べ、通行人や車の視界を遮っている。環境を損ねず、交通の安全を妨げない緑豊かな空間にする。売り上げには結びつかないが企業イメージは格段に向上する。考えてみるといい。改善した後の自販機の周りに小さな植え込みや鉢が置かれるのだ。じわじわと広がる評価、そこで誇りを得た社員に生まれるのがイノベーションだ。金も時間もかかる、しかしそれをやるのが専門家としてのceo。利潤を捻くり回した数字で判断するなら、素人でも出来る。企業ですら時間がかかるのであるから、福祉や学校はもっと時間がかかる。


 25年も前のことだ、紹興の旧市街の路地を歩いていたら至る所にヤカンとコップがあり老婆が「飲みな、お代は要らないよ」と笑いながらすすめる。中には水ではなく冷ましたお茶がはいってた。それからというもの僕にとって紹興は、魯迅や秋瑾の出身地であるばかりでなく、革命を生み出す友愛精神に満ちた人々の日常を想像させる場所になった。
 企業の社会的役割とは、こうした路地のヤカンを維持する事なのだ。自販機に置き換える事ではない。企業内最適と社会最適が一致しないなどという言い回しがある。軍隊内最適や暴力団内最適を考えてはならないように、企業内最適は像を結んではならない。部分社会とはそういうもの。学校もその例外ではない。

 企業が地域社会を越えて主体となってはならない。経済活性化を錦の御旗に掲げて、私的営利企業が歴史と自然環境を破壊してはならない。同じように、学校は生徒個人や家庭を越えて主人公面してはならない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...