技術改善がすすめば、診断能力は低下する

Manualは専門家のレベルを下げる
 アメリカの医療技術には致命的な欠陥、矛盾がある。診察技術「改善」がすすむ度に、医師の診断能力が低下するのだ。最も典型的なのが精神科。例えば「DSM(診断と統計のためのマニュアル(Diagnostic andStatistical Manual of Mental Disorders)=米精神医学会)を使えば新人でも診断だけはつく。しかし、長期的にはその国の診断力は低下してしまう。身体科のほうにマニュアル(総称POS=課題解決型医療、医学教育 (Problem-Oriented System)の全盛時代が来ている。POSは直面している『現象・困難』に対処しようとする『焦点整理』である。この焦点絞りをやると、それ以外の点に目がいかなくなるリスクを抱え、POSを使い慣れてしまうと現象の消失=問題解決という思考経路が定着する危険もある。POSで解決できないのは自分の責任ではないとの思いも育つ。

 例えばアプガー指数
出産直後の新生児の健康状態を表す指数、同時に判定方法は、専門外医師の発案だし素人にも使える。それは裏返すと専門医師が素人化するということでもある。学校もこの手のマニュアルの泥沼。遅刻何回、欠席何回・・・合計何点で処分a 、それが繰り返されるとb・・・という具合。教師たちは数字だけで生徒を判断するようになり、ひとり一人に向き合わなくなる。新しい授業技術が開発普及しても、同じことが繰り返される。開発されマニュアルが印刷され普及したときには、新しい「想定外」が起きている。想定外に対応できるのを専門家と言うのではないか。
 どこの分野でも同様なことは既に起こっている。平社員や平教員に「想定外」があっても、柔軟に対応出来る発想を強いるなら管理職手当相当を請求すべきである。個室や休暇もいい。政府に、勤労庶民の生活を向上させる革新的取り組みを要求する。まぁ無駄だろうが。
 sonyやhondaさえ新らしい発想が生まれなくなったのはその為だ。社員からゆとりを奪い乾いたタオルを絞るように突き回した。ここ数年新しい発想は電気では海尔の独壇場。ノーベル賞の内容も少しも新しいものではない。ただの力業。

 僕が飲料メーカーのceoなら、先ず街に無秩序に設置された自販機を一斉に撤去する。人目を惹くために景観を損ねる交差点などにケバケバしい自販機を並べ、通行人や車の視界を遮っている。環境を損ねず、交通の安全を妨げない緑豊かな空間にする。売り上げには結びつかないが企業イメージは格段に向上する。考えてみるといい。改善した後の自販機の周りに小さな植え込みや鉢が置かれるのだ。じわじわと広がる評価、そこで誇りを得た社員に生まれるのがイノベーションだ。金も時間もかかる、しかしそれをやるのが専門家としてのceo。利潤を捻くり回した数字で判断するなら、素人でも出来る。企業ですら時間がかかるのであるから、福祉や学校はもっと時間がかかる。


 25年も前のことだ、紹興の旧市街の路地を歩いていたら至る所にヤカンとコップがあり老婆が「飲みな、お代は要らないよ」と笑いながらすすめる。中には水ではなく冷ましたお茶がはいってた。それからというもの僕にとって紹興は、魯迅や秋瑾の出身地であるばかりでなく、革命を生み出す友愛精神に満ちた人々の日常を想像させる場所になった。
 企業の社会的役割とは、こうした路地のヤカンを維持する事なのだ。自販機に置き換える事ではない。企業内最適と社会最適が一致しないなどという言い回しがある。軍隊内最適や暴力団内最適を考えてはならないように、企業内最適は像を結んではならない。部分社会とはそういうもの。学校もその例外ではない。

 企業が地域社会を越えて主体となってはならない。経済活性化を錦の御旗に掲げて、私的営利企業が歴史と自然環境を破壊してはならない。同じように、学校は生徒個人や家庭を越えて主人公面してはならない。

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