報道は如何にして、権力の広報と化したか

ベルルスコーニもメディアを支配して長期政権を維持した
 2015年5月、日本外国特派員協会は「報道の自由推進賞」を創設してその受賞者を発表した。その中で 「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」を引用している。
  George Orwellの言葉だと言われているが、疑う声も少なくない。しかし『1984』の著者らしさを凝縮した警句として現今の日本を直撃する名言であることはまちがいではない。

 極右政治化のベルルスコーニは、大規模汚職・マフィアとの癒着・性的醜聞・議員買収・国際的失言・・・で物議を醸しイタリアの名誉を低下させたが、長期政権を維持した。これがネオリアリズムを生んだ国かと誰もが思う。
 英国のdaily.maild紙は、TVの娯楽やshow番組が人の知能に否定的影響を及ぼしているとを報じて、この疑問に一つの視点を提供した。ロンドン大学クイーン・メアリーカレッジが過去30年のイタリアの娯楽番組の拡大を調査分析した結果である。幼少から娯楽番組に慣れ親しんできたイタリア成人に認知機能テストを行ったところ、こうした番組を見なかったイタリア人に比べて5%悪い結果が出た。また年齢別ではより強い悪影響が出るのは55歳以上の人であることもわかった。


 メディアグループを所有、国内のtvの90%を支配したベルルスコーニは、tvを米国風娯楽番組とベルルスコーニ所有の広告代理店塗れにした。彼はスポーツ振興にも辣腕を振るった。そしていまだに「私の見解では、私は単に今日最高の首相であるだけではない。歴史上のあらゆる首相に比べても、私の功績は決して劣らないと感じている」と自己賛美を続けている。

   日本には、政権肝煎りのcool japan projectがnhkから民放まで占拠している。それに娯楽・買い物番組・sport中継を加えれば、1日の殆どは「人の知能に否定的影響を及ぼ」すものだらけになってしまった。まともな番組を見たければ、有料チャンネルと契約するか4k・8kテレビを買えと言うわけだ。貧乏人は、政権の圧力に屈した映像と娯楽やshow番組に洗脳される。

  例えばドイツ言論界では、cool japan風に「自分の国をほめる」という行為は、いかがわしい行為と見られる。多くの言論人、報道関係者は、cool japan風に「自分の国をほめる」記事や特集に眉を顰める。メディアの仕事は批判的な分析という合意があるからだ。「日本スゴイ」が横行するる日本の言論界とは、異質である。月刊誌も、今月は「わがほめ症候群」に罹患した。「日本スゴイ」をやれば、売れる。だが「日本スゴイ」は、自国に自信を失った証である。自国について自信がああれば、「日本スゴイ」を必要としない。

 フィンランドにはバラエティ番組はない。一番人気は討論番組で、二番目がニュース番組、三番目はドキュメンタリー番組だ。親が夕方の六時ごろに帰宅して、そういうテレビ番組を見ながら子供たちと語り合うと言う。そもそも、午後や深夜にまでtv電波を飛ばして、国民を愚民化する神経を持っていない。静かで安らぎに満ちた時空が、日本から絶滅しつつある。

 「私が若いころ、ジャーナリズムはもっとかっこいいものでした。64年、米国がベトナム戦争に介入を深めるきっかけになったトンキン湾事件が起きました
。ニューヨーク・タイムズは米政府の機密文書を入手し、事件が米軍の偽装工作だったことをスクープします。当時、同紙の幹部は社内の会議でこう言ったそうです。「これからタイムズは政府と戦う。圧力がかかり新聞も売れなくなるかもしれない。そうなったら輪転機牽一階に上げて社屋の一階を売ろう。
それでもダメなら二階も売る。輪転機を最上階の十四階まで上げることになっても戦おう」今、こんな気概があるでしょうか。問われているのはジャーナリズムも同じだと思います
」森まゆみ

 ジャーナリズムが広報に堕落したことの、根本的な部分を高校教師は負わねばならないと僕は考えている。1960年代、高校の新聞部は社研や演劇部などの言論表現活動と並んで熱心だった。生徒は政治的評論に躊躇しなかったが、教師たちはこれらの活動にいい顔はしなかった。僕は「指導」と言う語句を、この「いい顔はしない」教師たち抜きに思い浮かべることは出来ない。
 僕はそのころ、多感な高校生だった。活動的な生徒自治会やサークルが次々と、兵糧攻めで消滅していた。文部省の意向で、生徒会予算と活動に職員会議が介入したのである、文化祭の会計にも細かく目を光らせ始めた。デモにもカメラを構えた教師が付きまとった。僕たちはいくつかの高校と集まりを続けていたが、「僕たちの高校も、もう一緒にやれなくなった」と寂しく別れを告げる高校が相次いだ。話し合いが終わったあとの夕闇をトボトボと駅に向かった光景を忘れられない。
 自治的言論表現活動に代わるように、担任の「学級通信」が登場する。「学級通信」は初めから広報に過ぎなかった。派手派手しく「学級通信」集が出版され、アッという間に全国を席巻した。日刊だの夕刊だの形式だけが競われ、学校新聞消滅に拍車がかかった。

 批判的言論表現活動が消滅した高校を「学園」とは言えない。

記 nhkの教養・報道・ドキュメンタリー番組の著しい娯楽・show化傾向は、ロンドン大学の調査結果に学んだものに違いない。民放の娯楽番組も中身と風刺の消えた見苦しいものだらけとなった。国民の愚民化の為にあらゆる方策がとられている。

  

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