この時期の大学にもは的緊張があった /学生の姿勢にそれは現れている |
「大学入学共通テストへの英語民間検定試験導入の延期を巡り、本紙が首都圏の国公立大29校へアンケートを行ったところ、21校が一般選抜で民間試験を「利用しない」と回答した。・・・
ある大学の関係者は「最初からセンスの悪い政策だと思っていた」と打ち明けた。「民間試験は、推薦など学力試験を課さないタイプの入試では一定の学力のバロメーターとして有効。しかし、五十万人が一度に受ける一般入試に導入するとは、現場を知らない人の思い付きだ」。それでも、大学として拒否できなかったといい「反対の声を上げた高校生たちには本当に頭が下がる。延期になってよかった」と話した」 東京新聞 2019年12月1日 朝刊
民間検定試験導入について大学は自分たちでは碌な抵抗もせず、「反対の声を上げた高校生たちには本当に頭が下がる」とはむしがよすぎる。今頃になって何を言っているのか。学生運動を排除しなければ学問を守れないとほざいて、機動隊を導入したのは誰だったか。自らは現場にも現れず、警棒や盾が学生の肉を打ち砕く音も血も見なかったのだ。そんなつもりは無かったというのであれば、相当な暗愚である。「反対の声を上げた高校生たちに頭が下がる」のなら、直ちに辞任して後を彼らに委ねるのがいい。
我々の社会には、negotiationやtalkという社会習慣が永らく無い。交渉・談判・協議 は忌避されて、善意の「対話」や「丁寧な説明」にすり替えられている。敗戦(これは2回あった)後の一時期、短い例外があった。
外交から日常生活まで交渉し揉めることを嫌がる。bargainingまでが一律の割引であって各人間の交渉ではない。だから国際関係さえ、従属かさもなくば札束による買収。就職までが一律採用の制度をとってしまう。日本人の行事中毒・行事依存の根源はここにあると僕は思う。封建時代から続いている。
地球上どこでもそうなるわけではない。セレベス島のある民族は、王が農民の利益に反する時王を処刑する。処刑に至るまでには様々な段階があり、談判が可能で平和は揉めることを通して実現されている。我々の「民主主義」よりは数等優れている。
学生運動が正常な学園運営に不可欠なように、企業活動には労働組合による抑制が無くてはならない。国家が独立を維持するためには反政府勢力が必要なことは言うまでも無い。それらがすべて欠けた無残な姿が、今の従属・格差・貧困の日本である。すべての歯止めを失った国家は、かつての大日本帝国のように原爆が落ちるまで竹槍を握りしめることになる。
ヴォルテールの「 私は君の意見に反対だ。 しかし、君がそれをいう権利は生命をかけて守って見せる」は
イエーリングの「法の目的は平和である、だがその手段は闘争である」とともに理解しなければならない。
監獄には囚人組合が無ければならない。さもなくば監獄は看守の恣意が支配する無法地帯となり、囚人の更生を妨げ再犯率を高めるからだ。軍隊にも兵士組合が無ければ、いじめと体罰が跋扈し、いざ戦争の時士気は上がらず負けることになる。
学生運動が活発な時代(学生の活動が活発とはセクトの台頭を意味するものでは無い。セクトはしばしば当局以上に学生の思考を凍結するからである)は、同時に大学が知的に緊張していた時期でもある。大学が学問の府でありたければ、批判的学生の台頭を辛抱強く待たねばならない。もう手遅れかもしれない、だとしても身から出た錆だ。
僕は入試全廃しか方法は無いとみる。国立や公立学校はすべて入試をせず、進級規定を厳しくするだけでよい。卒業生は今より大幅に減るだろう。学生も教師も、愚かしい入試から開放された時、日本の大学は長い暗黒から覚めることになる。