自由を与えることは犯罪の真の治癒である

John Dewey and Homer Lane
「自由を与えることは犯罪の真の治癒である。数年前、私はホーマー・レーンのリットル・コモンウェルス(少年院)を見に行ったことがあるが、そのとき私は明らかにこの事実を学んだ。レーンは不良児に向かって自由を与えた。そして子どもらはそれによって自然によくなっていった。貧民窟において、子どもらが自我の満足をはかる唯一の方法は、反社会的な行動をして、人々の注意を自分に向けさせることであった」    ニール

 教える者と教わる側の役割を取り替える。教員が教えてもらう側に移る。次第に生徒は教師が演じていることを忘れて、必死に教えようとする。頭を絞って伝えようと言葉を探す。それは新しい自分の発見である。教師と自分の関係を相対化する。学ぶことの主体性に行き着く。
 O君と番長たちを思い起こす。小中を通していじめられ続けて不安におののいていたO君は、生まれて初めて教える側に立った。彼の中に経験したことのない矜恃が芽生える。番長たちは「自我の満足」の為だけに復讐的に突っ張ることを止めたいと思っていたが、機会がない。絶好の機会だった「O君、教えてくれよ」の一言で彼らは、友情を発見する。双方ともに、役割が替わって全く違った心的経験をしたのだ。        
 復讐する相手も口実もない状況、つまり自由こそが番長には必要であり、担任たる僕の役割は、それを請け合い裏切らないことだった。
 突っ張るのを止めて見えてくるのは、自分に敵対する者と服従する者という相対的関係ではない。不正や不平等という誰が見ても同意出来る事実である。かつて彼らを「反社会的な行動」に追い込んでいた者の卑劣さ弱さを知る。同時に自分の小ささにも気づく、周囲の弱い者への共感も育つ。
 体罰教師を見て「あいつ、本当は生徒が怖いんだ、先生助けてやりなよ」と僕に言い、体罰教師に「おまえ説教するのはいつも職員室じゃないか、どうして一対一の話が出来ないんだよ。意気地なし」と大勢の教師が居る中で言ってのけたのである。言葉にすることで彼らは、人と人の関係を捉え周りに伝えることが出来る。周りにいた教師たちがニャッとして生徒に共感を示したのは幸いであった。
 酔っぱらいの博打打ちと少年の場合、「自我の満足をはかる方法」としては酒やばくちが「唯一」ではなくなったということであり、少年の期待が博打打ちに自由をもたらしたことになる。教師の役割は、そんなことをしていたら就職口はないぞと恐怖の種を増やすことではない。期待すること。
    
追記 ニイルは、レーンが運営する少年院the little commonwealth の自治方式に感動し、ここで働く約束をしていた。しかし彼が兵役を終えた時、すでに閉鎖。そこで、進歩的ジャーナリストたちが創立したキング・アルフレッド校に職を得た。ここは、男女共学、体罰と試験の全廃、宗教教育の廃止などを掲げ、当時最もラジカルな学校であった。ニイルは、ここで自主勉強方式を試みる。だが失敗。教師の指示に慣れていた子どもたちは戸惑い、途方に暮れ、終いに大騒ぎを始めたのだ。同僚の教師からも苦情が相次ぎ、退職したのである。 

「理解するより打つほうがやすい」

 居眠りしただけで解雇を言い渡され、辞表を要求されて書いてしまう若者はいる。「居眠りはいけない」と自ら言い納得するのだ。 
山下道輔さんと谺雄二さんは幼なじみ。
 ハンセン病療養所多磨全生園の山下道輔さんが、はるばる新潟から見学に来た大学生と教員一行に30分ほど話をした時のこと。ハナから一番前で居眠りをする学生がいた。

 後日、写真家の黒崎さんが「それで、居眠りは廊下でやりなさい、出て行け」と言いましたかと聞いた。山下さんは湯飲みの酒を実に旨そうに飲みながら「いや、そこの兄さん昨夜はよほど勉強して疲れていると見える。どうせ寝るならこうやって寝なさいと言ったよ。そしたらぱっちり目を開けて最後までこうやっ聞いてたよ」うつらうつらじゃなくて、机に突っ伏して寝たらと言ったのだ。
    山下さんは一日に一合だけ飲む。しかし実に旨そうに飲む、つまみもなしに酒だけを。ハンセン病資料館館長の成田医師は、「こんなに旨そうに飲む人を見たことはない」と、わざわざ酒を持ってきたほどだ。

 冒頭の若者を、「居眠りはいけない」と言いながら自ら辞表を書くような精神に訓練したのは、学校文化であると僕は断言する。「いけないことはいけない」と、事の軽重を無視して正義を叫ぶ癖が、学校や教員には少なからずある。キセルも一回だけでも、窃盗と同一視して厳罰を要求する。たかが万引きや煙草などと言おうものなら、目を剥いてかかってくる。そのくせして、同僚の体罰には教育愛と言い張って擁護する。権力犯罪には反応すらしない。
 こうした教員は山下さんのように旨く酒を味わう事はあるまい。事柄を人間において判断しない、出来ない。三木寮父が話した酔っぱらいのばくち打ちと少年の話を彼らは理解できまい、その賢さに欠けている。教師は頭がよくなくてはならないの半分はこのことである。人間を理解する経験とと知性に乏しいからこそ、規則において人を判断するのである。
 「理解するより打つほうがやすい」 ニール

待つことの積極性

武谷三男 物理学者、湯川秀樹の共同研究者
  戦後になって、羽仁五郎と対談する機会があった とき、羽仁さんに、「八月十五日に友達がぼくの入れられいた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくれるんだ、と思って、一日まってたよ。・・・君でさえ、かけつけてきて鍵をはずしてくれなかったのだからな」といわれた。 
 「おっ」と思った。彼はそういう形で私の責任を追及してきたんです。
   もう一人似たようなことを回想として語った人が武谷三男です。敗戦のときに、彼のうちに布施杜生の元細君がいたんです。布施杜生というのは、野間宏の『暗い絵』の主人公に当たる最後の共産主義者で、治安碓持法で捕まって、獄死した人です。 
 その布施杜生の細君が戦争が終わったのを聞き、ものすごく喜んで、「獄中の同志を助けに行こう」という手書きのポスターを新橋駅近くの電信柱に張って歩こうとしたんですね。ところが、武谷三男はそれをとめた。新橋あたりには、まだ戦争を続けるのが正しいと思っている人が大勢いるはずだ。そこでそんなことをしたら、ひどい目に遭うにちがいない。やめたはうがいい、と強く説得してやめさせた。 
 しかしそれから十年たって、歴史を振り返ってみると、そんなことをやった人間は誰ひとりいない。ということは、日本の人民のなかのただひとつあった可能性を自分が潰したことになる。それについて、自分は責任を感じる、と武谷はいっていた。 
 この武谷の考え方も、やはりミステイクン・オブジェクティヴイティを免れている。歴史のなかに自分のやったことがきちんと入っているわけです。現代史というのは、そういうものなんだ。自分がやっていること、やったことを入れ込んだうえで歴史を見ていく。そういうふうには歴史を見ないのが天下の大勢ですよ。大方は、誤れる客観主義に陥ってしまう。羽仁五郎と武谷三男にはそれができた。       鶴見俊輔  思想の科学1968.10 『語りつぐ戦後史』

  我々日本人は、自前の戦争犯罪を問う法廷を持てなかった。それどころか、戦争を批判して獄中にあった思想犯を救い出そうとさえしていない。
  治安維持法は敗戦後も「迫り来る「共産革命」の危機を口実に断固維持適用する方針を取り続けた。それを日本人は許した。その中で1945年9月26日に世界的哲学者の三木清が獄死したのである。いわば見殺しと言ってよい。10月1日GHQ設置。10月2日、仏人特派員がが獄死した情報をえて、おどろいた欧米記者たちがさわぎだした。調べてみると看守がわざと、介癬患者がつかった毛布をあてがったことが判明。床に落ち、もがき苦しんでの死であった。敗戦から2ヶ月、まだ全ての政治犯4000人が獄中にいた。
 10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣が、英国人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けており、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張。岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。全く敗戦の意味がわかっていない。10月4日、GHQは人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法廃止と山崎の罷免を要求。東久邇内閣はショックを受け総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止され、特高警察も解散を命じられている。情けない話である。

 非転向のまま獄中あった共産党員ぬやま・ひろしは、釈放から30年たった死の直前に、こう言っている。
 「戦争が終ったときに私たちは疲れきっていて考える力というものをほとんど完全になくしていました。そのときに占領軍の士官がきて私たちを釈放するということを伝えました。徳田球一は私たちの中でただ一人元気で私にこの占領軍の申し出を受け入れるべきかどうかということを尋ねました。そのときに私はもう考える力がなかったので彼が正しいと思うようにするようにと答えました。ですからいま私がこんなことをいうのは当時の自分の先見の明を誇っていうのではないのだが、私はあのときにこう答えるべきだったといまは思うのです。日本人がやがて私たちを自由にするまで私たちは獄中にとどまっているべきだ、というべきだったなと思います」     鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』

 「日本人がやがて私たちを自由にするまで私たちは獄中にとどまっているべきだ」これが、まっとうな政治判断である。待つことは決して消極的行為ではない。
 中井正一の「ある瞬間がくるまではびくとも動かない岩の扉が、ある瞬間が来ると突如として開くときがある。しかしそれはただ自然に開くのではない。一本の小指の力でもいい、運動を起こす力が加わって、始めて歴史の扉は開く。その一本の小指となるもの、それが君たちインテリゲンチアだ」の「ある瞬間」を堪えて待たねばならぬ場合がある。根が伸びて若芽が安定する前に、無理矢理引っ張って枯らすようなことを「指導」と言い募って台無しにしたことがどんなにか多いだろうか。学校でも、政治や市民運動でも。
 布施杜生の細君・布施歳枝がここで言う「一本の小指」であった。「歴史を作るのは人民である」ことを日本国民が自ら実感し、昨日まで人民を支配していた者に通告する空前絶後の機会であった。もしこれが実現していたら、占領軍を解放軍と位置づける過ちは避けられた筈だし、新しい憲法への動きも異なっていたに違いない。天皇が沖縄を米軍に差し出すという暴挙もなかっただろう。悔やまれてならない。

医者は貧困をなおせない

 1905年日露戦争にロシア軍軍医として、ハルビンに送られたコルチャックは、多くの子どもたちが親を殺され、飢えながら無力な状態で放置されていることに心を痛めます。戦地で、ロシアの敗北を祖国の独立と革命へと気勢をあげる兵士の集会に招かれて、次のように演説をしています。
子どもには育つために最適の環境が与えられるべきである
 「戦争に発つ前にあなた方は傷つけられ、殺され、みなしごになるであろう無実の子どもたちのことに、立ち止まって、思いを馳せていただきたい」
 戦後のワルシャワは、デモとストライキでさながら革命前夜の観がありました。ロシア皇帝は大量虐殺でポーランド国民を弾圧、二年後に革命は敗北します。このときもまた、敗戦も革命もユダヤの陰謀・煽動であるとする、反ユダヤ主義キャンペーンがはられました。
 このときすでに、コルチャックは高名な作家として知られていました。豊かな階層は競って彼に診察をしてもらいたがりましたが、彼はそんな連中を好きになれませんでした。豊かな連中からとった診察料は、貧しい人々を診るのに当てました。
 病院で、不安におびえた子どもが夜中に目を覚ますと、コルチャックの優しい目があり、眠れない子どもには、一本一本の指の物語をして、指に息を吹きかけるコルチャックの姿がありました。彼は子どもの患者の権利のためであれば、病院経営者であろうと医者や看護婦であろうと、たたかいながら七年間小児科医を続けました。しかし、病がいえた子どもたちが帰ってゆくのは、貧しくて不潔な愛情に欠けた世界であり、そしてそれを医者は変えられないことに悩み続けます。愛情の欠乏や飢えに泣き無知に苦しむ子どもたちを生み出す貧困や搾取を、薬や手術でなくすことはできません。
                                              (孤児の家)
 1911年、コルチャックは病院をやめました。そして、貧しいユダヤ人街に、子どものための「ドム・シュロット」(孤児の家)を、慈善協会の協力で設立しました。そこに、戦争孤児・病人やアル中患者や障害者の子・革命家の子・囚人の子・浮浪児・売春婦の子そして盗みや乞食の経験のある子・暴力的な子を受け入れたのです。
 このとき、ポーランドに義務教育制度は確立されておらず、教育は一部の豊かな階層だけにしか許されていませんでした。
   にもかかわらず、完成した孤児の家は、セントラルヒーティングや電気設備をもつワルシャワ初の建物の一つで、迎え入れられた子どもたちは、その素晴らしさに信じがたい思いをしたそうです。
  子どもには育つために最適の環境が与えられるべきである - コルチャック
 だが、施設の最初の一年は最悪でした。子どもたちはコルチャックの規則に反発して盗み、壊し、教師たちは倣懐に振る舞い、コルチャックが説く高尚な共同体の理想は無視されました。彼は挫折感に打ちひしがれます。
 彼は集団の良心が育ち、子どもたちが落ちつき、そばにやって来るのを粘り強く待ちました。
 子どもの自治による進歩的な孤児院「ドム・シュロット」のニュースは、まもなくヨーロッパ中に広がり、訪問者の群れがおしよせます。その中の一人、ヘルマン・コーへンはこう書きました。
 「私はいくつかの模範的孤児院をたずねて深く感銘を受けた。とくにワルシャワのゴールドシュミット・コルチャック医師によって、はかりしれない愛と現代的な理解をもって運営されている孤児院には感動した」

危険なのは使命感

 「永海佐一郎は教養にじゃまされることなく
隠岐に生まれた無機化学の世界的権威で教育者
自由にものを考え、しゃべり、書くことができたようである。 かれの自叙伝は、いわゆる教養人からみれば恥ずかしいほどにあけすけである。かれは自分が教育好き、講義好きであることをかくそうともしない。ふつうの〝教養のある″科学者はたとえそう思っても絶対口に出そうとはしないし、そう思わないように努めるものなのだ。教育は研究より下に見られていることを知っているからだ。同じことをいうにしても「教育に使命を感じて」といういい方をするものだ。
 ところが、永海が化学教育に夢中になったのは、それに使命を感じたからではない。自分自身好きだったからだ。だからかれは、その講義をきき実験を見る人たちにもなんとかそのよろこびを分かちあってもらおうと夢中になる。「使命を感じて」教育をやる人とはその姿勢がまるでちがう。かれの本を読んでいて気持ちのよいのはそのためであろう。かれは「教育的使命を感じて押し付ける」なんていう発想をまるでもっていないで、読者が化学を本当にたのしめるようにとだけ考えて化学教育の組織にのりだしたのである。これは日本の科学者、科学教育者としては、まったくめずらしいことだ」 
   「かわりだねの科学者たち」 板倉聖宣 仮説社           

 いったい教養人とは、誰が誰を指していうのだろうか。妙な言葉である。使命感の底には、背伸びした劣等感としての優越意識がある。それが、例えばハンセン病絶対隔離発案者・光田健輔を気高く見せ、光田に追随する者をも引き上げる。光田を祭り上げれば上げるほど、自分も輝くような気がする。しかし所詮虚構。脆く崩れ去る危機は常にある。それ故、感染力の極めて弱い病気を、ベスト並みの危険な病気と絶えず宣伝して、それに立ち向かう虚偽の己を祭り上げてしまう。その結果、ハンセン病者をこの世の地獄に落とし込んだのだ。ハンセン病が危険なのではない、使命感が危険なのである。 
 全生分教室中学派遣教師たちに使命感がなかったのは、幸いと言わねばならない。すぐに転勤という約束を取り付けた者が使命感を言うのは格好がつかないし、患者教師たちが授業を楽しんでいるのを見れば、使命感の据えどころはない。授業好きに使命感は要らない。患者と共に病気に立ち向かうことが好きな医師に使命感は要らないし、差別意識が芽生えることもない。
 
  F先生は、いつの間にか使命感にとりつかれていた当blog「心を病んだ教師」 非常勤の時は、使命感どこ吹く風といった趣の、しかし文句の付けようのない国語教師であった。ギターを抱えて教室に向かう姿は、颯爽として自信に満ちていた、授業の導入にフォークソングの歌詞を使うのだった。国語教材に社会科関係のことが触れられていれば、よく準備室にやって来て、質問して話し込んだ。だが採用試験に合格して教諭としてH高に赴任、6年を経て邂逅したとき、彼は統合失調症を病んでいた。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...