医者は貧困をなおせない

 1905年日露戦争にロシア軍軍医として、ハルビンに送られたコルチャックは、多くの子どもたちが親を殺され、飢えながら無力な状態で放置されていることに心を痛めます。戦地で、ロシアの敗北を祖国の独立と革命へと気勢をあげる兵士の集会に招かれて、次のように演説をしています。
子どもには育つために最適の環境が与えられるべきである
 「戦争に発つ前にあなた方は傷つけられ、殺され、みなしごになるであろう無実の子どもたちのことに、立ち止まって、思いを馳せていただきたい」
 戦後のワルシャワは、デモとストライキでさながら革命前夜の観がありました。ロシア皇帝は大量虐殺でポーランド国民を弾圧、二年後に革命は敗北します。このときもまた、敗戦も革命もユダヤの陰謀・煽動であるとする、反ユダヤ主義キャンペーンがはられました。
 このときすでに、コルチャックは高名な作家として知られていました。豊かな階層は競って彼に診察をしてもらいたがりましたが、彼はそんな連中を好きになれませんでした。豊かな連中からとった診察料は、貧しい人々を診るのに当てました。
 病院で、不安におびえた子どもが夜中に目を覚ますと、コルチャックの優しい目があり、眠れない子どもには、一本一本の指の物語をして、指に息を吹きかけるコルチャックの姿がありました。彼は子どもの患者の権利のためであれば、病院経営者であろうと医者や看護婦であろうと、たたかいながら七年間小児科医を続けました。しかし、病がいえた子どもたちが帰ってゆくのは、貧しくて不潔な愛情に欠けた世界であり、そしてそれを医者は変えられないことに悩み続けます。愛情の欠乏や飢えに泣き無知に苦しむ子どもたちを生み出す貧困や搾取を、薬や手術でなくすことはできません。
                                              (孤児の家)
 1911年、コルチャックは病院をやめました。そして、貧しいユダヤ人街に、子どものための「ドム・シュロット」(孤児の家)を、慈善協会の協力で設立しました。そこに、戦争孤児・病人やアル中患者や障害者の子・革命家の子・囚人の子・浮浪児・売春婦の子そして盗みや乞食の経験のある子・暴力的な子を受け入れたのです。
 このとき、ポーランドに義務教育制度は確立されておらず、教育は一部の豊かな階層だけにしか許されていませんでした。
   にもかかわらず、完成した孤児の家は、セントラルヒーティングや電気設備をもつワルシャワ初の建物の一つで、迎え入れられた子どもたちは、その素晴らしさに信じがたい思いをしたそうです。
  子どもには育つために最適の環境が与えられるべきである - コルチャック
 だが、施設の最初の一年は最悪でした。子どもたちはコルチャックの規則に反発して盗み、壊し、教師たちは倣懐に振る舞い、コルチャックが説く高尚な共同体の理想は無視されました。彼は挫折感に打ちひしがれます。
 彼は集団の良心が育ち、子どもたちが落ちつき、そばにやって来るのを粘り強く待ちました。
 子どもの自治による進歩的な孤児院「ドム・シュロット」のニュースは、まもなくヨーロッパ中に広がり、訪問者の群れがおしよせます。その中の一人、ヘルマン・コーへンはこう書きました。
 「私はいくつかの模範的孤児院をたずねて深く感銘を受けた。とくにワルシャワのゴールドシュミット・コルチャック医師によって、はかりしれない愛と現代的な理解をもって運営されている孤児院には感動した」

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