かへすがへすも羨ましの鶏や

 
 あの烏にてもあるならば 君が往来を鳴く鳴くも
などか見ざらん かへすがへすも羨ましの鶏や げにや八声の鳥とこそ 名にも聞きしに明け過ぎて 今は八声も数過ぎぬ 空音か正音か 現なの鳥の心や      

       『閑吟集』



 If I were a bird, I would fly to you.という言い回しを 仮定法過去という無味乾燥な文法用語とともに高校で教わったが、教養とは程遠い断片的なものでしかなかった。
 しかし大和猿楽にあるこの歌なら、枕草子や世阿弥の『逢坂物狂』に連なる豊かな表現を知ることができる。

 まずは英語の教師が大和猿楽にも通じ、古典の教師が仮定法過去を知ること。それが偏差値の呪縛から若者を解き放つ。そして教室から解放たれて、街に出ることにつながる。
  『閑吟集』は、16世紀の室町期に編まれた小歌の歌謡集。世捨て人を自称する男が「ふじの遠望をたよりに庵をむすんで」昔を偲んだか。集合住宅の最上階にある僕の部屋からも、富士が見える。北斎の「赤富士」風に見える日もある、僕も既に世捨て人である。


 「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」や「世の中は ちろりに過ぐる ちろりちろり」など、無常観漂う世界が、遠い過去の他人ごととは思えない。

 ここで鳥とは、逢坂の関で夜が明けても鳴く鶏のことである。別れを悲しむ対象を持つことの、狂おしさ。

ハイケンスの「セレナーデ」と明るい貧乏が、平和を握りしめていた

  ハイケンスの「セレナーデ」が、露地で遊びに熱中する子どもたちの歓声を静めるように流れたのは、午後の四時頃。

 記録によればNHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。   1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。
    NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せた。集落が静まり返って聴き入ったわけである。
   手紙の内容はまとめられ、アナウンサーによって淡々と読み上げられた。https://ja.wikipedia.org による。


 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。
 ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。
 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。
 これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。←クリック



 番組が終わると共にどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。

 このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。


 祖母たちが、庭で遊びで明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和を握りしめていた。

    しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想に欠けていた。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...