青少年の自立を促す役割を担う教員に欠かせない素養は、学校の尺度では測れぬ少年たち独自の時間(若い教師であれば、数年前までは少年だったはずなのに、早々とそのことを忘れていることに危機感を持つ必要がある)を感じること、長時間観察に耐えることだ。それは在籍期間を上回ることさえある。
王子工高のM君は、遅刻(並の遅刻ではない、二時間、三時間はざらで六時間目終了間際に登校したことも)と授業中の居眠り(教卓の真ん前で、折りたたんだバスタオルを枕に「熟睡」する)。掃除もせずサッサと不機嫌なまま下校。その他諸々に生活は乱れ切った。
少年らしい快活さが戻るのに、二年半。僕は成績会議の度に「優秀な担任は、こうした生徒を早期に退学させるものだ」と咎められて胃が痛くなった。
困り果てたM君の父親は度々登校して「息子を殴って下さい」と懇願した。「それは僕の仕事ではありません」と僕は言い続けた。
不思議なことにいつもギリギリの点を取り、実習や実験レポートもすれすれで提出して進級した。教科担任の中にはM君の顔を忘れた人もいた。
秋のある日だった。倫理の授業中、突然M君が起きあがって腕組みして僕を睨んだ。「よう久しぶりだな」と言おうとしたが、険しい顔付きに押されて無駄口を出せない。長い時間を教卓の真ん前で身じろぎもせず睨み続けた。数日後、数人の生徒が「先生、大変だよ。来てよ」と言う。慌てて駆けつければ、「あいつが掃除してるんだ、大変だよ」とM君に聞こえるように言う。箒を握ったM君が笑いながら僕を見ている。「うん、これは大変だな」と笑い返した。それから、彼は卒業まで一日も遅刻せず登校し、居眠りもしなかった。彼の生活の変貌振りは、微笑ましく凄まじかったがここでは書くまい。
最初これはこの日の授業(「実存とは何か」)のお陰だと考えていた。彼の熟睡は寝た振りと考えた僕は、彼の反応を狙って授業を組み立てたのだ。
「親や教師から説教されると、それが正しいと分かってもムカッとする。人間は、自分でももうこんなことは止めようと思っているときに、そのことで説教されると殊更ムカッとするものなんだ。この反応を「反抗」と呼ぶ、反抗は誇りある人間の証だ」と講じていた時、M君はガバッと起き上がった。僕はこのことを「不当強調」したい誘惑に駆られた。しかし大切なのはM君の主観において考察することだ。「不当強調」は倫理上の罪である。
M君は、学校や家庭の常識に振り回され続けた。「このままではろくな大人にはなれない」「世の中は甘くない」と。だがM君は、一方的に説教される客体ではなく、状況に主観的に自らを投入する主体である。そのことに気付き始めていたのではないか。M君が自力で辿って得たものこそ思想である。
彼は、学校や親の一方的断定に押されて、心が受動的=パッシブになった。二年以上を「沈黙」のうちに過ごした。彼は「自由と不自由の際」に自ら立っていた。
「青年は荒野を目指す」という科白があった。少年はいつか「自由と不自由の際」=荒野に立ったことを自覚して青年になる。教師や親の判断に依存するのではなく、自身の主観において世界を引き受ける。それが自立である。
M君が二年余の眠りから目覚めたのは、僕の授業のおかげではない。そう思い込んだのは、教師の傲慢=「不当強調」だった。
「飼育」を拒否して自立するには、安逸な「檻」から自らを隔離しなければならない。だからM君は敢えて堂々と「寝た」のだ。アランが、考えるためには「静かで暗く長い時間」が必要と言ったのはこのことだった。その暗く長い時間を、耐え抜き考え通したのは彼自身である。
哲学は、少年/少女ら自身の中に生まれる。我々が「教えてやる」ものではない。
この項は2019年のblog投稿「自然には独自のリズムがある 少年の自立と成長には深く静かな時が欠かせない」から抜き書きした。