批判精神を骨抜きにして、事なかれ主義に堕ちポストを得る

  儒者叔孫通は、秦末から漢にかけて様々な君主に仕えた世渡り上手である。劉邦に降伏して仕えるときには、儒者嫌いの劉邦に忖度し、楚の服に着替えている。
  劉邦が漢王朝を作り上げると、叔孫通は、朝廷儀式の制定を進言。
 -難き無きを得んや
 劉邦は、作法が難しすぎるのを心配した。叔孫通は、礼というものは、時世人情によって節減したり修飾したりできると、答えて見せた。劉邦は、
 -試みに之を為す可し。知り易からしめよ。吾が能く行なう所を度りて之を為せ。
と、念を押す。やってみよう。だが、わかりやすくしろ。という注文である。叔孫通は魯の儒者を呼びよせたが、二人だけ招きに応じない。「天下が定まったばかりで、死者もまだ葬られず、負傷者もまだ治っていないのに、礼楽をおこすのはなにごとか」といって怒った、礼楽は徳を積むこと百年にしてはじめてつくられる、という儒の考え方を守ったのである。
 -吾、公(叔孫通)の為す所を為すに忍びず。公の為す所は、古に合わず、吾行かず。 -公往け。我をけがす無かれ。二人の儒者は、厳しい言葉で拒否したが、叔孫通は笑って、 -なんじは真に鄙儒なり。時変を知らず。
と、言い返して、体制批判勢力でありつづけた儒教が、「時変」を知り体制にすり寄ったことを公言したのである。叔孫通は、劉邦向きの朝儀をつくり実施、粛然と行事は進行した。劉邦は満悦し
 - 吾、すなわち今日、皇帝たるの貴きを知れり。
と、叔孫通を太常に任命し金五百斤を下賜したという。
  儒教の「国教化」は武帝に始まる。「「国教化」と共に、堅苦さだけが強調され始める。強烈な批判精神は、しだいに骨抜きに、ポストを失わないために、事なかれ主義になる。                                      
  君子は下学して上達す、小人は下達す。 論語  憲問第十四
 君子とは人格者のこと。 上達とは人格の向上を目指して努力すること、下達は欲に振り回されて堕落すること  下学は身近なことを学ぶこと。
 君子は無能を病とす。人の己を知らざるを病とせざる也。  論語 衛霊公第十五
 人が自分を評価しないことを気にせず、己の能力の足りないことを悩むのが人格者というものだ


勤評以前の先生たちは大らかで優しかった

 熊本市立詫間原小学校は、阿蘇を越え水前寺駅に向かう豊肥本線蒸気快速「火の国」が減速し始める辺りに1954年開設された。大きな土手に囲まれた広い構内に、先ず一年生だけで入学式があり、上級生が五月になってから転校してくるという妙な開校をしている。松本先生は大学を卒業して間もない。何もかもが、質素だが新しく、削りたての材木の香りとコンクリートの匂いがした。
入学直前、口頭試問があり、路面電車の絵からその進行方向を判断するものだった。誰もが正解するはずが、僕は胸を張って「わからん」とだけ言った。三人並んだ先生の中から優しい目の先生が側に来て、「ここに運転手さんがいますよ」などと助け船を出すのだが、僕は「わからん」を叫び続けて先生を困らせた。この先生が僕の担任になった。このとき母は、他の保護者や順番を待つ子どもらに混じって廊下で僕を待っていたのだが、「わからん」と叫ぶたびに笑い声が上がって、大いに赤面したという。試問を終えた僕は、得意げににっこり笑いながら出てきたらしい。
 市電車庫内では、電車がポイントを切り替えながら頻繁に発進後退を繰り返し、入れ替え作業をする。運転手の位置も集電架の傾きも変えない。僕は付近にあった市電車庫によく見物に出かけていた。この絵だけでは、どちらに進んでいるかは分からない。帰ってそれを説明すると、遊びに来ていた大叔母は「あよー、うんだもしたん」と言うなり笑いながら学校に跳んで行った。この大叔母が前の晩「分からん時にゃ、分かりませんとはっきり言わんといかんよ」と教示したのである。普通学級には向かないと判定されていたかも知れない。

 授業が始まっても席に着かずに立ち歩き、体育は黙って帰ってしまう。並んだり行進したりの繰り返しに馴染めなかった。やっぱりと、先生は心配したかもしれない。しかし少しも慌てず、立ち歩く僕にプリントを渡し「配って頂戴」と指示して配り終わるのを待って「有り難う、自分の席に戻りましょう」と誘導したらしい。戦争中、小学校教師であった母は、気になってそっと教室を覗いたのだ。
 書き方が始まると、力の加減の出来ない僕の帳面はあっという間に鉛筆で破れ、鉛筆は芯が折れてたちまち短くなった。土曜日一人残され書き方の補習を受けることになり、みんなは「よかなぁ、オイも残されたか」と羨ましがった。 新聞紙の山と筆と水桶を抱えてニコニコしながら教室に現れた先生は、水で濡らした筆先を潰さないように字を書く練習を繰り返し、次の土曜日には墨を使い、三度目には鉛筆を折らず紙も破かずに字を書けるようになった。

 ある日授業中突然、先生はオルガンを引き始めた。それに合わせてみんなで「雨・雨ふれ降れ、母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな」とうたった。気が付けば、外は土砂降り。先生に促されて下校の支度をして昇降口に行くと、大勢のお母さんたちが傘と雨靴を持って待っていた。どのお母さんも優しい顔をしていた。

 熊本には珍しく大雪が降ったことがある。どの教室でも忽ち雪合戦が始まり、教室は泥まみれの雪だらけで、叱られるかなと思っが、教室に現れた先生は、この時も慌てず笑顔で「机を下げて、掃除しましょうね」と優しかった。先生たちは教室が汚れるのを承知で、雪合戦を楽しませたのではないかと思うことがある。勤評以前、先生たちは優しく大らかだった。子どもと教えることに意識を集中できたのだと思う。

 二年生になり、先生は産休に入った。代わりの先生は来ず、僕らは三つのクラスに分散して預けられた。一教室に70人が詰め込まれ、借りてきた猫のように小さくなっていたのだと思う、殆ど記憶がない。
 産休があける頃、先生が教室をそっと覗きに来た。廊下側後ろの女の子が「あっ先生」と言うなり、立ち上がり廊下に突進、それを追うように次々と教室を飛び出した。他のクラスからも騒ぎを聞きつけて出てくる、女の子たちは先生に抱きついて泣いている。先生は慌ててたしなめるのだが、みんなの頭を撫でて嬉しそうだった。
 数年後封切られた『二十四の瞳』に、この時とそっくりな場面があり不思議な気がしたものだ。今でも『二十四の瞳』を見るたびに先生を思い出す。映画では怪我をして休んでいる大石先生を、子どもたちが草鞋履きで遠い道を訪ねる。途中病院帰りのバスに乗った先生とすれ違い、バスを止めて降りた先生に子どもたちは縋り付いて泣いた。二人の先生はどちらも学校出たて、時代は戦争を挟んでいる。大石先生を囲んだのは12人の一年生、松本先生の周りにひしめいたのは50人余の二年生。他のクラスの生徒や担任たちも遠巻きにしていた。このときの松本先生は、高峰秀子ではなく香川京子に似ていた。

  大きな色画用紙に絵を描くことになった。構想や下書きだけで何時間もかけた記憶がある。鼠色の紙を選んだ僕は、金太郎が熊ではなく象と相撲をとり、いろいろな動物が周りで声援する様子を描いた。暫くしてこの絵が県主催の展覧会で入賞したことを先生から知らされ、家族も鹿児島の大叔母も級友も会場のデパートに出かけたが、僕はとても見る気にはなれなかった。 注目を浴びて人目に曝されることへの嫌悪感と恐怖があったからである。
 絵の表彰式の連絡が先生を通してきた時「行きたくなか、賞状は要らん」と泣き出しそうな顔して言うと、先生はにっこり笑って「分かりました」と頭を撫でてくれた。結局先生が賞状と副賞を貰ってきてくれた。職員室に呼ばれ、僕が「朝礼で表彰式をしないで」と頼むと、先生は「組でも言いませんよ」と請け負ってくれた。絵には銀色のリボンが付けられ、副賞は図鑑のセットだった。父がお祝いに本立てを作ってくれた。

追記 勤務評定を僕は憎む。僕の学校に関する嫌な思い出は、ほぼ勤務評定以降である 。

夏休み明けの気分の重さと自殺の多発

  二学期は心機一転巻き直しがない。一学期は担任もクラスも変わるから、すこし希望がある。しかし、二学期は一学期に出来上がった人間関係を前提に、行事が目白押し。
 担任は無神経に「クラス一致で頑張ろう」とけしかけ、周りもむやみに盛り上がる。人間関係のちょっとした失敗は、誰にもある。行事はそれを修復することもあるが、たいていは失敗の上塗りに終わる。行事は、親密な者同士はより親密に、不仲な者をより疎遠にする。体育祭も、文化祭も音楽を使って、場のテンションを高く保ちたがる、おかげでみんな気持ちよく統制され、半ば酔うのだ。その不自然さが、嫌だった。明るい賑やかさの中に、ファシズムの匂いがする。

  小学校三年生の頃、1950年代終わり「もはや戦後ではない」の掛け声に乗って、鹿児島の片田舎にもパチンコ屋が乱立した。崩れ落ちそうな空き家が、突然パチンコ台数十台を土間に据えて営業し始めた。パチンコ台の音だけでも煩いのに、人を呼び込む景気づけに軍艦マーチが大音量でかかっていた。祖母たちは、耳を押さえながら「すかんがー、やぜろしかー(嫌だー聞きたくない、煩い)」と言いながら駆け抜けるのだった。祖母の姉も妹も戦争で夫を失い、子ども戦死していた。遺骨さえ戻っていない。僕はマーチのリズムに足が揃いそうになるのを堪えるのに困った。 
 NHKが毎日夕方4時すぎ、ハイケンスのセレナーデで始まるnhk「尋ね人」の時間になると、集落中が静まり、子どもたちのの遊び声も祖母たちの裁縫や炊事の手も止まった。子どもにも、その静寂が意味するものが伝わった。放送が終わると、どの家からも深いため息が漏れ、再び元の集落の生活音が戻るのだった。
 「もはや戦後ではない」の掛け声やパチンコ屋軍艦マーチの賑々しさは、戦争で身内のほとんどを失った者の悲しみと怒りを無理やり押さえつけるものだった。

 夏休み明けの気分の重さは、それに似ている。もっともらしい掛け声と共に、一人ひとりの思いはかき消されてしまう。校庭や教室・廊下の佇まいまで一変して座る場所さえなくなる。
 
  学校から全ての式を含めた行事を無くしたい。クラブで研究発表をやりたければ、任意の日を設定して、廊下・階段やホールを利用してやる。他にもやりたいグルーブがあれば日をずらす。駅や地域の掲示板へのポスターも自分たちで作り貼って回る。地域の人や他校の生徒に公開したければ、公民館と交渉する。演劇や合唱をやりたいグループも、昼休みに中庭や大教室を使う。体育祭類似のものが欲しくなったら、学校と交渉して一日を空け、sports dayとして、学校のあちこちで、当日エントリーの競技を楽しむ。入場式も、得点集計による表彰もない。競技はどんなグルーブでも参加でき、審判も自分たちで工夫する。放送もない。演説がたまらなく好きなら、昼休みの中庭を使う。ピアノやバイオリンなどの演奏も。
 日常の授業は、継続する。授業がつぶれたり無くなったりするのがいいのなら、いつでも好きな時を選んで個人なり友人誘い合って、学校を休めばいい。全てが個人の決意と工夫に委ねられるのである。
  入学式も卒業式もない。従って鬱陶しいだけで怒声飛び交う予行もない。始業式や終業式に替えて、最初の授業と最後の授業だけがある。修学旅行もない。ただ授業の延長としての実地研修が、グループごとに夏休みに行われるだろう。少人数だから辺野古や南京にも行ける、日程にも縛られない。ドイツでは、アウシェビッツに一週間泊まり込んで、作業しながら学ぶschool excursiontがよく行われる。

  こうして二学期初めの自殺の大方は避けられるのではないか、普段の自殺も少なくなる。自殺は一つの辛さだけでは、なかなか踏み切れない、どこかにいくつもの逃げ場が残っている。複数の辛さが複合して、どこにも逃げ場がないとき自殺は起こる。home roomはそういう時のためにある。
 だからクラスが競争や非日常的行事、叱責・処分の場や単位となってはならない。常に穏やかで開かれた安全がなければならない。それゆえ、個人は其々の不条理や暴力とも闘いうる。
  クラス優勝や表彰の賞状が教室に飾られ、優勝杯や楯垂れ幕が校舎や廊下を占拠するのは最悪の光景である。ひとり一人の存在そのものの尊厳だけが、我々の自慢でありたい。甲子園出場も数学オリンピック金メダルも「誰かがビリにならなきゃいけないのなら、私がビリなってもいいでしょ」も断じて等価である。

底辺校っていうな 2

  大平正芳が首相に就任した時、宮沢喜一が「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言ったことはよく知られている。大平正芳は苦学して東京商科大学を卒業後、大蔵官僚となった。称賛すべきところなのに、嫌みを言っておかねば気が済まない。宮沢は超一流好みの学歴主義者であった。東京大学法学部卒大蔵省出身、それを鼻にかけて憚らない。
 「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と発言したのも宮沢である。
  マスコミが相手だと、東大卒それも法学部卒でないと口もきかなかった。だからマスコミ各社も「宮澤番」には東大法卒を充てざるを得なかった。マスコミ各社政治部の劣化と堕落はここに始まったのかもしれない。大森実も筑紫哲也も石橋湛山も東大ではない。
  だが学歴、家柄にこだわるのは宮沢ばかりではない。「底辺」校の着任式ですら、新卒教員が名門校出身と紹介されると生徒たちはどよめくのである。しかし授業で忽ち化けの皮が剥がされるのは早い。にもかかわらず、ことあるたびに、学歴、血筋に耳が反応する。これが日本中のあらゆる階層で裏返って「底辺校」への視線を形成することになる。
  シュードラがバラモンに、来世の幸福を願ってなけなしの金を「喜捨」する光景を思わせる。金を受け取る側がふんぞり返り、差し出す側が恐れ入っているのである。

  底辺校というのは単に偏差値ランキングが低いだけではない、それなら底辺と言わなくても成績や学力の問題を言えばいい。そもそも底辺校という言葉は生まれなかったはず。そこには、普通の学校では考えられない光景がある。例えば茶髪の生徒を校門で追い返すばかりか、昇降口の水道で染色剤を強制的に洗い流す。授業に集中しない生徒に「殺すぞ」と脅す。定期試験の最中に服装、ピアス・頭髪を名標を持ってチェックして生徒の気分を害す。些細なことで殴る、説教して授業に行かせない。いくら寒くてもセーターも手袋もマフラーも認めない。生徒の気分も所作も言葉も荒れないわけがない。
 こうした光景が、複合して「底辺校」の烙印は押される。

 ドゥルーズは優れた教師とは、「私のようにやりなさい」ではなく「私と一緒にやろう」という者だと言っている。
 教師が生徒に「私と一緒にやろう」ということが、底辺校ではめったにない。よくて「私のようにやりなさい」である。たいていは「私の命ずるようにやりなさい」である。更に進んで「なぜ私の命じたようにやれないのか」という叱責となる。だから体罰が生じる。
 そこには「君たちと私は、同じではない」という拒絶の言説が言外に含まれている。宮沢喜一が東大法学部出身記者以外とは口もきかなかったのと同じ構図がある。自分の出身校や前任校のトレーナナーを着続けるのも、生徒には不格好な制服を強要するのも、「君たちと私は、同じではない」を視覚化したものである。指示・命令・説教が多いのは「立場が違う」という意識がなせる業である。「名門校」にいたときや転勤すれば「私と一緒にやろう」と言える、言いたいのである。

  底辺校の現実を緩和できるのは、今の日本では「高校三原則」に戻ることぐらいだが、現実は逆向きに疾走している。
 高校三原則が維持された京都で、最初に問題にされたのは公立の受験校がないのは京都府だけだという言いがかりであった。特定の高校に東大合格者が集中しないが、どこからでも合格するという反論に耳を貸さないのである。僕は、人は平等や公平に耐えられないのかとため息が出た。しかしこれは平等に耐えられないのではなく、平等が未来に向けて徹底しないためだと思いたい。行政の平等が横並びの押し付けに終わっているのだ。図表は、その横並びさえ横着にサボっていることを、あからさまに示している。
千葉県立布佐高校の鳥塚義和教諭の調査
 千葉県教育庁によると2006年度以降、保護者らの意向がまとまった場合にエアコンの設置を認めている。「厳しい財政上、公費で設置することは難しいので、保護者が希望した学校には設置を認めている」とのスタンスだ。自衛隊の騒音対策によるものは例外。エアコンを設置した場合、保護者はリース代や光熱費として、月に560円~960円を負担している。よくも反乱が起きないものだ。 
 
  1789年、フランス人権宣言が輝かしく掲げられた。しかし忽ち、例外がつくられる。女性・黒人・貧乏人・奴隷・・・、だが粘り強い啓蒙と闘いによって少しずつ平等が回復した。最後に残されたのか「子ども」であった。ナチの残虐非道を潜り抜けてようやく「子どもの権利条約」は成立した。同じように気の遠くなる年月や悲惨な事件を経て、高校生の平等な生活が実現するだろうか。
 私立学校がかくも多い先進国はない。三原則が徹底できないのもそこに一つ難関があるからだ。お陰で塾と予備校はその繁栄で、文部行政を牛耳ってしまった。加計学園と森友学園の傲慢横暴はそれを象徴している。彼らにとって、公立の底辺校は、絶好の「飯のタネ」になってしまっている。北朝鮮の暴走が、アメリカ兵器産業や日本の戦争好きには欠かせないのに似ている。
 私立学校が異常に増えたのは、強兵政策で軍事予算のために国立学校予算を後回しにしたためである、私鉄が多いのも同じ構図。学校で掃除が子どもに強制されたのも子どもを守る予算が軍艦に充てたからである。

ご褒美は成績の悪い子に       

 「学期末、通信簿を渡される日はほんとうにつらかった。兄も姉も妹も、みんな成績がよかった。ことにみいちゃんは負けずざらいで、一番でなければ絶対承知できなかった。ところが私はいつも中の部で、とびきりよいのはひとつもなかった。父は子供たちの成績表をみると、「一番成績の悪い子にご褒美をあげよう。一番つらい思いを我慢しているのだからね」 と言った。私はまったくそのとおりだと思うと、父の心遣いにまたベソをかいてしまうのだった」
                                                    長岡輝子『ご褒美は成績の悪い子に』

  大正四年の東京。長岡輝子の父は英文学者であった。おそらく、多くの人がこの英文学者の気持ちを共感を以て受け止めるのではなかろうか。
 パソコンで「底辺校」を画像検索すると、虚実ない交ぜの眉を顰めさせる画像があふれている。面白半分のつくられた画像には、ヘイトピーチに似た悪意を感じる。しかし確かに、KH高初日、3-4で初めに見た光景はこれらに遠くない。そしてWebページのかなりがその高校を「教育困難校」と決めつけている。だが決して「教育困難校」ではなかった。教育放棄校と言うべきである。我々教師が教育を放棄していることは確かで、彼ら生徒が「教育困難」なのではない。
 一年生が二人つまらなそうにベランダに寝そべっていたことがある。授業中である、聞けば
 『授業中に話してたら「殺すぞ」って、ショックで』と言う。二人は授業中うるさくなると、「静かにしなさいよ」とたしなめる側であった。教師は少なくとも、どうしてお喋りしていたか、聞かねばならない。授業の中身そのもので煩くなることは大いにあるのだから。それが嫌なら教員免許は返上せねばなるまい。
 せめて長岡輝子の父は英文学者に共感できる教師たちが集まって、彼らの授業に精魂を傾けてくれたらと思う。
  試しに「指導重点校」を検索にかけると、進学指導重点校や進路指導重点校ばかりが出てくる。たった一つ、生徒指導重点校に関するものが出てくる。←クリック                      
   成程と思う。こんな取り組みをしていたら、教師は学習にに集中できない。僕なら、教頭を増員して、生活指導は校長と教頭に任せ、教員は授業に専念させる。それだけで、生徒たちとの対話的関係は形成される。教育委員会は、校長と教頭の煩雑な事務を免除する体制をつくる。むろん設備はSSH並に。成績のいい者にばかりいい思いをさせるな。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...