勤評以前の先生たちは大らかで優しかった

 熊本市立詫間原小学校は、阿蘇を越え水前寺駅に向かう豊肥本線蒸気快速「火の国」が減速し始める辺りに1954年開設された。大きな土手に囲まれた広い構内に、先ず一年生だけで入学式があり、上級生が五月になってから転校してくるという妙な開校をしている。松本先生は大学を卒業して間もない。何もかもが、質素だが新しく、削りたての材木の香りとコンクリートの匂いがした。
入学直前、口頭試問があり、路面電車の絵からその進行方向を判断するものだった。誰もが正解するはずが、僕は胸を張って「わからん」とだけ言った。三人並んだ先生の中から優しい目の先生が側に来て、「ここに運転手さんがいますよ」などと助け船を出すのだが、僕は「わからん」を叫び続けて先生を困らせた。この先生が僕の担任になった。このとき母は、他の保護者や順番を待つ子どもらに混じって廊下で僕を待っていたのだが、「わからん」と叫ぶたびに笑い声が上がって、大いに赤面したという。試問を終えた僕は、得意げににっこり笑いながら出てきたらしい。
 市電車庫内では、電車がポイントを切り替えながら頻繁に発進後退を繰り返し、入れ替え作業をする。運転手の位置も集電架の傾きも変えない。僕は付近にあった市電車庫によく見物に出かけていた。この絵だけでは、どちらに進んでいるかは分からない。帰ってそれを説明すると、遊びに来ていた大叔母は「あよー、うんだもしたん」と言うなり笑いながら学校に跳んで行った。この大叔母が前の晩「分からん時にゃ、分かりませんとはっきり言わんといかんよ」と教示したのである。普通学級には向かないと判定されていたかも知れない。

 授業が始まっても席に着かずに立ち歩き、体育は黙って帰ってしまう。並んだり行進したりの繰り返しに馴染めなかった。やっぱりと、先生は心配したかもしれない。しかし少しも慌てず、立ち歩く僕にプリントを渡し「配って頂戴」と指示して配り終わるのを待って「有り難う、自分の席に戻りましょう」と誘導したらしい。戦争中、小学校教師であった母は、気になってそっと教室を覗いたのだ。
 書き方が始まると、力の加減の出来ない僕の帳面はあっという間に鉛筆で破れ、鉛筆は芯が折れてたちまち短くなった。土曜日一人残され書き方の補習を受けることになり、みんなは「よかなぁ、オイも残されたか」と羨ましがった。 新聞紙の山と筆と水桶を抱えてニコニコしながら教室に現れた先生は、水で濡らした筆先を潰さないように字を書く練習を繰り返し、次の土曜日には墨を使い、三度目には鉛筆を折らず紙も破かずに字を書けるようになった。

 ある日授業中突然、先生はオルガンを引き始めた。それに合わせてみんなで「雨・雨ふれ降れ、母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな」とうたった。気が付けば、外は土砂降り。先生に促されて下校の支度をして昇降口に行くと、大勢のお母さんたちが傘と雨靴を持って待っていた。どのお母さんも優しい顔をしていた。

 熊本には珍しく大雪が降ったことがある。どの教室でも忽ち雪合戦が始まり、教室は泥まみれの雪だらけで、叱られるかなと思っが、教室に現れた先生は、この時も慌てず笑顔で「机を下げて、掃除しましょうね」と優しかった。先生たちは教室が汚れるのを承知で、雪合戦を楽しませたのではないかと思うことがある。勤評以前、先生たちは優しく大らかだった。子どもと教えることに意識を集中できたのだと思う。

 二年生になり、先生は産休に入った。代わりの先生は来ず、僕らは三つのクラスに分散して預けられた。一教室に70人が詰め込まれ、借りてきた猫のように小さくなっていたのだと思う、殆ど記憶がない。
 産休があける頃、先生が教室をそっと覗きに来た。廊下側後ろの女の子が「あっ先生」と言うなり、立ち上がり廊下に突進、それを追うように次々と教室を飛び出した。他のクラスからも騒ぎを聞きつけて出てくる、女の子たちは先生に抱きついて泣いている。先生は慌ててたしなめるのだが、みんなの頭を撫でて嬉しそうだった。
 数年後封切られた『二十四の瞳』に、この時とそっくりな場面があり不思議な気がしたものだ。今でも『二十四の瞳』を見るたびに先生を思い出す。映画では怪我をして休んでいる大石先生を、子どもたちが草鞋履きで遠い道を訪ねる。途中病院帰りのバスに乗った先生とすれ違い、バスを止めて降りた先生に子どもたちは縋り付いて泣いた。二人の先生はどちらも学校出たて、時代は戦争を挟んでいる。大石先生を囲んだのは12人の一年生、松本先生の周りにひしめいたのは50人余の二年生。他のクラスの生徒や担任たちも遠巻きにしていた。このときの松本先生は、高峰秀子ではなく香川京子に似ていた。

  大きな色画用紙に絵を描くことになった。構想や下書きだけで何時間もかけた記憶がある。鼠色の紙を選んだ僕は、金太郎が熊ではなく象と相撲をとり、いろいろな動物が周りで声援する様子を描いた。暫くしてこの絵が県主催の展覧会で入賞したことを先生から知らされ、家族も鹿児島の大叔母も級友も会場のデパートに出かけたが、僕はとても見る気にはなれなかった。 注目を浴びて人目に曝されることへの嫌悪感と恐怖があったからである。
 絵の表彰式の連絡が先生を通してきた時「行きたくなか、賞状は要らん」と泣き出しそうな顔して言うと、先生はにっこり笑って「分かりました」と頭を撫でてくれた。結局先生が賞状と副賞を貰ってきてくれた。職員室に呼ばれ、僕が「朝礼で表彰式をしないで」と頼むと、先生は「組でも言いませんよ」と請け負ってくれた。絵には銀色のリボンが付けられ、副賞は図鑑のセットだった。父がお祝いに本立てを作ってくれた。

追記 勤務評定を僕は憎む。僕の学校に関する嫌な思い出は、ほぼ勤務評定以降である 。

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