「我が「党派」はぶれない」と宣言するのが流行った。
オウム真理教のサリン殺人実行犯や戦中の皇道主義者たちは頑強に「ぶれ」なかった。彼らは揃いも揃って、ぶれを知らない「エリート」であった。ノーベル賞を目指す快活な大学の研究者、士官学校や兵学校出。彼らは民衆がどんなに犠牲になろうとも、些かも「ぶれなかった」。信念があったからだ。傍目には愚劣極まる宗教儀式に邁進しても「ぶれない」どころか信心を深める。信じれば信じる程「ぶれず」に虐殺は激化。たとえ負け続けても「ぶれ」ない。だから玉砕まで止まらない。
切羽詰まって藁をも掴もうとする人には、それは藁だと教える必要がある。敗戦の半年前、「赤飯とラッキョウを喰えば爆弾に当たらない」という迷信が流れていたと、当時の朝日新聞が社説に書いている。人々が藁に縋りたくなったのは軍国政府が事実を伝えないからだと新聞までが書くほど流言蜚語が激しくなっていた。鬼畜米英や大東亜共栄も現人神も「流言蜚語」以外の何物でもない。
しかし藁を信じる者が「権力」ある多数派になれば、皇道主義以外を排除する言論報国会如きが組織され、藁だと指摘する者が迫害される。藁を掴めと叫ぶ事が「ぶれない」姿勢であった。竹槍で艦砲射撃やB29に勝てると信じて疑わないのが「ぶれない」愛国心であった。いま言論報国会は「電通」と風貌を変えている。
電線の鳥や一本足で立ち尽くす鳥は、よく見ると畳んだままの翼や体を微妙に動かして絶えず重心を調整している。しかも夜はその状態で睡眠する。微かに絶えず「ぶれる」ことで落ちない。普段は飛ばない鶏でさえ、枝や棒に留まったまま睡眠を取れるのはそのおかげだ。
教養とは「ぶれる」ことである。誰かどんな時にどのようにどこを向いて「ぶれる」かが問われる。陶器製の鳥はいとも簡単に電線から落ちる、絶対「ぶれない」からだ。安定と「ぶれる」ことは対立しない。