戦争指導選良たちの、幼稚で狂信的な現実感覚。   それは「戦争紙芝居」から生まれている

最新式の「戦争紙芝居」、在外公館での天皇誕生日
   承前←クリック ノモンハン事件の師団長小松原中将は辛うじて残ったテントの中で 
 「もう、こうなればどうしょうもないな。しかし日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」と頭を抱えていた。戦争のプロである筈の陸軍大学出選良がどうして「日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」と幼稚な考えに落ちたのか。彼が指揮する兵隊の装備は16世紀頃の装備しかない、それで勝つ事が出来ると本当に考えていたのか。

 戦前戦中の小学校
学芸会は、戦争紙芝居であった。そこで理屈抜きの「日本の兵隊さんは絶対に強い」という了見が叩き込まれた。
 第1次世界大戦時のヨーロッパを視察すれば、近代戦の残忍なる殺戮や「戦争の害毒、軍備の危険、軍国主義の亡国」を
、水野広徳大佐のように実感する。(水野は、以後「我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策」と言い切り、1923年の「新国防方針」に対しては、日本の敗北以外にないと確信していた) 批判的思考の余地のない硬直した空間では、戦争紙芝居の幼稚な認識は国民的信仰となったのである
 戦争紙芝居教育を経て中学校、士官学校、陸軍大学を「優秀」な成績で駆け上り、幼稚な思想で2000万アジア民衆を道連れにしたのか。


 牧野伸顕の『回顧録』に、昭和初年英国の女流評論家と会食したときの会話がある。女史は戦争紙芝居の話を聞いて
津々浦々の小学校でそういう奇妙な教育がおこなわれている。そういうなかから職業軍人が出てきて、もし政権をとれば必ず戦争を仕掛け、日本を亡ぼすでしょう」と忠告したと書かれている。
 1920年改造社の招待で来日したバートランド・ラッセルも、小学校と中学校を見学。兵士養成所でしかない。これほど危険な学校をみたことがない」と書き残している。←クリック  

 日本の教師は世界で最も優秀であるとの言説は、右にも左にも官にも民にも古くからあった。かつては一学級70 名を越える学童生徒を抱えながら、数多くの行事・事務をこなし国際的にも高い学力を維持していた。今や日祭日なしに勤務して過労死してストもしない。この「優秀性」に逃げ込んで、校長室はあたかも小松原師団長の天幕のようになっている。
 負けることを禁じられた兵士は、時代遅れの装備と届かぬ補給で死体の山を築きながら突撃し続けた。それが紙芝居並みの「日本の兵隊さんは絶対に強い」信仰を狂信にまで高め、「いつか神風が吹く、現人神をいただく日本が負けるはずがない」と非合理な思考を伴い、アジア数千万、日本数百万人の犠牲者を出したのである。
 元々日清戦争は、清国軍閥の一部を降伏させただけだし、日露も局地戦に勝ったに過ぎない。中国やロシアに勝ったとは言えない、モスクワや北京を占領していない。にもかかわらず有頂天になり、現実的な危機感を失ったのである。日清戦争を少し疑いさえすれば、紙芝居並みの「日本の兵隊さんは絶対に強い」信仰は生まれなかった。

  少しずつ負ける事は、諦める事とともに悪くないどころか必要な事である、有頂天を戒め健全に自己批判出来るからである。平凡とはそうして形成される価値である。


記 いまも在外公館では「天長節」と称する天皇誕生日の招待会が行われ、現地の名士や現地駐在商社員が正装して参列する。そこで大使は、天皇夫妻の写真を前に日本の繁栄は天皇のおかげと演説し、商社支店長がバンザイ三唱の音頭をとる。感激した商社員=自称現代のサムライたちは、自宅に天皇一家団欒の写真を掲げるようになるという。初め恥ずかしげにやがて奢り昂ぶり、新「戦争紙芝居」は続いている。
 疑う態度が欠けている、危うい。

校長が「私は教委から授業を禁じられています」と胸を張ったのは、何故か

ペスタロッチは政府から危険人物視された
 校長に、「教員の授業を評価するなら、評価するあなたの授業を見せてくれ」と職員会議で迫った事がある。校長は、「授業には見本というものはありません、それぞれ教師の教育観に基づいて行うもの」と先ず逃げた。「では我々の授業の何を見るのか、評価の基準がなければ評価は成り立たない。それが評価論の前提ではないか」と切り返せば
 「我々校長は、教委から授業を禁じられています」と胸を張った。
 別の高校である女子生徒が、校長に対話と授業を求めた。が逃げて校長室に内側から鍵をかけて籠もってしまった。そのときの顛末は、此所←クリックにある
 授業を切望して、教務とやり合った校長を僕は一人しか知らない。彼は一週間に8時間の数学を受け持ったが、それでも少なそうな顔をした。登校時にはいつも火ばさみとゴミ袋を持って歩く姿に、ぺスタロッチを想った。

 何故校長が授業から逃げるのかは、比較的簡単に分かる。教員養成制度も教員採用試験も管理職試験も機能していないからである。彼が学ぶことも教えることも好きではなく、教職に最も相応しくない事をそれらが見抜けなかったからである。
 分からないのは、「授業を禁じられています」と胸を張る神経であった。恥ずかしげに言うのならまだ分かるが、胸を張るのには驚いた。悪夢を見るような気がした。

 宇都宮徳馬が好んだ話に「石山デン隊長」がある。石山とは「塹壕」で、デンとは「出ん(出ない)」である。日露戦争「二百三高地」攻防戦の指揮官である。難攻不落を誇るロシア軍要塞への死の突撃命令を絶叫しながら、自らは塹壕から一歩も出ない連隊長。そのわけを、彼はこう言ったのだ
 「自分は天皇陛下から作戦を命じられた大切な体だ」
 だから兵士たちは、彼を塹壕から出ない指揮官という皮肉を込めて「石山デン隊長」と呼んだ。

 石山デンが目指す真っ当な将校なら、命令がどのように伝わりどのように敵に打撃を与えているか最前線で具に見なければならない。その様子によって作戦は変えねばならぬからだ。彼には勝つ覚悟もない。
 件の校長が「教委から授業を禁じられています」と胸を張ったのは、「お前たち平教員と違って、私はお上からの命令を伝える大切な人間だぞ」と言うつもりであったのだと今になって思う。彼は学校における「石山デン」であり、校長室に籠もる。彼にとって大切なのは、身分であり、生徒や授業に対する愛着は何処にもない。学校や教育行政がどうあるべきかを考察する気はさらさらない。

 日露戦争は大国ロシアに勝った事だけが語られるが、兵隊は軍医総監のために辛酸を嘗めた。戦死者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気死者は2万 7800余名にのぼった。日本軍の行軍はまるで幽霊の行列のように見えたという。それが白米食による栄養障害であることはロシア軍も知っていた。戦死者数には満足に歩けない脚気患者が相当大量に含まれていたと考えねばならない。公式記録では
陸軍の脚気患者は25万人。麦飯にした海軍の脚気患者は105名。
 学閥の面目のために白米食を続けた頑迷な軍医とは森林太郎である。鴎外はこの膨大な死者について何も書いていない。鴎外とともに乃木希典の無能振りも目立った。兵が病気を抱えながら突撃して死んでゆくのに、無能な指揮官たちは勲章の数を数えていた。案の定、戦争後将軍たちは爵位の大盤振る舞いを求めた。(この時、陸軍は少将でさえ全員男爵になった。だから戦史は歴史家でなく軍人が書くという杜撰さ)
  「我々校長は、教委から授業を禁じられています」と胸を張って授業から逃げるのは、民を侮る明治以来の伝統だと分かる。こんな連中が軍隊を持つのは危険極まりない。自分の役割が消えたとき人は狂信的になるからである。民の死者だけが増える。まさしく悪夢である。

 1939年のノモンハン事件は日露戦争後40年経っているが、関東軍1万5000名が壊滅する事態になった時ですら、師団長の小松原中将は
 「もう、こうなればどうしょうもないな。しかし日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」とテントの中で頭を抱えていたと、司馬遼太郎は『戦争と国土』(文春文庫)に書いている。相も変わらず、石山デンである。
 2019年になった。教師が過労死しても為す術なく校長室に籠もって頭を抱える管理職の姿が同時に浮かぶ。これこそ紛れもない日本の伝統であり、学校に校長は要らないのである。

「出来」ても0点をとることの主体性 Ⅰ

ない方がいいことに莫大な費用
 大分前の事だが「教育再生会議」でノーベル賞受賞の野依良治座長が
 「塾をやめさせて、放課後子どもプランをやらせないといけない。塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子どもは塾禁止にすべきだと思う・・・塾の商業政策に乗っているのではないか」と発言して注目を浴びた。
 塾寄り行政の文科省の逆鱗に触れたか、「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」とJR東海会長が反論するなど塾業界関係者の怒りが爆発。中には、塾禁止は憲法違反と息巻く者もある。彼らの発言を見ると、言論や表現の自由より営業の自由が優先している事が分かって面白い。まさに新自由主義政権以降、教育の民営化は着々と進んでいる。
 野依良治博士の教育観は、教育新聞web版←クリック で閲覧できる。教育の現状への危機感が滲み出ている。
  ただ同意しかねるのは、「公立小学校で放課後に児童を指導し、「祭り」「演劇」「ダンス学芸会」などを体験させる「放課後子どもプラン」。放課後の少年少女たちまでを「指導」したがることと、「塾は出来ない子が行くためには必要だが」としている点である。後者について、異を唱える。
 
 「出来る子・出来ない子」という分け方は、教育を権利とする視点から逸脱している。教育の原点は「分かる喜び」にある。「出来る・出来ない」は、競争の中に組み込む乱暴さがある。そもそも「出来ない」ことはいけないのか。首相や大臣が公式の場で漢字を読めないのは、大いなる恥ではあるが何度やっても辞任はしない。首相は読めなくても良いが、子どもは読めなければいけないのか。逆ではないか。


 出来るがやらない生徒はどうか。僕が中学生の時、ほぼ全科目「1」の親友がいた。彼らは出来ないのではない、点数に興味・感心がない。休み時間や放課後、僕の机に群がって「教えてくれよ」というときは真剣な目の色をしていた。練習問題を解き問題集もやっつけて「分かったぞ。オレの答案にも○付けてくれよ。母ちゃんに見せるんだ」と言うときは嬉しそうだった。中には札付きの不良少年もいて、体も大きく喧嘩は滅法強かったが、分かったときの喜び方は無邪気なものだった。彼も「たわし、オレにも○付けてくれ」と言った。←クリック        


 だが定期試験では、0点をとる。分からなくなったのかと聞けば「出来るよ、ほら」と解いて見せて笑う。どうしてと聞けば、「どうせ通信簿には「1」しか付かないんだ」と平然としている。(相対評価の時代で、五段階評価の割合を厳守しなければ内申書の信用度が下がり受験の障害となった。受験しない生徒の成績を操作して受験する生徒に回すのは日常化していた。それ故この時代、受験生の多い学校の担任になれば付け届けが山をなした)
 とはいえ彼らは、底抜けに明るかった。彼らは中学を出れば「金のたまご」として就職出来たからだ。暗かったのは、都立進学と私立進学の境界の成績に喘ぐ生徒たちだった。当時、私立高校の大部分は授業料が高い上に、都立高校の滑り止めであった。経済的に苦しく私立には行けない境界の生徒たちは、テストには目の色を変えた。顔色も青ざめて笑い声も浅かった。彼らにとって、出来るのに零点で笑っている連中は、まさに仏であった。←クリック  (分かっているのに点数をとらない連中こそが、自立した学習権の主体であった。学校的競争に振り回されて点数を稼ぐ我々こそがが惨めだった) 彼らは一方的に教えられるだけではなかった。彼らは様々な情報や秘密を僕に耳打ちしたり、不良少年の嫌がらせや強制から守ってくれた。生きた教養は、彼らがくれた。特別権力関係という言葉も、彼らの一人が教えてくれた。

 教師になり、やれば「出来る」のに点数をとらない生徒たちにあちこちで出会った。高校には落第があるから零点はとれないが、ギリギリの成績で進級する。僕は毎年繰り返されるその名人技に感心しながらもハラハラさせられ通しだった。 
 やれば「出来る」のに点数に無関心な生徒が仲間に教えると、なかなかうまく評判がいい。評判が悪いのは博士課程を出た事を自ら吹聴して、分からない生徒を見下げる若い教師であった。(ある日突然彼が教えるクラスで反乱が勃発。生徒たちは「そんなに俺たちに教えるのが嫌なら辞めろ。あんたに教わりたくない」とクラス中が教師に迫った。翌日から寝込んで欠勤、数ヶ月後退職届が出た) 「出来ない」生徒の思考のプロセスに入り込み分析するという、「教科指導」の肝心要の楽しみを面倒くさがったのである。(この点から考察すれば教職課程における「教科教育法」は「教育原理」にもまして重視されなければならない。しかし僅か2単位ではどうしようもない) この作業をサボって置きながら、低学力を嘆くのは犯罪と言って良い。
 教師が教えるより、生徒同士で教え合うほうが、互いの思考のプロセスに容易く入り込める。「出来る」者が「出来ない」者の思考の中に入るのも、その逆も大いに意義がある。その双方向があっての「分かる」でなければならない。教師にも、何故出来ない生徒が出るのかが「分かる」が必要なのだ。
 例えばこうして育った級友が、高級官僚と社会的弱者になった時、互いの心や生活を理解し対話することがどんなに大切か考えねばならない。対話の必要な課題が、難民問題や原発事故や慰安婦問題などとして頻発して、武力や制裁で威圧する愚が繰り返される。

 偏差値が上がるにつれて、教えあう雰囲気は貧弱になる。教えあう雰囲気の欠如が競争を煽り、偏差値を上げると信じる傾向が生徒にも親にもある。そんな雰囲気こそ打ち破るべきなのだ。
 他者の思考や身体に入り込み分析することは、自分の思考と身体を点検することでもある。独断に過ぎないあやふやな理解が、普遍性を増すのだ。だから他者は様々な意味で違いが大きいほどいい。
 野依博士はそこをとばしている。出来る者も出来ない者も同じ学校、同じ教室にいて共に学び合うことが必要なのである。偏差値による選別は「出来る者」のためにもなっていない。選別が進めば進むほど「出来る者」は、ひ弱になりTVのクイズ番組にしか使いようがなくなる。

 仮にこうした効果がなくとも、級友と助けあうことは悪くない。身近な相互扶助の機会を捨てて(偏差値による選抜がそうさせている)、「道徳」を説くのは傍ら痛い。級友への援助を通して、自然な相互扶助精神が育てば、「道徳」も「ボランティア」も要らない。異なった思考や身体の生徒との交流理解が続く事が友情を育み、ひいてはいじめも起きない。
 文科省や教委の「浅知恵」(塾業界依存による公教育の民営化)は、何ら事態を改善しないばかりか新たな問題を生み出し、教師の仕事を増やし過労死へと追い込むのである。追い込む為に、意図して「浅知恵」を乱発しているような気もする。こうした多忙化は、組合の組織率を低下させ、自主的研究活動から遠ざけ、地域や親との連携も不可能になるからだ。
 まるで熱力学第二法則そのままだ。ジタバタする度にエントロピーは増大する。

  分かっているのに0点を取って笑っていた連中は、僕に究極のジェントルマンズC=fairを教えていたのかも知れないと頻りに思う。

追記 「放課後子どもプラン」に吉本興業の名前を散見することが出来る。例えば、厚労省の放課後子ども教室について(https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000054561.pdf)。此所にただならぬ気配を野依博士も感じたに違いない。

人類は互いに「自己天敵」、「進化」はおしまいか

自由と有り余る暇が進化をもたらしている
 フウチョウは極楽鳥とも呼ばれる。その鮮やかな色彩の羽や飾りを持った華麗な風貌と生態で人々を魅了し学者たちを惹き付けてきた。中でもカタカケフウチョウは光線のほぼすべてを吸収する究極の漆黒の羽とメタリックに輝く飾り羽を持っている。羽を広げ細い足を優雅に動す姿は、まるでバレリーナが舞うようである。舞台となる地面もゴミを完璧にかたづける。つがいを作る行為が芸術にまで昇華しているのだ。 
 とはいえ、鮮やかな色彩も器用な踊りは、天敵を招き危険に身をさらす。 その点ニューギニアの熱帯雨林は極楽鳥にとって文字通り極楽である。捕食者の不在と餌と水に恵まれていること、美しい進化の条件であった。
 その熱帯林1億ヘクタールが、1980年から2000年の間に人間の消費活動によって奪われ、現在1年に40,000種以上が絶滅している。(地質時代、種の絶滅速度は1000年に1種程度であった。対して、現在の生産活動による種の絶滅は、過去とは比較にならぬ速度で、1600年~1900年には1年で0.25種、1975年以降は、1年に40,000種と急激に上昇し続けている)つまり、人類は世界最大の捕食者となった。
 
  この最悪の捕食者=ヒトは、人類そのものの生存も危うくする。一発で広島型100発分の威力(一発で核の冬=地球規模の飢餓をもたらす)の原爆がまだ1万5000発も存在している。搾取を極限まで推し進めた大量消費の爆発は、生態系を破壊し人間の文化を窒息死させている。まさに人間は人間の天敵になったのである。原爆がわれわれの生存を脅かしているばかりではない、同じ人間同士が苛烈な競争に駆り立てられ死者を積み上げている。
 天敵の存在する環境では、生物は優雅な進化を享受できない。人類はもはや、知的芸術的天才を生み出せないかも知れない。第二次大戦後、気付いてみると偉大な芸術家・科学者・哲学者は出ていない。アインシュタインもサルトルもピカソも、すべて大戦前からの生を引き継いできた人々である。ノーベル賞も芥川賞も小粒になった。周恩来やホーチミンそしてゲバラやネルーも大戦前に青年期を過ごしている。政治家に至っては小粒どころか、ヘドロである。原爆と大量消費は、人類を人類の捕食者にしてしまった。同じ種同士は天敵とはなり得ない筈だが、ヒトは人類に対する「自己天敵」と化したのではないか。

 (免疫系は自分自身を攻撃しないとする「自己中毒忌避説=Horror autotoxicus」が20世紀初頭には主流であった。しかし、その後の研究により自分の体の構成成分を抗原とする自己抗体が発見されるにつれ、自己免疫疾患=Autoimmune diseaseの存在が明らかになった)
 
 青少年の日常は、捕食者同士の競争に明け暮れ、優雅な進化や成長を準備できないでいる。受験から部活から青少年を解放しなければならない。暇が有り余るからこそ、極楽鳥は様々に進化したのである。強制収容所には文化があり得ない。

   安部政権目玉で塾産業肝煎りの教育再生会議ですら、「子供は遊ばないと伸びない」(小宮山東大総長)という発言が出ているのだ。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...