ある教師がうっかり教頭になり、後悔し降格を申し出て教諭に戻る迄の六・七年、玄関脇の花に一度も全く気付かなかったと言う。教委が要求する雑務に文字通り謀殺されていたのである。「毎年咲いていたんですね」としみじみ語った。僅かな地位のために、肝心の感性が枯死寸前だったのである。多分、娘や妻が美しくなっても、息子が可愛い盛りであることにも気付かない。野菜が旨い季節になったのにも。足下のゴミに気を取られ、管理の目でしか生徒たちを見なくなる。
今、教頭や校長ばかりがそうなのではない、主幹・主任・・・階層を増やし、差別へのこだわり・囚われを恒常化して、授業と生徒への関心を奪いとっている。その狙いは、公教育の失敗であり、教育の全面民営化である。
教師が、短期的成果を急かされて指導にこだわる余り、頭髪・ネクタイ・制服・遅刻・・・に囚われて見えなくなるものは余りにも多い。見えなくなるものを、いくつ即答できるだろうか。もし僅かしか浮かばないとすれば、玄関脇の花を見落とす教頭と同じになっている。憐れと言うべきである。
ある校長が、生徒に「どうして授業しないのか」を聞かれて「わたしは管理職だから・・・、ずっとなりたかった」と応えたという。どうしてTシャツはいけないのか、酒煙草は、行事不参加は・・・何故いけないかを聞かれて、「規則だから」としか応えて来なかった男らしい返答である。それを聞いて「なんてつまらないやつだ」と、若者が呆れたのも無理はない。校長はそれに気付いていない、この程度の説明で生徒は納得し尊敬する筈と考えている。その乖離が学校を殺すのである。
「いい加減に管理監視は止めて、教育者らしくしたらどうか」との問いに、校長が
「私は行政の末端である、授業を禁じられている」と誇らしげに言った時、僕は対話の不可能性を受け入れたくなった。
「どうして授業しないか」は、校長を教育者として確認したいとの、生徒の希望を込めた誘いである。少なくとも校長は、「君は何故私に授業をして欲しいのか」ぐらいは聞くべきであった。授業が嫌で校長になるのが多いことぐらい、生徒は気付いている。 愛校心の核には、外に向かって未来に向かって誇れる授業をする教師・校長がいて欲しいと生徒たちは考えたいのである。
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