「・・・ドイツは文学や芸術の存在を認めます。しかし、致命的な誤りを犯しました。文化が政府のものとなることを認めてしまったのです。この誤りからすべての悪が生じるのです。イギリスでは文化は政府のものではありません。国民のものです。当然のことながら、文化は過去・現在の私たちイギリス人のものの見方から生まれます。ゆっくりと、無理なく、のんびりと発展して来ました。例えばイギリス人の自由への愛、イギリスの田園、イギリス人のお上品な偽善、イギリス人の気まぐれ、穏和な理想主義やユーモアある理性などなどが、すべて結びついて、確かに完全とは申せませんが、月並ではないと自負してよい何かを作って来ました。・・・」 E.M.フォスター『反ナチス放送講演三篇』1940年9月26日
文化は政府のものではありません。国民のものです
僕は『民主主義に万歳二唱』を読むたびに、この一節を思い出しやるせない気持ちになる。僕にとって、文化が政府のものになるのと、中間団体としての「学校」のものになるのは大して変わりがないからである。生徒・学生・教師ひとり一人が個人的に、サークルとして文化を享受するのに何の異議もない。むしろその雰囲気が消えているのに不満がある。
もし大学や高校が、学校構成員の国家権力による介入に対して闘う伝統があれば、少し話は変わる。
日本の学校における「文化」は、「文化祭」において集中的に表現されるという奇妙な特性を持っている。文化は日常的な営みである。祭りは非日常の時空である、そこでは日常のしがらみから解放される。つまり文化祭では、生徒たちの文化は、二重に守られる。日常的には文化の定義上権力的規制から自由であり、祝祭当日は日常そのものからも自由となる筈のものである。例えば僕の出た高校では、文化祭の三日間の出欠はとらなかったし、教師は三日間のうち一日の半日だけ登校した。
だが現実には、ビラは何枚、ポスター掲示は指定場所のみ。出し物は事前審査が書類で行われ、様々の制限が設けられる。中間団体内における官僚的「中間団体」による介入が、秩序だけを根拠にして進行するのである。若者はこうして、文化には規制が加えられることだけを刷り込まれる。
学校の日常。その中から自然に湧き出す青年の文化を見守りたい。生徒や教師の文化を教育行政その末端が、学校支配下のものと見做し規制を加えてはならない。
「文化」の名を外せばいいかもしれない。早稲田祭や五月祭のように。しかし日本では「文化」包丁や「文化」住宅のような「文化」の使われ方があって些かウンザリもする。しかし「文化」を外して「祭り」にすれば、介入を控える必要がある。
追記 10月2日文科省スポーツ庁が、「スニーカー通勤」のような“歩きやすい服装”を推奨するキャンペーンの実施を発表した。半袖の背広といい、ノーネクタイといい、政府が国民の生活スタイルに介入したがる。文化が政府のものとなることに対する嫌悪感が国民の側に無さすぎる。せいぜい、似合うだのかっこ悪いだのという程度の反応である。このキャンペーンにも広告代理店と天下り官僚が深く関与して消費税の国民から遊離した「有効な」使い道として、記者会見で自画自賛するのである。国民が文化の主体として現れることはないのである。
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