椰子に枝はない、疑わない教育

 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ  / 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月

 旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる  / 我もまた渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ

 実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂  /  海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙

 思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国に帰らん


 1898年(明治31年)夏、柳田國男は伊良湖岬の浜で椰子の実を見た。その話を聞き藤村が詩にした。藤村は椰子に枝のないことを知らなかったのだろうか。柳田國男も藤村の詩を読んで変だなと思わなかったのだろうか。もっと気になるのは、日本中の小学校でこの歌を教えた多くの教師も疑問を持たなかったのだろうか。無知なのか無関心なのか。そうではない、自分自身の世界観に疑いを持つことを抑圧され、抑圧され続けた結果が無知と無関心なのである。
 戦前戦中に教育を受けた人たちは共通して「私は米英の魔手からアジアを解放する日本の大義を疑うことさえ知らなかった」と言う。知らなかったのではない、知ることを抑圧され続けそれが抑圧であること自体を忘れたのである。この国家的妄想が南京大虐殺や従軍慰安婦強制連行を準備したのである。いまだに妄想を他人に指摘されると怒るひとは少なくない。南京大虐殺や強制連行はなかったと思い込んでいる時に、「それは妄想だ」と指摘すれば、ムキになって「反日だ」と声高になる。


 我々は、教えられたこと、報道などから知ったことを疑う習慣を軍国主義教育から引き継いでいるのではないか。戦犯を自ら裁けなかっただけではなく、司法や教育を民主化することにおいて不徹底であった。敗戦と同時に、軍国主義は厳しく糾弾され息を潜めた。だが、第1回教育委員選挙は1949年実施されるが56年には早々と廃止され、教育公務員特例法や松川・下山・三鷹事件、朝鮮戦争特需によって、難なく息を吹き返してしまった。過去の過ちを繰り返さない為にどんな教育をなすべきか、教員や学者の議論にはなったが国民的な議論にはならなかった。まして全て和を「疑う」教育が推し進められることはなかった。様々な民主的教育が試みられたが、子どもにとっては教師を信じてひたすら記憶することに変わりはなかった。討論やディベートの授業でさえも、勝ち負けだけに拘り「真実の発見」に向かわないのである。

平等の原則のないところに福祉の概念は根を下ろさない

我々は平等と画一を区別することを知らない

   担任していて辟易することがあった。学級内席次を知りたいというのだ。小学校でも中学校でも、学級内席次はあったと言う。「なら、席次のない経験もしてみろ」と言ってやった。保護者の中にも、席次を求める声がある。
 「母親の席次を、クラスで付けることに賛成しますか。やるとしたら何を基準にしますか」と問いを投げ返しようやく収まった。

   バイキングが南下して、フランスノルマンディーに植民したのは10世紀。911年にカロリング朝のシャルル3世は、バイキングのキリスト教化と臣従を謀り使者を送り「首領は誰か、何処にいる」と尋ねた。バイキングの返事は「そんな者はいない、俺たちはみんな同じだ」とこたえた。しかしフランスとバイキングの交渉はまとまり、バイキングはキリスト教に改宗し領地を受け取ることになった。しかし領地を受け取るには臣従の証として、王の足に口づけしなければならない。馬鹿らしくなったバイキングは、王の足を掴んで引っ繰り返してしまった。初代ノルマン公には、そんな話が伝えられている。これが北欧の民主主義の基礎をなす平等主義の源流だと言われる。

 我々日本住民は、何故順位付けされたがるのか。何故平等を忌避するのか。公立高校の選別を煽る政治を報道も父兄も後押しする。週刊誌は毎年、高校別大学合格者を集計する。
 希望する者だけが参加し、あらゆる特権を排するならば、競争による順位付けにも僅かな利点があるかも知れない。しかし公立学校の選抜は、教育を受ける権利を持つ国民全てが、避けては通れない関門である。管理や競争の好きな行政や教員の口癖に「そんなに嫌なら受験しなければ良かったのだ」がある。勘違いしてはいけない。知らなかった者には適応されないのを「人権」とは言わない。そこが何処であれ、それが誰であれ適用される概念で無ければ「人権」ではない。
 
 偏差値依存とメダル至上主義と血統信仰は、服従の証であるという点で同一である。なぜなら、賞を与える側と受け取る側、そしてそれを眺めて賞賛拍手するの三者には絶対的落差があるからである。
 ノーベル賞騒ぎや甲子園や芥川賞報道も、従属せずにはおれないこの民族の弱点を象徴している。相手が強ければ、どんな無理難題も進んで受け容れ従属し、弱いとみるや言語道断に服従を強いて睥睨する。

  平等の原則のないところに福祉の概念は根を下ろさない。それは生活保護に対する国民意識と行政の態度に露骨に表れている。

 デンマークのフレデリックⅦ世は戴冠式を廃止した。彼の在位中は、シュレスゥィヒとホルスタイン両州の帰属を巡る隣国ドイツとの危機の最中であった。彼はこの国難に力量を発揮せず凡庸であったと伝えられる。しかし危機の最中に、凡庸でないことほど迷惑なことはない。デンマーク未曾有の国難の意外な展開は「小国主義 1 内村鑑三『デンマルク国の話』抄」に記した。←click   
 

 日本の将軍や天皇にこうした気持ちを僅かでも持った者があったか。この国のあらゆる集団に「小天皇制」が蔓延り、人々はそれに憧れる始末だ。何故か、天皇や小天皇の地位を高める程にその周辺に群がる者の「権威」も高まる馬鹿げた効果があるからだ。個人の自立した精神や誇りを組織の名の下に置くことに何の羞恥心も湧き上がらないのは、我々が体の芯から奴隷根性に縛られている為である。
 例えば、ある高校の偏差値が高くなれば、そこに通う生徒の「頭」や「精神」の何処が高まるのだろうか。日本の勤め人が企業のバッジやネームタグを付けたがるのは、企業の名にただ乗りを目論む怠惰が個人としての誇りを埋没させてしまうからに他ならない。

 学年が僅かに違うだけで最敬礼し上級生を天皇・神様扱いて身の回りの世話や後片付けを「進んで」やることが、少年少女たちの美徳になっている。この国に平等の精神も民主主義は近づけない。

 生活保護行政の冷酷さは、我々のこうした平等忌避の日常に根を張り勢いを増すばかり。我々の日常の隅々に「平等」の感覚が行き渡るのでなければ、行政は決して変わらない。教育において最も身近で深刻に平等を破壊抑圧しているものは、選別「体制」である、それが福祉行政学習の基礎でなければならない。

 福祉行政を我々が授業で取り上げるとき、選別体制下の諸々の「
反平等主義」に触れないわけにはゆかない。福祉行政をせめて世界水準にするためには、我々の身近な生活を覆い尽くす「反平等主義」的慣行や制度を血がでるほど刮ぎ落とす必要がある。小さなことで言えば、新天皇の即位に関する儀式を一切やめると同時に、企業の入社式や学校に於ける離着任式をやめる必要がある。これらを「カルト」だけに特有の馬鹿げた習わしにする決意が求められている。又、毎日の「起立・礼」をやめたい。

記 画一が好きなら、何故報酬を画一化しないのか。税金は、貧富の差を無視して同一税率が画一的に適用される消費税を「公平」と支持する者が、収入には画一性を排除する。一貫性がない。その一貫性のない主張を支えるのが、偏差値による選別である。数字で序列化されたものに、誤魔化され易い。それに我が国民は子どもの頃から馴らされる。

学級が「home」 roomと呼ばれるのは何故か Ⅰ

言葉は行動から生まれる
 「底辺校」に異動して気持が荒んだ教師が、自ら養護学校(特別支援学校をこう呼んでいた)に転じて穏やかになったことを語った教育研究集会の古いメモが出てきた。1980年代のことだ。
 全く口をきかず教室を飛び出し暴れ回る一人に一年以上手を焼き続けたが、彼はある日暴れ回る生徒と一緒に走り回ることにした。生徒が疲れれば、先生は子どもをリヤカーに乗せて校庭を走り回った。走り回ることがどんなに気持ちいいか初めて気が付いた。そうすると不思議なもので、手を焼くのが苦にならない。ある夕方下校する生徒を教室からボーッと眺めていると、件の生徒が突然振り向いて手を振ったのである。嬉しくて眠れなかった。次の朝その生徒は、教室を見上げ初めて口を開いた。「先生おはよー」と言ったのである。しかし、それからも厄介ごとは絶えず、ちっとも教室に落ち着かない。雪の日も校庭を一緒に走り回り、ようやく給食を落ち着いて食べるようになるのに更に一年。
 この話をしてくれた教師は「お陰で気が長くなりましたよ、でももうあんなに走り回れません」と頭を掻いた。

 学校が僅か一学期間の付け焼き刃や一週間の泥縄で「結果をみせ」ねばならぬ社会になり、実績を見せろと教師が教師を追いつめる。他の教師を追い詰めることが「成果」になるのだ。「結果」は紆余曲折の果てに出るものであって、一日や一週間で出せるものではない。

 金融自由化以来、社会全体が短気になった。いじめも体罰もパワハラもそうした雰囲気が作り出す。生徒が動かないからと生徒部は鬼の目して、期限を細分化して成果を担任に迫って生徒を追い立てる。動かないことは、動けないことは犯罪なのか。

 長年「底辺校」に勤め各種行事での熱血指導振りが報道で賞賛された教師が、学区一番の進学校に異動を命じられた。底辺校では梃子でも動かない生徒が、進学高では行事も学習も生徒が「勝手に」動く。彼は、突然手持ち無沙汰になった。することがなく詰まらない。妙なことではないか。それまで手を抜いていた教科の研究が忙しくない訳がない。彼は組合活動家でもあった、様々な職場を訪ね、話を聞く重要な任務もある。生徒が選別・分断・隔離される中で、どう闘えば良いのか。どんな教育条件が、あらゆる高校生を自主的にのびのびと活動させるのか。考え闘うことは山積みだったはずだ。
 彼は梃子でも動かない生徒を、見事に動かし賞賛されることに生きがいを見出していた。黒子であるべき担任が主人公になってしまった。いつの間にか、生徒が彼の指示で動くこと自体に、喜びを感じていた。生徒が自主的に動くことではない。例えば合唱祭か近づけば6時間目が終わると同時に教室に鍵をかけ、逃げられないようにして合唱の練習をした。その「甲斐」あって合唱祭当日の「涙と感動」の場面は、多くのメディアが詰めかける名物にもなった。これは「奴隷的監禁」ではないか。指示し指示され、その結果にともに涙を流す爛れた関係を構築してしまった。結果さえ「涙の感動」であれば何をしても良いという思考停止の悪い癖が我々にはある。

 僕は雨の学徒出陣を撮った映画を思い出した。当時日本中が涙を流しながらこの映画を見て、殺戮の地獄に突入したのだ。僕はこの「奴隷的監禁」の高校と同じ学区で担任をしていたが、文化祭の時クラスで「行事は強制ではない、嫌な者は自由に逃げてもいい。逃げる自由とは、逃げる者を批判せず、仲間という関係を壊さないとだ」と言わずにはおれなかった。進学校と底辺校の間に広がる「秩序」ある広大な闇、その闇に反乱しない生徒と教師をつくっているのが「偏差値」による選別体制なのだ。

 生徒が動かないことが前提の養護学校では、担任も追いつめられることは少ない。追い詰めるのはいつも「ランキング」=勤務評定「計量化されて一目瞭然だから、逆らいにくく批判しにくい。

 ランキングから外れた養護学校。だから一緒に走り回れた。学校の意図に沿う「涙と感動」を拒否する「底辺」の生徒の方が、実は自主的で知的なのだ。それを読めないから、教師が脳梗塞で倒れ、発狂する。情けない話だ。
       
 学級がhome roomと呼ばれるのは何故か。homeとは盗んでも咎めらず、貢献を強制されず居るだけで喜ばれる領域。「戦場」に向けて出撃して獲物を持ち帰る基地ではない。学級=home roomは
そういうものとして構想された、初めは。
 「国家が各個人にしいている支配服従の縦の人間関係倫理にたいして、家はすくなくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で横の人間関係の倫理の芽ばえをもっていたわけだが、これは普遍的な倫理の形にまで一般化されることがなかった。サークルは、家の中でなりたっている相互扶助をひろげて行く過程で、よこの倫理を自覚的につかむことができるようにする」鶴見俊輔

 国家が、教委が、学校が「個人に強いている支配服従の縦の人間関係」であるのに対して、homeとしての学級は何をなし得るのか。学級担任としての職責は何か。
 出世や受験などの成功を懇願する家庭─それはもはやhomeではない。仲間の成立を不可能にする労働
─それは労働ではなく苦役。学校の部活、委員会、アルバイトも少年や青年の友情を絶望的なものにしている。進歩的な親や教師すら、部活は生徒学生の要求だと見なしている。宗教組織さえ、寄付や勧誘が「自主的」ノルマ化するのは何故か。人間は順位が決まらないと落ち着かない犬なのか。噛み付くことが習性の爬虫類なのか。甲殻類になって、いつも外敵に備えねば居ても立っても居られないのか。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...