「勝つことだけ」に執着する「プロ」の悲劇 Ⅰ

 

   引退する頃にボンヤリ分かっていたことが、三年ほ

 元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 
ど前になってハッキリ分かったんだよ。俺が女も家庭も全て捨ててやって来たボクシングが、実は金持ちが貧乏人を殴り合わせて見物する非道いことで、しかも金は結局見物していた連中が、、いろんなテクニックで巻きあげてしまうのさ、・・・ファイト・マネーの上前ははねる。その上、やれ一緒にビシネスをやろうとか、出資しろ、土地を買って朝鮮キャロットを植えれば、ボクシングをやめてもピンクのキャデラックに乗り続けられるなんて、それはいろんなことを言って来るんだ。リングに登る直前の控室から、一文無しになったこの頃まで、男も女もひっきりなしに俺の金を狙い続けるんだ。ボクサーは、強ければ強いほど他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。   サンディ・サドラー   元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 


   集団の中にどんなに優れた人がいても、集団の判断は知能の低い者に向かって平均化される。   マクドゥーガル   

 戦争や災害など密室化した空間で、我々は理性的判断を如何に保てるのか。社会が特に報道が、批判を怖れないことは不可欠。しかし今この国は戦争でも無いのに、新聞もTVも挙げて理性的・合理的判断を放棄、「勝つことに執着」している。 Japan as Number Oneと持ち上げられ慢心し続けたこの国は、あらゆる指標で落ちぶれ内に籠もっている。容易く稼げる「一位」を探し、やっぱり優れていたとの判断に縋ってしまうのだ

 

 勝敗に関係なく相手を理解することは、自己認識の前提である。負けることや互いに楽しみを分かち合うこと以上の悲しみはない。

   幸いに通算103KO勝ちのチャンピオンサンディ・サドラーは、強ければ強いほど・・・他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。」ことに気付くことが出来た。

 プロ野球、プロサッカー、プロゴルフ、・・・プロパチンコ、プロ麻雀・・・今や栄光のオリンピック各種競技もアマチュアでは無い。放映権で荒稼ぎする業界お抱えのプロだ。囲碁将棋も少年時からプロを目指したくなる。だが強くなればなるほど他のことは知らなくなる。これを成長と呼ぶことは出来ない。

 人間は全面的な発達を目指すべく宿命づけられている。

何時「才能」が発現するか、開花しないかも知れない。子ども時代からプロを目指すのは、才能の芽を早期発見することではなく、可能性を摘み取ることにしかならない。どんな時期に如何なる環境で誰とともに才能が伸びそして消えるのか。たとえ死ぬまで才能の発現が無いとしても、彼も又天才かも知れない。。比べ競うことは犯罪的賭けなのだ。失敗して路頭に迷う確率は、成功するより遙かに高い。

 手当たり次第にtopを目指す性癖は天皇制fasismの逃れられない宿命である。

 第1次南極調査隊の副隊長兼越冬隊長の西堀栄三郎や初期マナスル登山隊の今西綿司らは登山家としてはアマチュアであった。それ故「強くなればなるほど他のことは知らなくなる」ことからは自由であり、優れた科学者として成果を挙げ続けることができた。

 コロナ対策の「専門家」会議の医者や学者たちは、病院経営の専門家=「プロ」として莫大な利権を手中に収めた。利権を手中にすればするほど医師や学者としては恥多き失敗をかさねている。

 アマチュアであり続けることだけが人間らしい成長や発達の不可欠の条件なのだ。鶴見俊介も小田実も決してプロ評論家やプロ作家では無かった。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...