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「アネハヅルのヒマラヤ越え」

  ヒマラヤ越えの飛行ルートダウラギリの標高は8,167m。酸素濃度が地表の3分の1しかない。酸素ボンベが無ければヒトは10秒で意識を失う。アネハヅルは、毎年ここを越える。


 アネハヅルはツルのなかではもっとも小さい。ある朝の夜明け、モンゴル大草原を一斉に飛び立つ。
  

 羽ばたきと滑空を繰り返しながら、山越えの上昇気流を探り高度を上げる。ダウラギリの周辺は、強い乱気流が渦巻き、風向きは瞬時に変わる。彼らは美しいV字編隊を組んで薄い酸素濃度と乱気流を克服してきた。

   V字編隊の空気力学を最大限に活用するために、先行する鶴の翼端で生じる螺旋状の気流の渦の上向き部分に翼を持っていく。先頭の鶴も常に羽ばたくから気流も絶えず上下する。従って、後続の鶴が先行する鶴の気流に乗り続けるには、的確な位置取りだけでなく、羽ばたくタイミングも正確に合わせる。それ故先頭の鶴には相当の負担がかかる。彼に疲労が見えてくると、体力を温存した仲間が次々と交代する。

  複雑な乱気流の中には、真上に向かって上昇する風もある。 その上昇気流に乗れればヒマラヤを越えられる。

 失敗すれば2000mも3000mも後退し疲労困憊のあげく、低地に舞い降りることになる。疲れ果てたアネハヅルの群れは、もうワシやトンビから逃げる元気すらない。アネハヅルの山越えの季節には、群れを狙う猛禽類も集まっている。


  上昇気流を見いだした群れは、一気に高度を上げて静寂のうちにダウラギリをこえてゆく。

  ここには安っぽいメダルも声援も賞金もない。メダルを齧る者も、メダルの数を数える組織もない。国賓待遇に胡坐をかく傲慢な男もいない。

 

  インド亜大陸がユーラシアプレートに衝突するまでは、多くの鳥や獣や昆虫そしてヒトがここを越えていた。ヒマラヤ越えの厳寒の峠に人の歩いた跡がある。岩壁に穴を穿って路をつくったのだ。

  「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさいマルコの福音書10章43~45節

 マルコの言葉を聞くのに、えらい神父や大仰な教会は一切要らない。アネハヅルのダウラギリ越えが示している。教会や寺院が膨大な人と億万金を使って、いまなお失敗し続けていることを。

遊びと自制と社会性

お父さんスイッチで親と子の役割を入れ替える
 ・・・(オオカミ)の小家族が目を覚ました・・・。さかんに跳びはね、たがいの鼻をなめたり身体の上を跳び越えたり、仰向けに倒れて四肢で家族のだれかを持ち上げる。そんな状態が長く続き、ようやく徐々に静けさが戻ってくる。 ・・・オオカミがどうしてこうした遊びをするのか、合理的な説明はない。・・・
 オオカミたちは、「たくさん働けばたくさん遊べる」をモットーに生きているように思われる。
・・・遊びは彼らにとって、社会学習の一つの形式なのだ。幸福感を高める。・・・

   小さな子どもたちと遊ぶ老オオカミも、若返りの泉に浸かったように見える。・・・
 ・・・相互にコミュニケーションし、肉体を鍛え、社会の結びつきを深めるための有用な方法が遊びなのだ。・・・
 遊びは学習とトレーニングの時間で、相手をよく評価するための経験を全員が積む。同時に、社会的役割を交代しながら訓練し、フェアプレーを実践することにより高レベルの倫理や道徳に家族をまとめる方法でもある。動物たちが遊ぶときは、守るべき取。決めがある。「自分がしてほしくないことは、ほかのものにもしないこと」という〝黄金律〟はオオカミにも通用する。この原則に従うには、共感のはかに、ゲームのあいだは相違点(身体の大きさ、社会的地位など)を度外視するという意志がいる。

 ・・・大人やとりわけ高位にあるものが・・・すすんで仰向けに寝ることで、役割交代が起きる。(ドルイドのリーダー狼)は八歳という熟年に達すると平穏を好んだが、それでも息子とよく遊び、息子に勝たせてやった。一歳の息子は父の首の毛を噛み、脚をすくつて地面に投げ、威勢よくパパの身体に足をのせて立ったものだ。パパは身をほどいて立ち上がり、くり返し息子に勝ちを譲った。こうして少年オオカミは身体が大きく強い大人と対決し、勝利するときの気持ちを体験する。
 自制と役割交代を通して、どのような態度ならほかのメンバーに許容されるか、どうやって紛争を解決するか、といったことを学んでいく。人間の子どもたちがチームスポーツに参加するようもっとすすめてはしいのもそのためだし、親が子にゲームの勝ちを譲っても損にはならない。
      『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館
 

 生徒が教師に問題や課題を出す機会の意義は高い。授業中定期試験問題文に間違いを組み込み、生徒に突っ込ませて頭を掻くことも悪くない。

  NHKのETVに「お父さんスイッチ」がある。  適当な空き箱に丸い小さなシールを5つ貼ってかな文字を書き、アンテナ代わりにストローなどを側面に貼って、リモコンの出来上がり。幼児が「あ」を押せば、お父さんは「あ」の付く動作をしなければならない。例えば「慌てる」とか「蟻になる」。それを5回やって「お父さんよくできました」とタイトルが出て終わる。恥ずかしげな幼児と実直そうな父親だけで構成される公共放送らしい素敵な番組である。(民法もNHKも権力に媚びた構成の番組と、「国民共有」の電波を私物化するタレントの悪ふざけに占拠されて不快極まりない中で、僅かな平安がある)

 部活の中身はそもそもがplayである。勝利至上から離れて遊びの方向に戻ることは、オリンピック騒ぎがメダル志向を煽る中では緊急の課題である。
 強者がその地位や特典を何時までも独占
する(五輪でメダルを獲得すれば、企業や団体そして自治体や国家の賞金と表彰が相次ぎ、勲章にまで及び公的地位を伴う。それが相続されることさえある)仕組みは、社会の健全性を阻害することを知らなければならない。
 人類だけが、強さや優位を何時までもresetせず、劣位にあるものを抑圧し続ける。必要なのは強者の自制であって、弱者の自己責任ではない。
 抑圧への反抗は、社会強者の優位をreset させる為の健全な表現活動として機能している。若者の「反抗」が社会の健全な永続性を促してきた。 強者による抑圧が、政治体制や宗教倫理となった時、抑圧への「反抗」は犯罪となる。

  今青少年が、強者による抑圧にどんな姿勢か。それは、無関心による無知と弱者に向ける自己責任の眼差しではないか。


 学力偏差値と部活の強さが売りの自称「名門」校生が、競技さなかの「底辺」校生に向かって、「落ちこぼれ、馬鹿野郎、転べ・・・」と嗤いながら野次る姿を大会でよく見てきた。当該高校の教師が、野次る生徒の「社会性」の欠落を悲しみ嘆く様は見たこともない。彼ら自称「名門」の残忍性は、川崎私立校大量殺傷事件と同質であると思う。刃物や犯人が残忍なのではない。「格差」拡大とそれを「活性化」と煽る視線が残忍なのである。
 どんなに怠け者の能なしでも地位をあてがわれる者と、どんなに努力しても沈み藻掻き果てる者をTV番組は嘲笑するように毎日見せ続けている。

自然には独自のリズムがある 少年の自立と成長には深く静かな時が欠かせない

粘り強さは熊と狼さえ結ぶ
 一匹のジリスが、望みのない状況で生き延びる勇気を見せてくれたことがある。若い雌オオカミが、まだ生きているジリスを口にくわえてきて地面におろし、ネコがネズミをもてあそぶようにジリスと戯れ始めた。口を開いて歯をむき出し、獲物のそばを前足でとんとんと踏み、真横に寝そべってうなり声を出す。ジリスは健気にもその場を動かずにいたが、やがてとうとう身体を動かして後ろ足で立ち上がった。ジリス特有の歯を見せ、ボクシングでもするように前足をオオカミに向かって伸ばす。ぜんぜん釣り合わない動物たちの〝対戦″は10分近く続き、別の一歳オオカミが雌オオカミの注意をそらせた隙に、ジリスは走り去って身を隠した。
 粘り強さと忍耐は、私も持ちたいと願う野生だ。・・・自然には独自のリズムがあって、私たちが急いでいることなど気にしない。

 野生動物の研究になくてはならない性質は、忍耐、つまり待つ能力。眠っているオオカミを何時間も観察したいという気持ち。ものの30分で退屈する二本脚生物(人間)もいる一方、オオカミからすでに学んだ筋金入りのウォッチャーもいて、オオカミが目を覚ますまで、必要とあれば氷点下30度の戸外で4時間待つこともある。
 高スピードのデジタル時代にあって、野生動物の観察は癒しや落ち着きを与えてくれる。動物たちは、いくらでも時間があるような印象を与える。オオカミがしとめたシカを例にとってみよう。ハイイログマがやってきて死骸を横取りすると、ライバルのオオカミたちを追い払った。死骸に草や土をかぶせてその上に寝転がり、午睡をとる。クマの典型的な行動だ。五匹のオオカミはクマの周囲でまるくなって眠っている。木々のてっぺんに数羽のハクトウワシがとまり、ものはしげに餌を見下ろす。
 みんな辛抱強く待っている。クマが目を覚まして去っていくのを。いつかは餌が手に入ることを知っているから。
 自然には独自の時間がある。長時間観察を続けると、そのことが感じられる。人間の尺度では測れないことがたくさんあるのだ。『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館

 青少年の自立を促す教員に欠かせない素養も、学校の尺度では測れぬ少年たち独自の時間(若い教師であれば、数年前までは少年だったはずなのに、早々とそのことを忘れていることに危機感を持つ必要がある)を感じること、長時間観察に耐えることだ。

 王子工高のM君は、遅刻(並の遅刻ではない、二時間、三時間はざらで六時間目終了間際に登校したこともあった。)と授業中の居眠り(教卓の真ん前で、折りたたんだバスタオルを枕に熟睡する)掃除もせずサッサと不機嫌な顔のまま下校、その他諸々・・・。
 彼の少年らしい快活さが戻るのに、二年半かかった。僕は会議の度に「優秀な担任は、こうした生徒を早期に退学させるものだ」と咎められて胃が痛くなった。

 M君の父親は度々登校して「息子を殴って下さい」と懇願した。「それは僕の仕事ではありません」と言い続けた。
 不思議なことにいつもギリギリの点を取り、実習や実験レポートもすれすれで提出して進級した。教科担任の中にはM君の顔を忘れちゃった人もいたほどだ。

 秋のある日の倫理の授業中、突然M君が起きあがって腕組みして僕を睨んだ。「よう久しぶりだな」と言おうとしたが、険しい顔付きに押されて無駄口が出なかった。かなり長い時間を真ん前で身じろぎもせず睨み続けた。数日後、数人が「先生、大変だよ。来てよ」と駆け込んできた。慌てて駆けつければ、「あいつが掃除してるんだ、大変だよ」とM君に聞こえるように言う。箒を握ったM君が笑いながら僕を見ている。「うん、これは大変だな」と笑い返した。それから、彼は卒業まで一日も遅刻せず登校し、居眠りもしなかった。彼の生活の変貌振りは、微笑ましく凄まじかったがここでは書くまい。


 僕自身は、これはこの時の授業(「実存とは何か」)のお陰だと考えていた。
 「親や教師から説教されると、それが正しいと分かってもムカッとする。人間は、自分でももうこんなことは辞めようと思っているときに、そのことで説教されると殊更ムカッとするものなんだ。この反応を「反抗」と呼ぶ、反抗は誇りある人間の証だ」と
講じていた時、M君はガバッと起き上がった。僕はこのことを「不当強調」したい誘惑に駆られた。大切なのはM君の主観において考察することだ。「不当強調」は倫理上の罪である。

  M君は、学校や家庭の常識に振り回され続けた。「このままではろくな大人にはなれない」「世の中は甘くない」と。だがM君は、一方的に説教される客体ではなく、状況に主観的に自らを投入する主体である。そのことに気付き始めていたのではないか。M君が自力で辿って得たものこそ思想である。彼は、学校や親の一方的断定に押されて、心が受動的=パッシブになった二年以上を「沈黙」の中にあった。彼は「自由と不自由の際」に自ら立った。
 「青年は荒野を目指す」という科白があった。少年はいつか「自由と不自由の際」=荒野に立ったことを自ら自覚して青年になる。教師や親の判断に依存するのではなく、自身の主観において世界を引き受ける。それが自立である。
 M君が二年余の眠りから目覚めたのは、僕の授業のおかげだと思ったのはただの傲慢だった。


 飼育を拒否して自立するには、安逸な「檻」から自らを隔離しなければならない。だからM君は敢えて堂々と「寝た」のだ。アランが、考えるためには「静かで暗く長い時間」が必要と言ったのはこのことだった。
その長い時間を作り耐えたのは、彼自身である。
 哲学は、少年/少女ら自身の中にある。我々が「教えてやる」ものではない。

「立ち止まったら、行っちやった」/ 野生狼が教えること

独裁的な狼はリーダーになれない
 ・・・野生オオカミが棲息することに不安を感じる人は多い。不安は非理性的なものであっても、たしかに存在する。
 オオカミに出会ったとき不安を感じるのはうなずける。未知のものに対して、だれもが不安を抱いている。だが、それが存在しないかのようにふるまっても、不安がなくなるわけではない。それと向き合うことが大事で、しばらく耐えるだけですむこともある。
 子どもは未知のものに対して大人より勇気があることに、感心せずにはいられない。ツエレ(ニーダーザクセン州)近郊の小学校でスピーチをしたとき、オオカミを見たことはあるか、と質問すると、二人の少女がおずおずと手をあげた。森のなかで三匹に出くわしたそうだ。
 「怖かった?」
 私がたずねると、二人とも激しくうなずく。
 「それで、どうしたの?」
 「何もしなかった。立ち止まったら、オオカミは歩いて行っちゃった」
 よくやった、とはめてあげる。少女たちの行動は正しい。数日後に女教師から電話をもらい、女子生徒二人はオオカミとの出会いを誇らしく思っている、と伝えてくれた。
 子どもたちは先入観を壊してくれるのではないか、と期待している。率直かつ勇敢で、新しい道を進む気構えがあり、動物との自然な関係を本能的に知っている。往々にして大人に欠けるものだ。
 オオカミは、保護しょうと努力する人間たちより劣るわけでも優れているわけでもない。

                                 『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館

 野生動物に対する理解は、近年劇的に深まった。観察
研究が段違いに進んだからである。
 米国の動物園のゴリラ舎の溝に三歳の子どもが落ちたことがある。シルバーバックのゴリラは水の中に横たわる少年を優しく抱き起こし、10分間一緒に遊んだ。←クリック          ゴリラは力を加減して優しく少年の手を取り、互いに目を見つめている。
 このとき、愚かにも人間の大人が特に母親がパニックに陥った。大きな叫び声を上げて、ゴリラに恐怖感を与えてしまった。そればかりか、銃で射殺してしまったのである。多くの市民が射殺に抗議したのはもちろんのことだが、取り返しのつかない悲しみが残った。未開で野蛮で愚かなのはどちらか。

 野生狼も、群れ筆頭のオス=アルファが自分の遺伝子を残すために、群れの全てを暴力的に支配して家畜や人間を襲うという描き方が多かった。だがそのような振る舞いは、野生の狼には見られないことが分かってきた。冷酷で攻撃的なオオカミ像は、野生化したイヌや人工的に閉じ込められたオオカミが人間から「学習」した習性の反映に他ならない。
 狼が互いに遊ぶのは、個体同士を徹底的に理解するためである。群を率いるのに最も重視される素質は、各個体が十分に能力を発揮できるように配慮調整することである。それは狼の群だけに向けられたものではなく、森の生態系全てに向けられている。

 学校に「荒れた」少年が初めて現れたとき、教員の多くはおののいた。多くの高校が「野生」の少年を受け容れるのは初めてだったからだ。しかしそれは既に野生ではなく、選別と差別に曝されて、学校的格差を「学習」した少年たちであった。


 教員になる数ヶ月前まで、僕は大学紛争まっただ中にいた。殺人事件さえ起き、機動隊の放水や対立するセクトの投石を浴びていた。そんな僕には、学校の光景はこの上なく長閑であった。僕は過剰な防衛反応にいきり立つ現場教師たちに

 「何も起きていないではないか」と噛み付いた。すると  「君には問題が見えないのか」と返され 
 「具体的問題が起きるまでは見えないのが当たり前で、自らの影に怯えるのは愚かだ」と言った。何人かの年老いた教師が 「よく言った、飲まないか」と会議後追いかけてきた。新設高校の「荒れ」を新聞が書き立て初めても、学校は僕には花園であった。生徒がタバコを吸い、アロハシャツを着流し、授業を脱走し、バイクを校舎に乗り入れても「危機」とは思えなかった。
 90年代半ば、山手線に近い都立B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは建て替えたばかりの校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だったと思う。教師達が建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒と校舎どっちが大事なんだと荒れる。近所からの苦情は絶えず、対策に追われて職員会議は週二回が定例。教員は疲れ果て為す術がない。←クリック    
 その後の経緯はまさに「立ち止まったら、行っちゃった」であった。知性は、介入「指導」するものではない。
       

ゴリラの群れの中に寝ころぶ / アフガンで完全非武装を貫く

アフガン和平は、非武装のみが実現する
山極寿一 私はゴリラの群れのなかに寝ころんで、彼らが自由に振る舞うところを近くで観察したわけです。そこまで行かないと、実際の観察はできません。そのとき、自分で身を投げ出すわけですね。
 向こう側に、生の体を入れてしまう。そういうことにはかなり度胸が要ります。私もニホンザルに囲まれてどうしようかと思ったことがあります。ニホンザルはイヌと違って三次元で攻めてくるのです。三頭いたらとても対処できません。それで恐怖のどん底に突き落とされるのですが、そこではかえってなせばなるような感じになるのです。メスのゴリラに前後を挟まれて、一頭のメスは私の頭を囓り、もう一頭のメスは私の足を囓って、大怪我をしたことがあります。そのとき、もう抵抗しょうという感じはなくなっていました。しゃあないな、やつらがなすがままに任せておこう、と思うと、恐怖が消えるのです。そうすると、お互いを隔てていた壁がどこかで一か所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界が眺められるようになります。これは体験してみないとわからないことかもしれませんが。
 ・・・それはまさにコミュニケーションです。そういう感覚を、言葉によるコミュニケーションだけに重きを置くばかりに忘れがちになってしまっているのです。
 だからこそ、冷房のなかにいて、それが人間に快適さをもたらすものだとばかり思ってやっていると、人間の身体のフレキシビリティがどこかで崩壊してしまって、逆に不健康になってしまう。人間はつねに外部とコミュニケーションをとっていて、・・・外部を抱え込んでいるわけです。
 人間の身体が気づかないうちに腸内細菌が反応しているということもあるわけですし。今西さんが言っていることですが、腸や胃などの管は、外部が人間の体のなかに陥入している状態なのだと。すなわちそこは外部であるということですね。あの時代にそれに気がついているのはすごいと思います。外部が人間の身体と同化しっつやりとりをしているのであって、まさにそういうところでいろいろな
 ・・・いろいろなつながりを感じながら、そのつながりを網の目の一つとして働いている、頭のなかでは意識できない人間の身体があるのだということです。言葉が通じない動物とどこかで了解しあえる経験をすると、それに気がつかされるのです。
 面白いことに、動物園の飼育係はみんなそれに気がついています。ただ、人間は生まれつき言葉を使ってコミュニケーションをするようにできているから、彼らはあえて言葉で語りかけるわけです。もちろんヒツジだろうがゾウだろうが、言葉は聞いていません。・・・
 
 だからこそわかるのです。われわれが言葉でしゃべっているとき、一番嘘偽りのない人間の身体の動きができていて、その体中から発散されるいろいろなタイプのコミュニケーションを、動物たちはそれぞれが持っているコミュニケーション能力で感じ取っているわけです。だから、彼らにはわかるのです。あたかも人間の言葉を聞いているかのように見える。だけど、われわれ自身が彼らのコミュニケーションの仕方を感じ取る能力をどこかへやってしまったから、彼らが言っていることはわからない。こういう事態に今、陥っているのです。つまり、向こう側に行けない。それはやはり対象科学が発達したせいです。つまり、理解ということが、論理的に、あるいは物象・現象として理解できないと、理解にならないという思い込みです。

 私がゴリラや自然との付き合いで学んだのは、曖味なものは暖味なままにしておこうということです。・・・つまり、正解を求めないということです。人間の頭で考えた論理的正解を追求しない。それが生き物との付き合いだと思います。他のところで了解しあっているかもしれないし、それに自分は気がついていないだけかもしれない。しかしそこでは身体が反応しあっているから、向こうは了解してくれる。ただ了解点を感知することが重要であって、理解を深めることが重要なのではありません。  (「現代思想」2018年9月号・中沢新一との対談)

 

   教員は、少年時代の記憶を捨ててしまう職業である。わざわざ勿体ないことをするのは、その方が都合がいいからだ。教え方や生活への介入について自分自身が感じた理不尽をありありと思い出したら、今度は自分自身が現在少年たちに加えている理不尽を正当化出来ない。
 しかし、少年時代の記憶をとどめる教師は幸福だと思う。山極寿一がゴリラの群れの中に寝転んで経験した「お互いを隔てていた壁がどこかで一か所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界」を見ることが出来るからである。そうであってこそ授業は可能になる。
 教師は、その恣意を生徒に「理解」させることを厚かましくも「指導」とよんでいる。その際我々は、成績や校則によって精一杯武装している。生徒の側は非武装である。ゴリラの群れに
自然体で寝転んだ山際寿一とは大きく異なっている。 
 教師が生徒に囲まれて頭や腕を囓られたことがあるか。教室でタバコを吸ったり制服を着なかったりがせいぜいだ。対して少年たちは、生意気と言いがかりをつけられ体罰で殺され、僅かの遅刻で校門に挟まれ殺されているのだ。
  寿一と同じ立場に立つならば、教師は一切の優位性を捨て,同時に生徒の権利を明示しなければならない。つまり我々教師が先ず、武装を解除して、壁を壊す必要がある。そうして初めて、青少年たちは教師とのあいだの壁を消しコミュニケーション可能な存在として立ち上がってくる。
 多くの体罰教師を排出するある体育大学は、教師になる学生に「舐められるな」と訓示し秘訣を伝授すると聞いた。ゴリラの中に入るのに、甲冑で身を固め武器を携帯するようなものだ。

 
 思えば僕の「教育実習」の第一歩は、小中学校の同級生が対象だった。優位性も義務も一切ない。互いに自由勝手で、詰まらなかったり分からなかったりすればそこでお終い。第二歩目は、高校や大学で教室を巡ってのアジテーションであった。こちらに優位性の類いは一切ない。授業前の教室でビラを配りながらアジる。最大の課題はベトナム反戦だった。詰まらなければ忽ち怒号が飛び追い出される。アジテーションの意図が伝われば拍手が湧き、入り口で眺めていた教授に「続けたまえ」と言われることもあった。僕の通っていた大学では、セクト間対立は激しく殺人沙汰もあり暴力や脅迫は日常的であった。
 だから、荒廃が頂点に達していた時期の工業高校も、紛争中の大学に比べればお花畑であった。

 刃物を手にしたヤクザを前にしても不思議に落ち着いていたのには、自分自身も驚いた。そのせいか、「あいつはヒョロヒョロだけど、空手有段者で警察に登録されているらしい」という噂が生徒たちの間に広がったことがある。

 少年たちの中で働く者は、
寿一の方法を学ぶ必要がある。少年もゴリラも尊厳と知性に満ちた存在だ。
 

 紛争の現場に赴く「専門家」は、もっと寿一に学ぶ必要がある。非武装だけがコミュニケーションを可能にすることを肝に銘じなければならない。
 中村哲医師の手作り水路による灌漑は、アフガン和平を実現出来るのは非武装だけであることを証明して見せた。ノーベル平和賞プラス医学賞の1世紀分に値する壮挙だ。それ以上に、ノーベル財団にとって中村医師に賞を受け取って貰うことは、政治的汚濁に塗れた平和賞を過去の柵みから解放する唯一の方法だと思う。そうでもしなければ、ノーベル賞は戦争政策の現状肯定でしかない。
 

ゴリラには勝ち負けの概念がない、弱いものに合わせて遊ぶ優しさがある

ゴリラは少年と目を合わせながら、優しく手を握っている
 「1861年に、アメリカの探検家ポール・デュ・シャーユによって書かれた『赤道アフリカの探検と冒険』は、当時の欧米人が人間をどのようにみなそうとしていたかを教えてくれる。そこには文明と未開、そして獣性を秘めた半人半獣の類人猿が登場する。
 「未開という言葉は、欧米以外の文化を否定し、ほかの文化に生きる人々を教化する目的で植民地支配を正当づけるためにつくられた用語である。 
 いくら野蛮な文化でも、人間は教育によって変えることができる。だが、人間ではない類人猿の凶暴で邪悪な性質は生まれつきのもので、けっして変えることはできない。19世紀の欧米の知識人はそう考えていた。デュ・シャーユは、アフリカで遭遇したゴリラの印象を「まるで悪夢のなかに出てくる生きもの」として描写し、その凶暴さと好戦性を誇張した。あろうことか、現地の人々の話として、ゴリラが人間の女を好んでさらうという性癖をもつことまでつけ加えたのである。これはそのまま人々の心に残り続け、1930年代に封切られた「キングコング」の典型的なイメージとなった。 
 ポール・デュ・シャーユのゴリラは、一九世紀の欧米人が考えていた人間らしさのネガの部分に相当する。産業革命以降、近代工業都市に変貌をとげた欧米各地で、人々は生産至上主義の嵐に翻弄されつつあった。大家族が解体して経済の単位は核家族となり、労働者階級が形成されて資本家による搾取が生まれ、アジア、アフリカ、新大陸の植民地化をめざして各国が先陣争いを演じていた。人間がほかの人間を支配すること、それを暴力によって強制することについて、だれもが疑いをもち、納得できる理由をみつけたがっていた時代だった。 
 人々は、ゴリラを暴力的で非人間的なものとみなすかわりに、人間が行う暴力は、豊かな人間社会の発展のため寄与するためのひとつの手段と位置づけた」  山際寿一『ゴリラ』東京大学出版会

 米国の動物園のゴリラ舎の溝に三歳の子どもが落ちたことがある。シルバーバックのゴリラは水の中に横たわる少年を優しく抱き起こし、10分間一緒に遊んだ。冒頭の写真はその時のものである、ゴリラは力を加減して優しく少年の手を取り、互いに目を見つめている。
 このとき、愚かにも人間の大人が特に母親がパニックに陥ってしまった。大きな叫び声を上げて、ゴリラに恐怖感を与えてしまった。そればかりか、銃で射殺してしまったのである。多くの市民が射殺に抗議したのはもちろんのことだ、取り返しのつかない悲しみが残った。
 未開で野蛮なのはどちらか。植民地支配で欧・米・日が見せた野蛮を、彷彿させる光景である。


蝶をじっと見つめている。好奇心が旺盛なのだ
 ゴリラは遊び好きである。力や能力の勝るものが、力を制御して弱いものに合わせなければ遊びは成立しない。この相手に合わせる能力が、「共感」という能力になったのである。 左の写真、ゴリラが蝶を見つめている。花を見つめたり、小鳥と遊んだりもする。ゴリラ同士でもよく遊び、笑う。胸を手のひらでたたくドラミングは脅しではない、近づかないでという願いである。互いの了解ができれば空気のように近づき、うなり声で挨拶を交わすようになる。たとえヒトであっても。
 ケンカが起きても決着をつけることはない。もめても最後は必ず、見つめ合って和解する。ゴリラは平和的で、勝ち負けの概念を持っていないだからじっと目を見つめるのだ。
 ゴリラ社会にボスはいない、リーダーはいる。序列がないからである。ボスは序列を維持し支配するが、ゴリラ社会では調整が期待される。調整・仲直りにおいては、力は役立たない。力を背景にした仲直りは、力あるものの「顔」を立てる強制があって、両者に不満が残る。力のないものの仲裁なら、「仕方ない」と自発的和解に至る。ボスがメスを独占することもない、メスが、独りオスを選ぶからである。
 日本猿の社会には、厳しい序列があり喧嘩が絶えない、餌もメスもボスが独占する。私有財産制度の萌芽があると、僕は思う。
  
 帝国主義国家の振る舞いは、ボス支配のサル社会に近い、日本は米国とともに今なおそうである。北欧は、ゴリラ社会に近い。他の国家も、文化のどこかしらにゴリラ的部分がある。日本と米国は、ボス支配を好み、序列を好み徹底的にニホンザル社会的である。ゴリラ的文化が入り込みにくい。日米の違いは、序列のどこに位置するかである。

 この国では、遊びのすべてを序列化するだけでなく、小さな子どもに残された遊びの部分まで競技化、全国大会や全国テストに組織する。そして娯楽化し企業化してしまうから、「生産性のない」者が軽んじられる。
 ゴリラ個体が持っている優しさを、我々は失いつつある。少なくとも少年の間は、序列のない遊びを生活の中心にしたい。
 子どもにメダルや優勝盾好きに仕立てたくない。勲章まみれの殺し合いと背中合わせである。好奇心と独占欲は違う。オリンビックをごり押しする勢力と、戦争法を推進した連中は独占欲にまみれている。

 南米最大のサル、ムリキは、高さ30mの樹上で群れを作って生活するが、序列がない。食べ物や繁殖相手を巡って争うこともなく「平和なサル」といわれる。群れが移動する時には、自らの体で橋を作り、仲間を助ける行動を見せる。  美味しい実のなっている木を発見した時も独占せず、必ず仲間を呼び集めて一緒に食べる。ムリキには自分さえよければということがない。

 万物の霊長ヒトが、絶えざる争いと略奪と殺戮に明け暮れ、地球そのものを滅亡の縁に追い込んでいる。我々はやはり退化していると考え込むのだ。赤トンボの羽を毟って「赤トンボ、羽を取ったら唐辛子」と歌うヒトの子。蝶が停まるのを辛抱強く待つゴリラの子。

追記 ゴリラの棲息域はチンパンジーと重なる場合があり、食べ物も共通するものが多い。特に果実はゴリラが摂る約100種類のうち7割以上は、チンパンジーも餌にしている。森の中に果物が少なくなってチンパンジーとの競合が増すと、ゴリラは葉っぱや茎を食べるようになる。諍いは避けられる。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...