ゴリラには勝ち負けの概念がない、弱いものに合わせて遊ぶ優しさがある

ゴリラは少年と目を合わせながら、優しく手を握っている
 「1861年に、アメリカの探検家ポール・デュ・シャーユによって書かれた『赤道アフリカの探検と冒険』は、当時の欧米人が人間をどのようにみなそうとしていたかを教えてくれる。そこには文明と未開、そして獣性を秘めた半人半獣の類人猿が登場する。
 「未開という言葉は、欧米以外の文化を否定し、ほかの文化に生きる人々を教化する目的で植民地支配を正当づけるためにつくられた用語である。 
 いくら野蛮な文化でも、人間は教育によって変えることができる。だが、人間ではない類人猿の凶暴で邪悪な性質は生まれつきのもので、けっして変えることはできない。19世紀の欧米の知識人はそう考えていた。デュ・シャーユは、アフリカで遭遇したゴリラの印象を「まるで悪夢のなかに出てくる生きもの」として描写し、その凶暴さと好戦性を誇張した。あろうことか、現地の人々の話として、ゴリラが人間の女を好んでさらうという性癖をもつことまでつけ加えたのである。これはそのまま人々の心に残り続け、1930年代に封切られた「キングコング」の典型的なイメージとなった。 
 ポール・デュ・シャーユのゴリラは、一九世紀の欧米人が考えていた人間らしさのネガの部分に相当する。産業革命以降、近代工業都市に変貌をとげた欧米各地で、人々は生産至上主義の嵐に翻弄されつつあった。大家族が解体して経済の単位は核家族となり、労働者階級が形成されて資本家による搾取が生まれ、アジア、アフリカ、新大陸の植民地化をめざして各国が先陣争いを演じていた。人間がほかの人間を支配すること、それを暴力によって強制することについて、だれもが疑いをもち、納得できる理由をみつけたがっていた時代だった。 
 人々は、ゴリラを暴力的で非人間的なものとみなすかわりに、人間が行う暴力は、豊かな人間社会の発展のため寄与するためのひとつの手段と位置づけた」  山際寿一『ゴリラ』東京大学出版会

 米国の動物園のゴリラ舎の溝に三歳の子どもが落ちたことがある。シルバーバックのゴリラは水の中に横たわる少年を優しく抱き起こし、10分間一緒に遊んだ。冒頭の写真はその時のものである、ゴリラは力を加減して優しく少年の手を取り、互いに目を見つめている。
 このとき、愚かにも人間の大人が特に母親がパニックに陥ってしまった。大きな叫び声を上げて、ゴリラに恐怖感を与えてしまった。そればかりか、銃で射殺してしまったのである。多くの市民が射殺に抗議したのはもちろんのことだ、取り返しのつかない悲しみが残った。
 未開で野蛮なのはどちらか。植民地支配で欧・米・日が見せた野蛮を、彷彿させる光景である。


蝶をじっと見つめている。好奇心が旺盛なのだ
 ゴリラは遊び好きである。力や能力の勝るものが、力を制御して弱いものに合わせなければ遊びは成立しない。この相手に合わせる能力が、「共感」という能力になったのである。 左の写真、ゴリラが蝶を見つめている。花を見つめたり、小鳥と遊んだりもする。ゴリラ同士でもよく遊び、笑う。胸を手のひらでたたくドラミングは脅しではない、近づかないでという願いである。互いの了解ができれば空気のように近づき、うなり声で挨拶を交わすようになる。たとえヒトであっても。
 ケンカが起きても決着をつけることはない。もめても最後は必ず、見つめ合って和解する。ゴリラは平和的で、勝ち負けの概念を持っていないだからじっと目を見つめるのだ。
 ゴリラ社会にボスはいない、リーダーはいる。序列がないからである。ボスは序列を維持し支配するが、ゴリラ社会では調整が期待される。調整・仲直りにおいては、力は役立たない。力を背景にした仲直りは、力あるものの「顔」を立てる強制があって、両者に不満が残る。力のないものの仲裁なら、「仕方ない」と自発的和解に至る。ボスがメスを独占することもない、メスが、独りオスを選ぶからである。
 日本猿の社会には、厳しい序列があり喧嘩が絶えない、餌もメスもボスが独占する。私有財産制度の萌芽があると、僕は思う。
  
 帝国主義国家の振る舞いは、ボス支配のサル社会に近い、日本は米国とともに今なおそうである。北欧は、ゴリラ社会に近い。他の国家も、文化のどこかしらにゴリラ的部分がある。日本と米国は、ボス支配を好み、序列を好み徹底的にニホンザル社会的である。ゴリラ的文化が入り込みにくい。日米の違いは、序列のどこに位置するかである。

 この国では、遊びのすべてを序列化するだけでなく、小さな子どもに残された遊びの部分まで競技化、全国大会や全国テストに組織する。そして娯楽化し企業化してしまうから、「生産性のない」者が軽んじられる。
 ゴリラ個体が持っている優しさを、我々は失いつつある。少なくとも少年の間は、序列のない遊びを生活の中心にしたい。
 子どもにメダルや優勝盾好きに仕立てたくない。勲章まみれの殺し合いと背中合わせである。好奇心と独占欲は違う。オリンビックをごり押しする勢力と、戦争法を推進した連中は独占欲にまみれている。

 南米最大のサル、ムリキは、高さ30mの樹上で群れを作って生活するが、序列がない。食べ物や繁殖相手を巡って争うこともなく「平和なサル」といわれる。群れが移動する時には、自らの体で橋を作り、仲間を助ける行動を見せる。  美味しい実のなっている木を発見した時も独占せず、必ず仲間を呼び集めて一緒に食べる。ムリキには自分さえよければということがない。

 万物の霊長ヒトが、絶えざる争いと略奪と殺戮に明け暮れ、地球そのものを滅亡の縁に追い込んでいる。我々はやはり退化していると考え込むのだ。赤トンボの羽を毟って「赤トンボ、羽を取ったら唐辛子」と歌うヒトの子。蝶が停まるのを辛抱強く待つゴリラの子。

追記 ゴリラの棲息域はチンパンジーと重なる場合があり、食べ物も共通するものが多い。特に果実はゴリラが摂る約100種類のうち7割以上は、チンパンジーも餌にしている。森の中に果物が少なくなってチンパンジーとの競合が増すと、ゴリラは葉っぱや茎を食べるようになる。諍いは避けられる。

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