知識人にとって第一の義務は、同道の仲間を批判することである

行動を決断するのは道徳的選択である
  「知識人にとって第一の義務は、同道の仲間を批判することである。 
 知識人が沈黙を選択することもあるわけだが、それは、自分と一体だとみなす人びとがたまたま過ちを犯したとしても、結局は万人のために善かれと思ってしたことだと考えることにして、かれらを裏切ることを恐れるからだ。 
 こうした悲劇的な選択が生んだ物語はいくらでもある。そのために、信じてもいない闘いに死をもとめ、命を落とすひともいる。それは忠誠を真実と取り換えることができると考えたせいだ。けれど忠誠は倫理的カテゴリーであり、真実は理論的カテゴリーなのだ。もちろん知識人の役割が道徳と無縁なわけではない。行動を決断するのは道徳的選択である」ウンベルト・エーコ 『永遠のファシズム』 
 戦争のような重大な決定についてだけ、このような問題があるわけではない。例えば生徒の茶髪に関する職員会議決定。これも「たまたま過ちを犯したとしても、結局は万人のために善かれと思ってしたことだと考えることにして、かれらを裏切ることを恐れる」問題なのだ。こうした問題にさえ拘れない者が、戦争に反対することが出来るだろうか。個人的に反対と呟き、反戦デモ程度には加わるだろう。
 だが、「結局は・・・かれらを裏切ることを恐れ」て、「茶髪の問題」で見過ごした選択がもたらすものを考えねばならない。「確かに授業で表現の自由は教えた。表現の自由は個人の人権であり、たとえ国家であっても奪えないと」しかし同じ口が、「職員間の和に比べれば他愛のない問題ではないか」と社会に向かって言ってしまうのだ。「信じてもいない闘い」つまり校門に立って頭髪検査に加担してしまう。「教室で話した真実」の代わりに、「職員室の忠誠」がなると考えるのだ。
 教員仲間の「脱法」行為を肯定して、生徒と生徒に教えたことをともに裏切ったものが、「さあ今こそ戦争に反対して、表現の自由を行使しよう」呼びかければ、生徒たちは冷ややか反応するだろう。その裏切り方が鮮やかであればあるほど、青少年の反発は大きい。裏切りの教師が平和を叫べは叫ぶほど、青少年は国家への忠誠に走る。
 そして、平和の価値を忠誠に置き換える生徒を、教師は驚きの目で見てみせるのだ。まるで他人事と言わんばかりに。

  維新の会などの反動的政策に、若者や弱者が易々と取り込まれるのはこの点なのだ。彼らは、教師の裏切りに我慢がならないのだ。例えば見かけ通りの酷い奴が悪事を働いても、その酷い個人を憎めば済む。しかし、善良正直が看板の教師が悪事を働らけば、憎しみは個人を超えて教師一般に広がる。保守政党が汚職しても批判は軽い、しかし革新政党が同じことをすれば、致命的な傷を自分自身だけではなく仲間にも与えてしまうのと同じ構図である。
 教師一般への憎しみを若者が共有すれば、安部が飛ばす「日教組」という野次は、共感を持って迎えられるのだ。そして攻撃は「日教組」の枠を超えて激化する。
  
 橋下や安部の政策・思想を批判するとき、我々は我個人でなく職業集団としての教師の振るまいへの自己批判から始めねばならないのだ。単に彼らの誤りをいくら指摘しても、効き目はない。彼らの結束を固め、同調層を広げるばかり。厄介なのだ。

 「知識人にとって第一の義務は、同道の仲間を批判することである」。教師は、仲間を批判して孤立することなしに、言葉の真実性を証明することはできない。常にそうではないが、たいていはそうである。
 フランスの教師たちのように、学生生徒の自由と権利を求める街頭行動に、教師が集団として関わるようになれば、話は別だ。フランスでリセの教師を教授と呼ぶのは、こうした行動ゆえなのだ。教師が従わねばならぬのは、「真実は理論的カテゴリー」という判断である。

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