ついに日本の年金世界総合ランキング( 2019年度「マーサー・メルボルン・グローバル年金指数ランキング」)が、中国や韓国を下回った。日本は31位で先進国最下位。 アジアでは、シンガポールは8位 マレーシア18位 インドネシア23位 韓国24位 中国23位。
マーサーは主要37カ国について40の指標を立て、年金システムが退職後の個人の財政状態の改善につながるか、持続可能かどうか、国民に信頼されているかなどを評価した。
2019年度「グローバル年金指数ランキング」では、オランダが1位、デンマークが2位。両国はいずれも退職時に提供される資金保証でレベルAを獲得した。3位のオーストラリアのレベルはB+だった。トップ10の残りはフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、シンガポール、ニュージーランド、カナダ、チリでこれらの国はレベルB。英国と米国はともにレベルがC+でそれぞれ14位と16位だった。 日本は、五段階中のDランク。
cool JapanやRugbyで雇われ外人にヨイショされて傲慢になっている間に、日本は泥沼に首まで沈んで笑っている。天皇即位騒ぎに浮かれて、自らの危機気が付かない。それが君主の機能だ。
追記 2019年度報道の自由度ランキング、日本67位韓国41位
権力のない人間には、うそをつく権利がある
権力ある人間のうそと、無権力の人間のうそには比較できない。権力をもたない人間が抵抗するときに、うそをつく権利を奪われて、お手上げになっちゃったらいったいどうなるのか、という問題がある。権力をもたない人間からうそをつく権利を奪ってはならない。というのが武谷三男の道徳論の基礎にある。権力者の嘘は特権であり、力の無い民衆の嘘は人権である。
京都の商家には子どもの嘘を喜ぶ習わしがあった
柳田国男が、京都の商家に生まれた幼児が初めてうそをついた時のことをどこかに書いている。
子どもがお使いをする歳になった。商店街に笊を持って油揚げを買いに行く。何度目かに油揚げが一枚ない。
「カラスが飛んできてな、咥えて逃げていったん」と子どもは言った。家中が一寸した騒ぎになった。「ボンがうそついたでー」「そりゃめでたい」「赤飯炊きなはれ」
こどもは油揚げを盗んだ咎めを受けるのではなく、「うそをつくほどに知恵がついた」と成長を喜ぶべき存在として認識されている。嘘がばれたのに、こんなに大げさに祝福されては、もう嘘はつけない。子どもは自分がどんなに愛されているのか実感するのだ。
天皇権力は、壮大なうその体系「万世一系」や「生き神」で、縁もゆかりもない熊襲や出雲まで欺した。挙げ句の果ては他国民にまで「八紘一宇」の(決して同意を求めたり討議することはなく)珍妙なうそのに巻き込み、数千万人を殺害し自然を蹂躙したのだ。
子どもや少年/少女の「うそ」がいけないと説教するなら、まず始まりの「万世一系のうそ」から手をつけなければならない。首相が「放射能はアンダーコントロール」と平然と嘘をつくのも、オリンピック招致で「東京の8月は温暖で理想的」と笑顔で欺せるのも、「うその万世一系」に源泉がある。元を絶たないから嘘はいくらで湧き出す。
権力ある者のうそを曝き、権力を持たない者のうそを権利として守り場合によっては代弁するのが教師の任務である。幼い者のうそを祝う文化を学校こそは持つ必要がある。
そんな甘いこと言っていてもいいのか。大いにそうでなければならない。「あの先生だけは欺せないよ」と言われないことを恥じねばならない。甘いことを言うべきではない相手は生徒ではない、権力である。力ある者に忖度や迎合を繰り返せば、厳しい言葉は行き所を失って権力のない者に向かうのだ。
「仕事の人格化」「教育の非人格化」
大石先生は優しく泣き虫だった、子どもの成長の 全過程が彼女の教育労働の中にあったからである |
収穫の部分的肉体労働だけがあるとき、そこに収穫の喜びを見いだすことは出来ない、労働は苦役となる。全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる。これを黒井千次は「労働の人格化」と呼んだ。
今教師が疲れ果てて死につつあるのは、長時間労働に大きな責めを負わせねばならないが、教育という全人格的営みがズタズタにばらされ、仕事に喜びを感じられなく変質したことも無視できない。
入学から卒業までの少年/少女の成長の全過程は、今や教師の労働の中にはない。恣意的に切断された部分だけをあてがわれて、他人の決定や意志で動く。自分の授業はもとよりテスト問題も裁量することは出来ない。創造の喜びはない。かつては草の根インテリとも呼ばれた教師には、耐えがたい苦役である。
教育労働の分業化がまだ進まず、職員会議の民主的討議決定が保証されていた頃、僕は真夜中に生徒や保護者にたたき起こされ遠方に駆けつけていたが、若かったせいもあって疲れは溜まらなかった。
泊まりがけの山行や合宿も、全過程が見え決定が任されているとき、疲れはいつの間にかほぐれていた。日々の実践が教育的作品として出現する喜びは何物にも代え難かった。
今、生活指導や進路指導の主任教諭になってしまえば、移動しても別の分掌には就けない。それを専門性が生かせると強弁する者もある。愚かである、我々の労働対象である少年/少女は分割出来ないのだから。こうして、教育の非人格化は極まりつつあるのだ。教師は、今や自己を労働者として組織化することも出来ないのだ。政権や財界の狙いはここにある。その為に教育そのものが解体されることなど、彼らにはもの数ではないのだ。
僕は『二十四の瞳』に授業の場面が無いのが不満である。式や行事だらけである。日本人の学校の記憶に授業が無いのはいいことだろうか。
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