「仕事の人格化」「教育の非人格化」

大石先生は優しく泣き虫だった、子どもの成長の
全過程が彼女の教育労働の中にあったからである
 果物や農作物の土作りや種まきするとき、収穫物のイメージがある。草取り、収穫を経て食べるまでをみることが出来れば楽しい。出荷し人に食べて貰う場面を知る。その全過程が、自分の労働の中に常にあれば充実する。
 収穫の部分的肉体労働だけがあるとき、そこに収穫の喜びを見いだすことは出来ない、労働は苦役となる。全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる。これを黒井千次は「労働の人格化」と呼んだ。

   今教師が疲れ果てて死につつあるのは、長時間労働に大きな責めを負わせねばならないが、教育という全人格的営みがズタズタにばらされ、仕事に喜びを感じられなく変質したことも無視できない。

 入学から卒業までの少年/少女の成長の全過程は、今や教師の労働の中にはない。恣意的に切断された部分だけをあてがわれて、他人の決定や意志で動く。自分の授業はもとよりテスト問題も裁量することは出来ない。創造の喜びはない。かつては草の根インテリとも呼ばれた教師には、耐えがたい苦役である。

 教育労働の分業化がまだ進まず、職員会議の民主的討議決定が保証されていた頃、僕は真夜中に生徒や保護者にたたき起こされ遠方に駆けつけていたが、若かったせいもあって疲れは溜まらなかった。

 泊まりがけの山行や合宿も、全過程が見え決定が任されているとき、疲れはいつの間にかほぐれていた。日々の実践が教育的作品として出現する喜びは何物にも代え難かった。

 今、生活指導や進路指導の主任教諭になってしまえば、移動しても別の分掌には就けない。それを専門性が生かせると強弁する者もある。愚かである、我々の労働対象である少年/少女は分割出来ないのだから。こうして、教育の非人格化は極まりつつあるのだ。教師は、今や自己を労働者として組織化することも出来ないのだ。政権や財界の狙いはここにある。その為に教育そのものが解体されることなど、彼らにはもの数ではないのだ。

 僕は『二十四の瞳』に授業の場面が無いのが不満である。式や行事だらけである。日本人の学校の記憶に授業が無いのはいいことだろうか。

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