アフガン和平は、非武装のみが実現する |
向こう側に、生の体を入れてしまう。そういうことにはかなり度胸が要ります。私もニホンザルに囲まれてどうしようかと思ったことがあります。ニホンザルはイヌと違って三次元で攻めてくるのです。三頭いたらとても対処できません。それで恐怖のどん底に突き落とされるのですが、そこではかえってなせばなるような感じになるのです。メスのゴリラに前後を挟まれて、一頭のメスは私の頭を囓り、もう一頭のメスは私の足を囓って、大怪我をしたことがあります。そのとき、もう抵抗しょうという感じはなくなっていました。しゃあないな、やつらがなすがままに任せておこう、と思うと、恐怖が消えるのです。そうすると、お互いを隔てていた壁がどこかで一か所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界が眺められるようになります。これは体験してみないとわからないことかもしれませんが。
・・・それはまさにコミュニケーションです。そういう感覚を、言葉によるコミュニケーションだけに重きを置くばかりに忘れがちになってしまっているのです。
だからこそ、冷房のなかにいて、それが人間に快適さをもたらすものだとばかり思ってやっていると、人間の身体のフレキシビリティがどこかで崩壊してしまって、逆に不健康になってしまう。人間はつねに外部とコミュニケーションをとっていて、・・・外部を抱え込んでいるわけです。
人間の身体が気づかないうちに腸内細菌が反応しているということもあるわけですし。今西さんが言っていることですが、腸や胃などの管は、外部が人間の体のなかに陥入している状態なのだと。すなわちそこは外部であるということですね。あの時代にそれに気がついているのはすごいと思います。外部が人間の身体と同化しっつやりとりをしているのであって、まさにそういうところでいろいろな
・・・いろいろなつながりを感じながら、そのつながりを網の目の一つとして働いている、頭のなかでは意識できない人間の身体があるのだということです。言葉が通じない動物とどこかで了解しあえる経験をすると、それに気がつかされるのです。
面白いことに、動物園の飼育係はみんなそれに気がついています。ただ、人間は生まれつき言葉を使ってコミュニケーションをするようにできているから、彼らはあえて言葉で語りかけるわけです。もちろんヒツジだろうがゾウだろうが、言葉は聞いていません。・・・
だからこそわかるのです。われわれが言葉でしゃべっているとき、一番嘘偽りのない人間の身体の動きができていて、その体中から発散されるいろいろなタイプのコミュニケーションを、動物たちはそれぞれが持っているコミュニケーション能力で感じ取っているわけです。だから、彼らにはわかるのです。あたかも人間の言葉を聞いているかのように見える。だけど、われわれ自身が彼らのコミュニケーションの仕方を感じ取る能力をどこかへやってしまったから、彼らが言っていることはわからない。こういう事態に今、陥っているのです。つまり、向こう側に行けない。それはやはり対象科学が発達したせいです。つまり、理解ということが、論理的に、あるいは物象・現象として理解できないと、理解にならないという思い込みです。
私がゴリラや自然との付き合いで学んだのは、曖味なものは暖味なままにしておこうということです。・・・つまり、正解を求めないということです。人間の頭で考えた論理的正解を追求しない。それが生き物との付き合いだと思います。他のところで了解しあっているかもしれないし、それに自分は気がついていないだけかもしれない。しかしそこでは身体が反応しあっているから、向こうは了解してくれる。ただ了解点を感知することが重要であって、理解を深めることが重要なのではありません。 (「現代思想」2018年9月号・中沢新一との対談)
教員は、少年時代の記憶を捨ててしまう職業である。わざわざ勿体ないことをするのは、その方が都合がいいからだ。教え方や生活への介入について自分自身が感じた理不尽をありありと思い出したら、今度は自分自身が現在少年たちに加えている理不尽を正当化出来ない。
しかし、少年時代の記憶をとどめる教師は幸福だと思う。山極寿一がゴリラの群れの中に寝転んで経験した「お互いを隔てていた壁がどこかで一か所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界」を見ることが出来るからである。そうであってこそ授業は可能になる。
教師は、その恣意を生徒に「理解」させることを厚かましくも「指導」とよんでいる。その際我々は、成績や校則によって精一杯武装している。生徒の側は非武装である。ゴリラの群れに自然体で寝転んだ山際寿一とは大きく異なっている。
教師が生徒に囲まれて頭や腕を囓られたことがあるか。教室でタバコを吸ったり制服を着なかったりがせいぜいだ。対して少年たちは、生意気と言いがかりをつけられ体罰で殺され、僅かの遅刻で校門に挟まれ殺されているのだ。
山極寿一と同じ立場に立つならば、教師は一切の優位性を捨て,同時に生徒の権利を明示しなければならない。つまり我々教師が先ず、武装を解除して、壁を壊す必要がある。そうして初めて、青少年たちは教師とのあいだの壁を消しコミュニケーション可能な存在として立ち上がってくる。
多くの体罰教師を排出するある体育大学は、教師になる学生に「舐められるな」と訓示し秘訣を伝授すると聞いた。ゴリラの中に入るのに、甲冑で身を固め武器を携帯するようなものだ。
思えば僕の「教育実習」の第一歩は、小中学校の同級生が対象だった。優位性も義務も一切ない。互いに自由勝手で、詰まらなかったり分からなかったりすればそこでお終い。第二歩目は、高校や大学で教室を巡ってのアジテーションであった。こちらに優位性の類いは一切ない。授業前の教室でビラを配りながらアジる。最大の課題はベトナム反戦だった。詰まらなければ忽ち怒号が飛び追い出される。アジテーションの意図が伝われば拍手が湧き、入り口で眺めていた教授に「続けたまえ」と言われることもあった。僕の通っていた大学では、セクト間対立は激しく殺人沙汰もあり暴力や脅迫は日常的であった。
だから、荒廃が頂点に達していた時期の工業高校も、紛争中の大学に比べればお花畑であった。
刃物を手にしたヤクザを前にしても不思議に落ち着いていたのには、自分自身も驚いた。そのせいか、「あいつはヒョロヒョロだけど、空手有段者で警察に登録されているらしい」という噂が生徒たちの間に広がったことがある。
少年たちの中で働く者は、山極寿一の方法を学ぶ必要がある。少年もゴリラも尊厳と知性に満ちた存在だ。
紛争の現場に赴く「専門家」は、もっと山極寿一に学ぶ必要がある。非武装だけがコミュニケーションを可能にすることを肝に銘じなければならない。
中村哲医師の手作り水路による灌漑は、アフガン和平を実現出来るのは非武装だけであることを証明して見せた。ノーベル平和賞プラス医学賞の1世紀分に値する壮挙だ。それ以上に、ノーベル財団にとって中村医師に賞を受け取って貰うことは、政治的汚濁に塗れた平和賞を過去の柵みから解放する唯一の方法だと思う。そうでもしなければ、ノーベル賞は戦争政策の現状肯定でしかない。