単一耕作化する教員の知的世界

飢饉は先ず生産地を襲い、飢えた農民は都へ押し寄せた 
 中世日本の飢餓状況を調べると、奇妙な事実に突き当たる。飢餓が、食料生産地であるはずの農村で先行しているのだ。大消費地である都周辺の農村が、都会に住まう貴族や商人たちの必要に合わせて地域ごとに生産物を特化させていたことが判る。そのほうが効率的で儲かるからだ。だが消費地に従属するという致命的危険を抱え込む。漬物用の大根ばかりを作付けしては、米や魚は買わねばならない。大根だけで生き延びるのは難しいからだ。飢餓地獄で生産地の農民が食料を求めて、消費地の都へ押し掛ける奇妙な現象はこうして起こる。単一耕作がもたらした悲劇中の悲劇である。

  「会議をあまり多くの分科会に分散しないよう、くれぐれもご注意いたしたいと存じます。それぞれの専門家にとっては、いうまでもなくその専門事項が一番重要に思れるのですから、他の犠牲にして特にその専門事項を強調し勝ちなものであります。どうもわたくしには、今からしてすでに、あまりにも強いこのような傾向が起りそうであるか、 ないしはそれがもう見られるように思われるのであります。・・・ だがこのような専門家にとってこそ、日頃あまりにもかたよった仕事をしているのですから、こんな機会に全般的研究と自己の専門領域との関係を知ることは特に価値があるわけです。と申しますのは生ある有機体におきましては、個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は殆ど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ているからです
 これはお雇い外国人医師ベルツが、帰国するにあたって
日本医学界で講演した記録からとった。単一耕作的医学研究に苦言を呈している。 

 高校教師も専門教科以外に関心を持つ者は希になった。政治や経済が得意だとしても、物理や人類学にも歴史や哲学にも関心を持たずにはおれないのでなければならない。そうでなければ「現代」も「社会」把握できないし解釈も出来ない。そもそも、我々が働きかける少年たちは「生ある有機体」であって、「個々の部分が相互に不可分に関連している」のである。
 「生ある有機体におきましては、個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は殆ど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ている」 
 かっては昼休みの木陰で専門外の論文を英語で読む教師を見かけた。古い漢文の文献に食い入る教師、絵を描く体育教師、部活の顧問としてではなく個人的にスポーツに励む数学教師・・・。今高校教師は自分の専門分野にさえ時間を割けない。
 昔はどこの学校にも出入りの書店があって、図書館の蔵書や教科書を扱う一方、教師個人の図書購入にも割引サービスを行っていたが、相次いで打ち切り始めた。教師の図書購入が減り始めたからだ。専門書や「世界」などの総合誌・教育誌を注文しなくなった。教師向けの月刊誌も相次いで廃刊するようになった。他方、手軽で軽薄なhow toものの教師向け小冊子がいくつか創刊され、やがてそれも消えた。職員室の机の上には、通達や会議資料を閉じたバインダーと部活や行事のヒント集が並ぶようになった。少年の学ぶ意欲を高める筈の教師が、学ぶ意欲を失い始めたのである。 上昇志向の強い教師の関心は、管理職試験と教職大学院に向かう。そんな風潮に乗って、自らの商品価値を高めるために手軽な単一耕作的教育分野・・・開発教育、キャリア教育、環境教育、法教育、模擬投票、シチズンシップ教育、投資教育、it教育、アクチブラーニング・・・が目まぐるしく勃興した。これら狭い分野の地位「生産性」は高く、原稿の需要もあったからだ。なぜなら、政治権力や経済界との関係は深かった。政治的傾向さえ問題視されなければ、大学に移り易い分野でもあった。しかし権力や業界に迎合する必要がある。それだけの見返りもあった。だが、教師として市民としての自由は放棄せざるを得ない。
 これは所詮教育のプランテーション化であった。メロンやサクランボ専業農家は、都市消費網に組み入れられれ当たれば、膨大な収入が見込める。しかし市場の嗜好を読み間違えれば、積み上がる商品は日を追って腐敗。現金収入が絶たれて、農家であるにも拘わらず食料を手にすることが出来ない。
 自らの専門分野をプランテーション化して、運良く大学に逃げ込むことに成功すれば、たとえば開発教育の専門家やキャリア教育専門家として食える。しかし失敗した者は、高校や小中学校の授業でで一年中それをやるわけにはゆかない。多くの授業は、教科書と指導書に依存した貧相なものとなり、生徒を飽きさせる。ますます、授業と生徒から逃避して、管理職試験に励むことになる。


 キャリア教育、模擬投票、シチズンシップ教育、投資教育、it教育、アクチブラーニング、・・・にはもう一つ大きな陥穽がある。「陳腐化」である、元々深い関心や分析によって湧いて出た分野ではない、思いつきや古い概念の言い換えにすぎない。だから陳腐化は必然、その度に、「専門」を乗り換えねばならないのだ。教育の単一耕作化、これはチャンスではない。知的貧困化の端緒なのだ。


追記 スマートフォンやカメラなどは、その機能が短期間に陳腐化するように設計されている。機能や外観を僅かに変え、あなたの使っている商品は遅れているから買い換えろと誘導する。きちんと設計すれば長持ちし、壊れても部品交換で済むものを計画的に劣化を早め、部品交換がきかないようにして買い換えを煽る。計画的陳腐化という戦略である。フランスなどでは、抗議運動がおき訴訟もあって、企業の戦略としての陳腐化が非難された。我が国では、僅かな機能追加や外観の変化に惑わされて、販売店に行列を作る始末だ。自分が飛びついた専攻分野が陳腐化しても、元が安易だから「先端でない」と言われれば、嬉々として乗り換える。素早く乗り換える自分に安心するのだ。
 

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