戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。
その時、患者の一人が
「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」
と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。
忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎに
治療はなかったが解剖は承諾なしでも行われた |
同じように一家の働き手を徴兵で失った家族には、僅かながら援助があったのを、この元教師は捉えていた。ハンセン病患者は犯罪者ではないにもかかわらず、収入は断たれ家族は路頭に迷うことになった。
「教えたことを裏切らない」誠実性はこういうことである。「重監房」送りになっても不思議ではなかった。(光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。)
この重監房建設には、渋沢栄一の三井報恩会からの寄付があった。繰り返す、渋沢栄一は一万円札に相応しくない。
この若い元教師のその後は分かっていない。