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25年もの間、決して屈しなかった民族解放闘争勝利の瞬間の言葉は
怒りや憎悪が抑制されているが故にカ強く美しく荘厳とさえ言える。
座って顔を上げているのが、ズオン・バン・ミン。
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「私たちはあなた方を待っていました。われわれの全ての権力を譲り渡すために。」
「あなた方はわれわれ解放軍に委譲すべき権力は何も持っていません。すでに南ベトナム全土におけるすべての権力はわれわれの手にあるのです。」
前者はかつての南ベトナム大統領ズオン・バン・ミン、後者は解放軍司令官である。
1975年4月30日、南ベトナム解放軍が、サイゴンに入城した時、新旧勢力の間で取り交わされた会話である。このセリフは、アジア人の誇りと自恃を回復して世界史に残る名言となるだろう。1973年3月29日、米軍が敗退して2年。1950年8月20日、米国がサイゴンに軍事顧問団を送りこんでから25年もの間、この民族は決して屈しなかったのである。
民族解放勝利の瞬間の言葉は、怒りや憎悪が抑制されているが故にカ強く美しく荘厳とさえ言える。
B-52が爆弾を満載して嘉手納から往復するのを許してしまった我々、分けても沖縄の民衆の喜びと感動は、筆舌に尽くせない。
しかし、苦い思い出と重い障害や傷跡に苦しまねばならぬ国もある。先ず米国、この超大国が爆撃、殺戮したのはベトナムだけではない。 そして韓国は、南ベトナムに64年から73年までベトナム中部を中心に延べ32万5517人を派兵。医療部隊から始まったが、猛虎、白馬、青竜と、勇ましい名前の部隊が次々と送られ、アメリカに次ぐ規模。全斗煥、盧泰愚の両元大統領はかつて猛虎師団、白馬師団の指揮官であった。兵士以外にも、軍関係の仕事で出稼ぎした人も少なくないという。
韓国軍は「朝鮮戦争の際に『自由諸国』が韓国に援助してくれた『恩返し』のため」という公的名目を掲げ、米国の「傭兵」として「まじめに」働いた。「「まじめ」に戦い、「まじめ」に殺した韓国軍戦闘部隊は、ベトナムに上陸後、数々の過ちを生んだ。
1966年1月2日小さな村で悲劇は起きた。韓国軍は朝7時頃、フーイエン省ドンホア県ホアヒエップナム社ブンタウ村に奇襲攻撃を仕掛けた。
グエン・ティ・マンさん(68)の証言である。
「あのころ、ブンタウ村の住民は50人余でした。そのうち37人が、あっという間に殺されたのです。男たちは捕まれば殺されると思い、真っ先に村から逃げました。まさか婦女や子供には手を出さないと思っていたら、韓国兵は残っている村人を一カ所に集めて、ひとりずつ撃ち殺していったのです」
ブンタウ村の虐殺は韓国軍が駐留を始めて十日も経っていなかった。
さらに66年5月14日、ブンタウ村西のソムソイ村でも韓国軍による虐殺事件が起きた。当時9歳だったファム・ディン・タオさんは集落から百㍍ほど離れた場所で牛の放牧をしていたときに、虐殺の様子を目の当たりにした。
「午前10時頃のことでした。韓国兵は不意を突いたかのように、あらゆる場所から村に突入しました。陸からはもちろん、ヘリからも。おそらく兵隊は300人以上いたと思います。そのとき、私と父以外のすべての村民42人が殺されました。私の家族や親戚17人も含まれています」
目に大粒の涙を浮かべたタオさん。
「私は突然の出来事に驚いて、畦道を走って逃げました。逃げている時に、畦道で破裂した擲弾銃の破片を顔や足に被弾しました。そのショックで意識を失ったのです。気が付くと、村の近くの病院で韓国軍に拘束されていました」
意識が戻ったタオさんに対して韓国軍の通訳が「共産党の基地を教えろ」と何度も尋問する。しかし、タオさんは「子供だから知らない」と言い張ったという。
「当時、子供ながらに韓国軍がソムソイ村でしたことを許せませんでした。釈放された数年後、私は韓国兵を皆殺しにしてやろうと思い、南ベトナム解放民族戦線の少年遊撃兵になりました。でも、その後しばらくして米軍に捕まりました。この顔の傷は韓国兵が発射した擲弾銃の破片の傷と、米軍に捕らわれたときの拷問でできた傷。つまり、生涯背負わなければならない『恨み』の傷です」
フーイエン省では韓国軍による虐殺地域が省内のあちこちに点在している。2年にわたる聞き取り調査で「フーイエン省の歴史書」を編纂したフーイエン新聞のファン・タン・ビン編集長の証言
「韓国軍は66年から68年にかけて、北はビンディン省境にあるクーモン峠から南のカー峠の海側全域に駐留し、フーイエン省の至るところで1563人を虐殺しました。そのほとんどが婦女や子供、老人などの罪もない民間人です」
「虐殺をした村での韓国軍の行動は、とても正気の沙汰とは思えません。婦女を輪姦し、乳房をナイフで切ったあと、女性器を銃剣でかき回し、殺害した。乳児の足を持ち、カエルの股裂きのように裂いた。一人の韓国兵が持つ銃剣に、輪投げのように子供を投げ落として殺害したなど、耳を疑うような証言をいくつも聞きました」
「百人のベトコンを逃がしても一人の民間人を保護せよ」。ベトナム戦争中、初代駐越韓国軍最高司令官は「至上命令」を出し、看板もあちこちに立てられたが、命令に従った韓国兵は、ごくわずかだった。
韓国軍はフーイエン省の北に接するビンディン省でも虐殺を行った。66年2月から3月にかけて起きた、ビンディン省タイソン県の韓国軍によるベトナム最大の虐殺事件。村全体で1925戸の住宅が破壊され、1004人の命が奪われた。中でも3月17日の「ゴザイの虐殺」は凄まじい。わずか2時間足らずで集落の住民380人を虐殺した。
現在、ビンアン社にある韓国軍による虐殺慰霊廟の片隅に、「ゴザイの虐殺」慰霊碑がある。
ゴザイ集落で、腕や足に銃弾や手榴弾の破片の傷を負いながらも奇跡的に命を取り留めたグエン・タン・ランさんが、当時の様子を語っている。
「百人以上の韓国兵が村に押し入ってきたのは、朝食を取ろうとしている時だったと記憶しています。各家から引きずり出された村人は一カ所に集められました。そして、村人の中から年ごろの娘を見つけた韓国兵が、娘の長い髪を引っ張って集団から引き離し、皆の目の前で輪姦を始めたのです。数人の兵士が順に事を済ませると、娘は容赦なく撃ち殺されました。その惨劇を見て発狂した村人らが韓国兵に襲い掛かろうとすると、次々に撃ち殺されていきました」
韓国軍による無差別殺戮はこれらにとどまらない。クアンガイ省のソンティン県などや、クアンナム省フォンニャット村・フォンニ村、ハミ村など、さらにカインホア省やダクラク省、ニントゥアン省でも無抵抗の民間人虐殺があった。韓国軍による大量虐殺は1万人から3万人にも及ぶ。
亀山 旭「ベトナム戦争―サイゴン・ソウル・東京―」 岩波新書
村山康文 『韓国はベトナムで何を為したのか』 別冊正論23号
北岡俊明・北岡正敏『韓国の大量虐殺事件を告発する ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』展転社 などから引用・参照した。
軍隊による直接の虐殺・虐待ばかりではない。
「ライダイハンのための正義」という団体が 英国にある。「Lai」はベトナム語で「混血」、「Đại Hàn」は大韓。 韓国軍兵士が、13~14歳の少女を含む現地のベトナム女性数千人に性的暴行を加え生まれた混血児を指し、5000~3万人に上る。韓国軍兵士の性的暴行に遭った女性たちの過酷な人生を、訴え告発している。2001年には当時の金大中大統領がベトナムを訪れ、謝罪し、補償を約束したが、賠償はほとんど行われていない。
「『恩返し』のため」「まじめに」働いた結果が、こうであることに学ばねばならない。
「アジア解放のため」「まじめに」闘っていたつもりの大日本帝国「皇」軍には、パタナリズムという驕りがあった。アジアの「兄」として遅れた国々を指導する「天命」を背負ったつもりになった。結果2000万人にも及ぶ虐殺・略奪・強姦・破壊を繰り返したのである。
日本がベトナムに派兵しなかったのは、西ドイツのように理性的判断に基づいて米国の要請を病院船の派遣に読み替えたからではない。←クリック 憲法が戦争を禁じていたからである。
もし、日本がベトナムに戦力介入していたら、トヨタもホンダもパナソニックも今のようには売れないだろう。特にアジア・アフリカ・中南米には。