部活依存症に、社会は何故鈍感なのか

依存症は「意志をつぶす病気」
  丁髷や刀なしでは不安で、戦闘がなければ禁断症状に悩まされるならば、精神病を疑う。しかしほんの僅か昔、それは社会的習慣であり義務でもあった。賞賛の対象でさえあった。部活は青春の「健康な風俗」と信じられ、その熱意は入学や就職の得点でさえある。依存であるなどといえば、目を剥かれかねない。

 依存症は、1 物質に対する依存症 アルコール依存症、など / 2 行為に対する依存症 買い物依存症、ギャンブル依存症、など / 3 人間関係に対する依存症(共依存)恋愛依存、などの三類型がある。
 部活中毒を、集団的依存および共依存と見為してみる。まず、コントロール出来ないということ、進行すること。暴力を伴うようになること。本人たちに依存であることの自覚がないこと。異なるのは、社会的に非難されず賞賛されてしまうこと。仕事依存も仕事熱心と誤認される。
 「真面目にやって何が悪い」と特に教員はいいたがる、それこそ依存。部活動に中毒した親や生徒に、部活を「たかが遊び」と言うと血相を変える。スポーツはplayするものではなく、神聖な仕事になっている。
    依存症の特徴は6つ。
 「1、ある物質や行動への渇望。2、渇望する物質の摂取や行動の制御困難。3、離脱症状。4、耐性(物質の摂取量が増加する、行動が頻繁になる)。5、渇望する物質の摂取や行動以外に対する関心の低下。6、渇望する物質や行動に起因する障害があるにもかかわらず、摂取や行動を継続する」部活に読み替えても全部当てはまる。
 依存症総数は推計値で、アルコール依存症約230万人、ギャンブル依存症560万人、など、3000万人。日本では依存と熱心が区別出来ず、依存症に陥り蔓延しやすい。
 依存性の強いものは、制約するのが国際的な合意。にもかかわらず、東京や大阪にカジノをという。ギャンブル依存症患者と家族の屍の山を、ファンドのために築いて恥じないのだ。
 マスコミや自治体・企業・政府までもが依存症ビジネスに依存する有様。非正規労働化による低所得は消費を押さえ、しかし依存症患者のお陰で、莫大な消費が家族を犠牲にして確保される。パチンコ1人当たりの消費額は年間160万円。日本のネット企業では、客を依存症状態にすることが成功モデルの特徴だという(海外の場合は、広告収入が主流)
 依存で儲ける(依存に依存する)ビジネスモデルでは、1人を嵌めれば年間100万円は売り上げが立つという、カモを釣るために広告を打つ。おかげで日本の町並みは、異常に乱雑で汚い、くさい。街頭も売り込み宣伝で喧しい。
 健全な消費に支えられる会社は、売り上げが減り広告も減る。メディアの広告は、依存症誘発型になり、それがさらに依存症消費を増やすという悪循環。依存症社会が形成される。
 予備校教師までか「いつやる、今しかないでしょう」と悪乗りするから電通に引き出されTVに出る。「じっくり考えよう」では電通のお気に入りにはなれない。
 更に厄介は、我が社会は依存症を意志の問題だと思い、意志さえ強ければ覚せい剤もやめられると夢想、覚せい剤タレントを「意志の弱い人間」として断罪排除する。煙草も意志だけではやめられない。禁煙外来のお陰で禁煙の成功者が増える。
 依存症は「意志をつぶす病気」、「自然治癒しない進行性の病気」という医者もいる。
 アルコール依存症の場合は、以下7項目中三つ当てはまれば依存症との診断を受ける。
(1)前よりたくさん飲まないと酔えない(2)やめると不快感がある(3)前より酒量が増えた(4)やめようと思ってもやめられないことがある(5)飲む時間や酒を得る時間が長い(6)酒で仕事やつき合いの時間が減る(7)問題が起こってもやめられない。
 これを部活に読み替えれば、すべて該当する。大いに危険だと思う。休肝日は、アルコール依存症の予防にも必要だと言う。クラブも週三日で十分、それで弱くなるという根拠はないにも係わらず、減らせないのは依存症にかかった証拠だろう。定期試験でクラブ活動禁止になると、落ち着かなくなり用もないのに集まる。それを見て顧問は結束が高いと喜ぶのだ。禁断症状である。
  際限ない格差拡大で消費は絶対的に低下する、それを暴力的に貧者から再収奪して補うのがカジノ構想であり、パチンコ等のギャンブル依存放置政策である。部活にも資本の魔手が延びている。今は学校が代行して教師と教育を殺しているが、既においしい部分は企業が効率的に剥ぎ取っている。高校野球もオリンピックもその粗暴な手口である。

 政治的思想的に「アカ」くなるより、依存が望ましいとの倒錯した立場もある。しかしそれが「公」的学校の価値観であってはならない。

ハンセン病治療史への疑問・不満


 
小笠原登博士
大学からの報酬の殆ど全ては、患者の薬代や
診療室の運営に消えていた。
回春病院開院より前は、明治二十二年静岡県御殿場にフランス人宣教師テスト・ヴィドによって神山復生院が設立されていたにすぎない。そしてこの時期を境として東京目里に慰廃園、能本に待労院、山梨に身延深敬園などの私設療養所があいついで設立され、明治四十年にはわが国ではじめて癩予防法が制定され、四十二年には全国五カ所に公立療養所が設置されて救癩事業ははじめてその緒についたのである」 宮本常一や山本周五郎ら監修による『日本残酷物語Ⅰ』平凡社刊の、ハンセン病治療の起源に関する記述である。

   尾張の円周寺住職・小笠原啓実によるハンセン病治療は、幕末に既に始まっていた。漢方医後藤昌文による日本初のハンセン病専門病院起廃院は、明治八年(1875年)設立である。
 (養育院は明治五年開設、渋沢栄一が院長になったのは明治七年、光田健輔赴任は明治三十一年) 何故日本のハンセン病史は、外国人宣教師の献身から書き始められるのであろうか。小笠原啓実から後藤昌直に連なる史実を無視するのであろうか。そればかりではない、東大病院で一般皮膚科患者と区別することなくハンセン病の入院治療を行った、ベルツの役割についても触れない。
 『倶会一処』でさえ、大熊重信の「日本国民は、馬関砲撃によって永の眠りから覚め、明治維新を成就したが、救癩事業はミス・リデルによって先鞭をつけられるであろう」との発言を引用している。漢方医たちが隔離を退けていたのに対し、宣教師たちは隔離に親和的であったこと、即ち政府の方針に沿うていたことが大きいだろう。この歴史の偽造・健忘はどのように進んだのか。この点についての考察研究はない。
  
 「愛知県円周寺住職小笠原啓実は漢方医でもあり、募未から明治初頭にかけてハンセン病医として名高かった。隔離政策に反対した京大病院の小笠原登博士はその孫にあたる。博士は祖父からハンセン病が怖いものではなく治癒するという確信を受け継いだ。
 大学東校(後の東大医学部)の漢方医後藤昌文も、ハンセン病の診療を行っていた。1872年には新宿に癩病室を設立、治療に専念するやたちまち手狭になり、1875年神田に起廃院を開院。東京府知事から治療研究を委託され、一時は公費で治療した。服薬、滋養物の摂取、薬湯への入浴等を用いた治療と衣服の洗濯、掃除、換気を督励。
 完治した患者もあって評判は高く、遠くヨーロッパから治療を受けに来るほどであった。
 1881年にはハワイ国王が訪問、息子の後藤昌直がハワイ政府の招きで診察治療にあたっている。後藤昌文は施療と同時に、『癩病考』『難病自療』などの著作や講演で治癒する病気であることを啓蒙。貧しい患者には無料で治療を施し、全国五箇所の分院を開設、門下生の指導を行うなど哺広い活動に従事した。
 後藤昌直の治療を受けたダミアン神父(ハワイのモロカイ島において、ハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げた。カトリック教会の聖人)は、彼を深く信頼して、「私は欧米の医師を全く信用していない。後藤医師に治療して貰いたいのだ」との言葉を残している。
 後藤昌文はハンセン病の伝染説に懐疑的であって、伝染説の強制隔離主義者が治療を諦めていたのとは対照的な働きをした。キリスト教関係者による施設は、1889年以降である
  拙著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

追記 絶滅隔離に尽力した小川正子の映画は作られ、日本国民の涙を誘ったのに、後藤昌文や小笠原登の映画は企画されたこともない。絶対隔離の発案者光田健輔には文化勲章が贈られたが、小笠原博士はらい事業功労者として表彰されただけである。僕は日本人の涙と感動の構図を疑うのである。

CUBA革命勝利翌年1960.8.19. ゲバラ演説 於・公衆衛生省研修所

ただ一人の命のほうが、
世界でもっとも富裕な人間の全財産の何百万倍も価値がある
 「・・・つい数カ月前に、ここハバナで起きたことだが、医師免許とりたての学生のグループが田舎に行きたがらず、行くなら特別手当が欲しいと要求した。これまでのものの見方から考えれば、こういうことが起きるのはごく当たり前のことだった。少なくとも私にはもっともなことと思えるし、気持ちはよく分かる。
 単純に、ほんの数年前の自分の姿や自分の考えていたことを思い出しているような気分だったのだ。・・・
 だが、・・・もしもこれが、たとえば手品で大学の講義室に突然現れた200人、300人の農民だったら、何が起きただろう?
 疑問の余地もないことだが、その農民たちはすぐさま喜び勇んで駆けだしていき、自分の兄弟姉妹たちを救いに行くだろう。彼らなら、一番責任の重い、一番大変な仕事をさせてくれと言い、学業に費やした年月が無駄ではなかったということを証明してくれるだろう。このようなことは、今後6、7年の問に、実際に起こるようになるはずだ。そのころには労働者階級や農民の子どもから成る新しい学生たちが、さまざまな種類の学位を取るようになるからだ。
・・・
 われわれは、シェラ・マエストラに陣をはり、農民や労働者とともに生活しながら彼らを尊敬することを学んだが、そのわれわれの誰一人として、労働者や農民として働いた過去をもつ者はいなかった。もちろん、働かなければならなかった者はいた。子ども時代に多少の貧乏を経験した者もいた。だが飢え、本物の飢えと呼べるものだけは、われわれの誰も知らなかった。
 そして、シェラ・マエストラで過ごした長い二年間のうちに、だんだんとそれを知るようになる。すると、多くのことが実に明白になってきたのだ。
 われわれは当初、金持ちの農民や地主の持ち物であったとしても、それに少しでも手をつける者を厳罰に処していたが、ある日一万頭の牛をシェラに運んでいって、農民たちに「食べなさい」とだけ言った。農民たちは、数年ぶりに、あるいは生まれて初めて、牛肉を口にしたのだった。
 だが、そんな一万頭の牛を持っているということが文句なしに素晴らしいことだと思っていたわれわれも、武装闘争を続けるうちにその価値観を失っていった。ただ一人の命のほうが、世界でもっとも富裕な人間の全財産の何百万倍も価値があると、完壁に理解したのだ。労働者階級の子どもでもなければ、農民の子どもでもなかったわれわれが、そこでそのことを学んだのだ。・・・誰もが学ぶことができかのだ。しかも革命は今日、学ぶことを求めている。同胞のために働いているのだという自負は、よい給料をもらうことよりもずっと大事なのだということを、人に感謝されることは、どんなに貯めこんだ金塊よりも確かで、永遠に続くものなのだということを、しっかり理解することを求めている。そして、医師ひとりひとりは、自分の仕事を通じて、人びとからの感謝という貴重な宝物を積み卜げていくことができるし、それが義務なのだ。
 こうしてわれわれは、古い考え方を消し去り、批判精神をもってますます人民に接するようにしなければならない。今までのようなやり方ではいけない。
 君たちは誰もが言うだろう。「いいや、私は人民の友だ。労働着や農民と話すのは大好きだし、日曜日ごとに、そのために、どこそこへ行ったりどれそれを見たりするのだ」と。 そんなことは誰もがやってきたことだ。だが慈善としてやってきたのであって、今日われわれが実践すべきことは、連帯なのだ。「ほら、来ましたよ。慈善を施すために来てあげましたよ。学問を教え、あなた方の間違いや教養のなさや基礎知識のなさを直してあげるために来たのですよ」などという態度で、人民に接するべきではない。
 人民といぅ、巨大な知恵の泉から学ぶために、研究心と謙虚な態度をもって、向かうべきなのだ。
 慣れ親しんできた考え方がいかに間違っていたか、気づかされることがよくある。そういう考え方はわれわれの一部になってしまっていて、自動的に、われわれの知識の中に組み込まれてしまっている。
・・・われわれがまずやらなければならないことは、知識を与えに行くことではない。人民とともに学び、新しいキューバを建設するという、偉大で素晴らしい共通体験をしたいという気持ちを示すことである。

 すでにかなりの進歩が遂げられてきている。あの1959.1.1(キューバ革命勝利の目)と今日との間には、古い尺度では測ることができない距離がある。人民の大多数は、ここでは独裁者だけでなく一つの制度自体が崩壊したのだということを、ずっと以前に理解した。こんどは、崩壊した制度の廃墟の上に、人民の完全な幸福をもたらす新しい制度を築かなければならない、ということを学ぶ段階に来ている。
 ・・・ 
 われわれの目標とは何か? 何を望むのか? 人民の幸福を望んでいるのではないか? キューバ経済の完全な解放のために戦っているのではないか? いかなる軍事ブロックにも属さず、ここキューバで採用する内的・外的な手段を決定するときに地球上のどんな大国の大使館にもお伺い空止てる必要がない、もっとも自由な国になるために戦っているのではないか? あまりにも持ちすぎている者の富を再分配し、無一物の人に与えようと考えているのではないか?。ここで創造的な仕事に取り組むことを、日々喜びを生み続ける原動力にしたいと思っているのであれば、われわれにはすでに拠って立つ目標があるということだ。・・・

   われわれは皆、隠れた危険が潜んでいることを知っていてもなお、いまだ周辺に存在している侵略を跳ね返す備えをしていてもなお、そればかりを考えることはすべきではない。なぜなら、戦争に備えることを努力の中心に据えてしまったら、われわれが望むものを建設することは不可能だし、創造的な仕事に集中することができないからである。戦争に備えるための仕事や、そのために投資される資本はすべて、無駄な仕事であり、捨て銭だ。戦争に備える者たちがいるばっかりに、ばかばかしいことにわれわれもそうせざるを得ないのだが、私の誠心誠意と、兵士としての自負を込めて言うが国立銀行の金庫から出て行くお金で一番わびしく思えるのは、破壊兵器を購入するために支払われるお金である」                                    エルネスト・チェ・ゲバラ『モーターサイクル南米旅行日記』現代企画室

私ひねくれたい、でもどうしても出来ない

裕福な人が戦争を起こし、貧乏な人が戦争で死ぬ
J・P・サルトル
  サルトルは知識人を「世の中の現状に異議を差し出すもの」と定義した。異議は大衆の面前で表明されなければならない。仲間内や日記では、異議は権力に達しないからである。
 その「異議を差し出す」ことを、「ひねくれる」と言い表した生徒があった。
 ある休み時間、廊下で二人が唐突に走り寄って来て「先生の話を聞きたい、行ってもいいですか」と言う。でも何故なのか。「僕はただのひねくれ者かも知れないよ。後悔するかも知れないぞ」といえば「それそれです、私ひねくれたいんです、でもどうしても出来ない。ひねくれられる人が羨ましい」という。それから、よくやってきた。目上の人に忖度する自分自身に、愛想が尽きるのだという。今度こそは、反論してやろうと何日も考えたのに、土壇場でいい子になる情けなさ。異議を申し立てることの難しさ。異議申し立てを躊躇する自分は正しいのか間違っているのか、だとすればその根拠は何か・・・。
 彼女たちは忖度が、常に力ある者に向けられていることに気味悪さを感じていた。生徒が教師に対して、校長が教委に対して行うのが忖度。教師が物言えぬ生徒のために忖度することはない。
 ふた昔前までの高校二年生は、多かれ少なかれこういう時期であった。それが灰色の青春の一断面。だからこそ高二に「倫理」を配置する必然性があった。未来への不安と不満を二年生のもやもやが、社会と人間への理性的認識へと繋いでいた。それが既成概念を打ち破ると言うことだ。しかし不安は余りに重く、不満は具体的で余りに軽く、バランスを失ってしまう。いつの間にか高校生は、部活にアルバイトに自由を拘束されながら孤立するようになる。拘束されながらそれを自由と思いこむ。忖度的振る舞いから自らを解放するきっかけを掴めない。身の回り全てが固くつるつるして余所余所しい。小論文の中身や面接で言うべきこと、頭の下げ方ドアの開け方まで指示されて「いい子」になる。ひねくれることは、忖度し続ける「いい子」にとって自分らしく生きる最後の拠り所希望である。その拠り所を、あたかも商品の欠陥であるかのように修正剥奪して「指導」と言う。
 かつて、生徒・学生にとって「学問」が自分らしい生き方の唯一残された拠り所であった。真理だけは、誰をも裏切らない。ハンセン病療養所全生園の冬敏之少年にとっては理科の実験であり、ラッセルにとっては数学であった。
 だが今や似非「学問」を拠り所にして、権力に忖度するのである、原子力業界のように。新聞もTVも忖度の最前線。忖度を、思いやり、おもてなしなどという始末、力と金のある者にだけ関心が向けられる欺瞞。 高二の時期が、忖度する自分と縁を切る最後の機会。それ以降は鬱を発症するほど辛い。若者の自殺だけが増えている。

  先進国の「自殺率」(人口10万人あたりの自殺数)と「事故」の割合は、「2017年版 自殺対策白書」によれば
           自殺  事故
日本    17.8 :  6.9
フランス  8.3 :12.7
カナダ   11.3 :20.4
米国    13.3 :35.1
 主要国の同年代の若者の場合は、事故死のほうが圧倒的に多い、日本の若者の自殺率の高さは突出している。日本の若者の自殺率は、この20年間でトップにのしあがった。欧米諸国は減少傾向にあるのに対し、日本はその逆だからだ。
  この深刻な状況に対して政府の対策は、またもや相談窓口だ。この情けない見当違いが、更に若者の絶望を深める。

パリをゆるがした30万人の高校生・ブラック校則と闘うために 4

 承前                        拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・加筆再構成


フランスのデモは、350万人を結集させることがある。
これは高校生である、大学生ではない。
 「校舎の改善、警備員、教師の増員などを求め、フランス各地でデモを続けた高校生たちは12日午後、パリに集まり、約30万人が市内をデモ行進した。全国高校生調整委員会や、反民族差別組織などが呼びかけたもので、学生の代表が、ミッテラン大統領、ジヨスパン教育相らに会う予定だ。デモがスタートするバスチーユ広場には、この日の正午過ぎから続々と高校生が集まった。国鉄は地方の参加者に特別列車や最大7割の割引切符を出した。教師の組合や父母会をはじめ、警察官の組合も支持を表明した。警察は過激派鎮圧部隊をふくむ5000人を動員した。
 学生たちの要求は、プレハブ校舎廃止、図書室、自習室、保健室などの設置、安全基準の確保と設備改善、1クラス25人学級を守るための警備員、職員、教師の採用を1年以内実施や、集会や表現の自由、ストライキ権、学生集会室の確保など」(1990年11月13日付の朝日新聞)

  勉強させろ
 フランスではEC統合に向け企業競争力優先政策がとられ、青年の失業が増大していた。1990年度の教育予算は1983年度比で25%もの減少、にもかかわらず、1960年には40万人だった高校生は1990年に128万人に増加、移民の子どもなど条件に恵まれない学生も増え、教育条件は急速に悪化した。そのため、3年生まで進級できる高校生は6割にすぎず、バカロレアに現役合格できるのは3年生の半数、卒業までに学校を去る中退者は入学者の三分の一にも達していた。
 パリ郊外では定員1600人の校舎に2300人が詰めこまれ、学級に37~40人がひしめき、暖房はきかず、天井からは水が漏れるありさまだったという。
 
 発端
 こうした状況に最初の抗議を、デモとストライキの形であらわしたのは、パリの南西、サルト県、ル・マン市の高校生たちである。1990年9月、市内の高校生は、市・県・文部省に、教員増、クラス定員減、学校設備改善の要求をまとめ提出し、動きはたちまちサルト県全体に拡大、10月末にはフランス各地で連日、高校生はストに入りデモで街にくり出した。この運動の中で高校生たちは、教員組合や父母、労組、政党の支持をうけただけでなく、高校生の全国的組織をもつくりあげ、共同行動を積み上げていった。
 政府は事態を重視、文部大臣・首相が高校生代表と会見したが決裂、11月12日予定されていた国会での教育予算討議に向けて、高校生組織は、さらに大きな共闘を組み「教育のための全国大行進」を12日実現させた。冒頭の記事は、この12日の集会を報じたものである。この日、パリの大集会と同時に、地方でも高校生20万人が行動に参加した。高校生たちは、横断幕に「ジョスパン、僕らに試験をうけさせろ」「軍事費より教育予算」などのスローガンを書いて整然とデモ行進した。

  大統領と会見
 高校生たちは代表20人を、首相府に送りこみ、首相府は代表を正式に警察の車で大統領府に送り、ミッテラン大統領との会見が実現した。報道によれば、この日のデモ参加者の一部が、車に放火、商店のショーウインドを破り略奪にはしったという。日本でもこの場面だけは、派手にテレビニュースが扱った。ミッテラン大統領のこの件に対する姿勢はきわめて明噺なものであった。暴動や略奪はきわめて遺憾であるが、そのことと、高校生の要求の正当性は別というものであった。
 大統領はこの日、高校生代表に対し、要求を受けいれ、必要な措置を政府に命ずると明言したが、政府と高校生の交渉は、具体策をめぐりさらに数日を要した。この間も、高校生たちの座りこみなどのデモンストレーションは、継続された。
 高校生たちの要求は、3点あった。第一は、プレハブ校舎の解消、図書室・医務室など諸設備の設置・更新、教職員の増員などの緊急計画と、学級定員25名、4万人の教員増、高校入学定員15%増実現のための財政計画。
 第二は、表現、結社、集会、ストライキの権利の承認、高校生自治の強化、高校生の自治・文化活動のための教育会館設置。
 第三は、カリキュラム負担の軽減および教育課程全国評議会への参加であった。
 このための財源は、湾岸戦争のための100億フラン、核軍拡のための500億フランがあることも高校生代表は指摘している。

  要求をかちとる
 たった3ヶ月で、国家行政の最高責任者との交渉を実現させて、文部大臣との数回にわたる交渉の結果・獲得した成果は以下のとおりである。
 第一の要求に対しては、高校生との連絡のもとに行動する緊急計画責任者を任命し、40億フランを投入し、プレハブ校舎解消等を実現する。職業高校のクラス定員25名、その他の高校で30名を実現する。
 第二の要求については、政令により、高校生の表現・集会の権利等を承認し、高校生が管理する高校生の家をつくる。
 第三の要求に対しては、日本の中央教育審議会にあたる教育高等評議会に、高校生3名の参加が認められた。

 中教審にも臨教審にも、代表としての教員の参加さえ認めない国日本から見ると、フランスの高校生の得たものは、まさにはかり知れないものがある。ここでは高校生は、教育権の客体ではなく、主体である。
日本では大学生すら、大学という施設の単なる利用者にすぎない。
 いくら当局が学生のためにと言いながら立派な校舎、設備を準備しても、そこには学生の決定権は存在しない。
 フランスにおいては、高校生は高校の最高議決機関である管理評議会に代表を送り、教育高等評議会に代表を送るだけではなく、緊急計画においては、その執行に欠かせない存在とまでなっている。
 フランスの高校の動きは、ただちにイタリアにも伝わっている。
 パリで30万人がデモをくりひろげた日の翌日13日には、ミラノで約1万人が、15日にはローマで約1万5千人が、フランスの高校生運動代表の参加のもと、われわれもパリのようにと中学生・高校生がデモに参加、その後もジェノバ、ナポリと動きは広がっていった。

  この一連の授業が終わって、数人の二年生に呼び止められ教室で話した。   

S1 どうして、そうなんだろうね。
S2 だって、日本の学校はフランスに比べれば恵まれてるよ。だから日本の高校生がフランスの高校生のようにはならない。
S1 そういうことじゃないと思うよ。うらやましいよね、自分たちの問題を自分たちの手で解決するってさ、政府まで引っ張り出すんだもん。
S3 人まかせにしたり、人のせいにしてあばれたりしないで今おこってることは何かって考えて、解決へ動いて、学校や政府の責任も追求する。解決に必要なものは何か、考えて要求をまとめる。教育権の主体ってそういうことでしょ先生。
T そうだ、何が必要か、問題か、自ら判断し、決定し、行動する。つまり、政策をつくり実施する能力、これは主権者には欠くことができない。フランスの高校生はそれをした。誰かが、いいものをくれたり、解決したりを待つのは、客体としてしか存在していないことになる。
S2 誰かがやってくれる方が楽でいい。
S1 その誰かが間違ったり、失敗したらどうするの。
S2 人のせいにできる。
S3 だからさ、日本の受験地獄がなくならないのじゃない。
S1 そうだよ。誰かがやってくれるっていったって、その人はもう受験で苦しんでないでしょ、受験競争のおかげで出世している人かもしれない。そんな人がまじめに受験地獄をなくそうって思う?
S3 日本の学校はフランスに比べれば恵まれてるって言ってたけど、フランスでは高校入試も大学入試もないし、学費はかからない。そういうこと ←クリック を新聞は書かないんだよ。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...