ハンセン病治療史への疑問・不満


 
小笠原登博士
大学からの報酬の殆ど全ては、患者の薬代や
診療室の運営に消えていた。
回春病院開院より前は、明治二十二年静岡県御殿場にフランス人宣教師テスト・ヴィドによって神山復生院が設立されていたにすぎない。そしてこの時期を境として東京目里に慰廃園、能本に待労院、山梨に身延深敬園などの私設療養所があいついで設立され、明治四十年にはわが国ではじめて癩予防法が制定され、四十二年には全国五カ所に公立療養所が設置されて救癩事業ははじめてその緒についたのである」 宮本常一や山本周五郎ら監修による『日本残酷物語Ⅰ』平凡社刊の、ハンセン病治療の起源に関する記述である。

   尾張の円周寺住職・小笠原啓実によるハンセン病治療は、幕末に既に始まっていた。漢方医後藤昌文による日本初のハンセン病専門病院起廃院は、明治八年(1875年)設立である。
 (養育院は明治五年開設、渋沢栄一が院長になったのは明治七年、光田健輔赴任は明治三十一年) 何故日本のハンセン病史は、外国人宣教師の献身から書き始められるのであろうか。小笠原啓実から後藤昌直に連なる史実を無視するのであろうか。そればかりではない、東大病院で一般皮膚科患者と区別することなくハンセン病の入院治療を行った、ベルツの役割についても触れない。
 『倶会一処』でさえ、大熊重信の「日本国民は、馬関砲撃によって永の眠りから覚め、明治維新を成就したが、救癩事業はミス・リデルによって先鞭をつけられるであろう」との発言を引用している。漢方医たちが隔離を退けていたのに対し、宣教師たちは隔離に親和的であったこと、即ち政府の方針に沿うていたことが大きいだろう。この歴史の偽造・健忘はどのように進んだのか。この点についての考察研究はない。
  
 「愛知県円周寺住職小笠原啓実は漢方医でもあり、募未から明治初頭にかけてハンセン病医として名高かった。隔離政策に反対した京大病院の小笠原登博士はその孫にあたる。博士は祖父からハンセン病が怖いものではなく治癒するという確信を受け継いだ。
 大学東校(後の東大医学部)の漢方医後藤昌文も、ハンセン病の診療を行っていた。1872年には新宿に癩病室を設立、治療に専念するやたちまち手狭になり、1875年神田に起廃院を開院。東京府知事から治療研究を委託され、一時は公費で治療した。服薬、滋養物の摂取、薬湯への入浴等を用いた治療と衣服の洗濯、掃除、換気を督励。
 完治した患者もあって評判は高く、遠くヨーロッパから治療を受けに来るほどであった。
 1881年にはハワイ国王が訪問、息子の後藤昌直がハワイ政府の招きで診察治療にあたっている。後藤昌文は施療と同時に、『癩病考』『難病自療』などの著作や講演で治癒する病気であることを啓蒙。貧しい患者には無料で治療を施し、全国五箇所の分院を開設、門下生の指導を行うなど哺広い活動に従事した。
 後藤昌直の治療を受けたダミアン神父(ハワイのモロカイ島において、ハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げた。カトリック教会の聖人)は、彼を深く信頼して、「私は欧米の医師を全く信用していない。後藤医師に治療して貰いたいのだ」との言葉を残している。
 後藤昌文はハンセン病の伝染説に懐疑的であって、伝染説の強制隔離主義者が治療を諦めていたのとは対照的な働きをした。キリスト教関係者による施設は、1889年以降である
  拙著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

追記 絶滅隔離に尽力した小川正子の映画は作られ、日本国民の涙を誘ったのに、後藤昌文や小笠原登の映画は企画されたこともない。絶対隔離の発案者光田健輔には文化勲章が贈られたが、小笠原博士はらい事業功労者として表彰されただけである。僕は日本人の涙と感動の構図を疑うのである。

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