私ひねくれたい、でもどうしても出来ない

裕福な人が戦争を起こし、貧乏な人が戦争で死ぬ
J・P・サルトル
  サルトルは知識人を「世の中の現状に異議を差し出すもの」と定義した。異議は大衆の面前で表明されなければならない。仲間内や日記では、異議は権力に達しないからである。
 その「異議を差し出す」ことを、「ひねくれる」と言い表した生徒があった。
 ある休み時間、廊下で二人が唐突に走り寄って来て「先生の話を聞きたい、行ってもいいですか」と言う。でも何故なのか。「僕はただのひねくれ者かも知れないよ。後悔するかも知れないぞ」といえば「それそれです、私ひねくれたいんです、でもどうしても出来ない。ひねくれられる人が羨ましい」という。それから、よくやってきた。目上の人に忖度する自分自身に、愛想が尽きるのだという。今度こそは、反論してやろうと何日も考えたのに、土壇場でいい子になる情けなさ。異議を申し立てることの難しさ。異議申し立てを躊躇する自分は正しいのか間違っているのか、だとすればその根拠は何か・・・。
 彼女たちは忖度が、常に力ある者に向けられていることに気味悪さを感じていた。生徒が教師に対して、校長が教委に対して行うのが忖度。教師が物言えぬ生徒のために忖度することはない。
 ふた昔前までの高校二年生は、多かれ少なかれこういう時期であった。それが灰色の青春の一断面。だからこそ高二に「倫理」を配置する必然性があった。未来への不安と不満を二年生のもやもやが、社会と人間への理性的認識へと繋いでいた。それが既成概念を打ち破ると言うことだ。しかし不安は余りに重く、不満は具体的で余りに軽く、バランスを失ってしまう。いつの間にか高校生は、部活にアルバイトに自由を拘束されながら孤立するようになる。拘束されながらそれを自由と思いこむ。忖度的振る舞いから自らを解放するきっかけを掴めない。身の回り全てが固くつるつるして余所余所しい。小論文の中身や面接で言うべきこと、頭の下げ方ドアの開け方まで指示されて「いい子」になる。ひねくれることは、忖度し続ける「いい子」にとって自分らしく生きる最後の拠り所希望である。その拠り所を、あたかも商品の欠陥であるかのように修正剥奪して「指導」と言う。
 かつて、生徒・学生にとって「学問」が自分らしい生き方の唯一残された拠り所であった。真理だけは、誰をも裏切らない。ハンセン病療養所全生園の冬敏之少年にとっては理科の実験であり、ラッセルにとっては数学であった。
 だが今や似非「学問」を拠り所にして、権力に忖度するのである、原子力業界のように。新聞もTVも忖度の最前線。忖度を、思いやり、おもてなしなどという始末、力と金のある者にだけ関心が向けられる欺瞞。 高二の時期が、忖度する自分と縁を切る最後の機会。それ以降は鬱を発症するほど辛い。若者の自殺だけが増えている。

  先進国の「自殺率」(人口10万人あたりの自殺数)と「事故」の割合は、「2017年版 自殺対策白書」によれば
           自殺  事故
日本    17.8 :  6.9
フランス  8.3 :12.7
カナダ   11.3 :20.4
米国    13.3 :35.1
 主要国の同年代の若者の場合は、事故死のほうが圧倒的に多い、日本の若者の自殺率の高さは突出している。日本の若者の自殺率は、この20年間でトップにのしあがった。欧米諸国は減少傾向にあるのに対し、日本はその逆だからだ。
  この深刻な状況に対して政府の対策は、またもや相談窓口だ。この情けない見当違いが、更に若者の絶望を深める。

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