「ユダヤ人が存在しなければ・・・ユダヤ人を発明しなければならなくなるだろう」

  「ユダヤ人を打倒しなければならないと思うかときかれて、ヒットラーはこたえた、「いや、(打倒する対象としてのユダヤ人が存在しなければ)もしそうなればユダヤ人を発明しなければならなくなるだろう。たんに抽象的な敵ではなく、手に触れる敵をもつことが大事である」                 Hermann Rauschning『Hitler speaks』

  「北朝鮮」が打倒されないのは、絶えず更新され続ける「発明」だからである。小泉以降の首相が、就任以前は「拉致問題の即時解決」を雄々しく叫んでいたのに、首相になった途端気付くのである。だが攻撃だけでは、本当に打倒してしまう。肝心なのは、分かりやすく「手に触れる敵を」可能な限り持ち続けることだと。そうでなければ、憲法に違反して戦力を維持出来ない。

  低学力は実在する「脅威」だろうか。僕の経験の全てを以て、そんなものはなかったと言うことが出来る。むしろ「脅威」は、低学力の対極にある。例えば次のような指摘が、度々なされている。

  Nature の最新の分析では、日本の高品質な科学成果発表が引き続き減少している。日本の高品質な科学成果発表は、2012年から2016年の5年間で19.6%減少した、2016年から2017年のこの1年間でここからさらに3.7%減少している。 Nature Indexに収録されている高品質な科学論文に占める日本の割合も、2012年の9.2%から2017年の8.6%に減少。また、エルゼビア社のデータベースに収録されている自然科学分野の全論文に対する日本の高品質論文の割合も、過去10年間で2007年の7.7%から2017年の5.1%に低下している。

 日本経済の「発展」を妨げているのは低学力ではない。政府の学術政策と労働政策であることはハッキリしている。貧困も格差も、「低学力の脅威」によるものではない。政策の貧困が問題なのだ。

 でっち上げられたユダヤ人の脅威だけが、ナチズムを「正当化」していた。もしユダヤ人が絶えてしまえば、ユダヤ人の定義は更新されただろう。実際既に、ナチスの人種イデオロギーは、ロマ族、身体障害者、ポーランド人、ソ連の戦争捕虜、アフリカ系ドイツ人、政治犯、エホバの証人、同性愛者などを「反社会的」存在として、迫害や監禁、絶滅の対象であった。スラブ民族やアジア人も、ドイツ民族の繁栄を妨げる存在と見なされていた。

  成果主義が嘘であることは、二世・三世の議員や財界人の無能堕落ぶりで既にばれている。TVでは親や祖父母の七光りが鬱陶しいまでに演劇や芸能の質を低下させてしまった。プロスポーツだけが「結果を出している」事を根拠に高収入・好待遇を合理化するのに利用される。「高収入は結果を出しているから」だと逆立ちした言い訳を通す為に。 
 しかしこれだけでは、労働法規を無視しての低賃金や労働条件の悪化を堂々と押し通せない。なぜなら、ブラック労働を強いられている人々は、「結果を出す」前に選別されている。罪も犯していないのに、あらかじめ罰せられるかのように、、苦役を押し付けられているのである。こんな不条理の存在を、恰も空気のように認めさせる「仕掛け」が、目に見える「低学力の脅威」である。駅や繁華街でそれと分かる格好でたむろして、煙草を吸い、コンビニで座り込んで飲食してわめき散らす。彼らを罰して欲しい、隔離して欲しいという住民の要求が湧き上がるように、彼らは行動するのである。罰するとは、停学処分に留まらず、社会的制裁までを求めることであり、「○△高生入店お断り」の貼り紙を出させる。こうして「低学力の脅威」は発明される。斯くして「低学力の脅威」が可視化されている間は、政府の政策の貧困は問われない。



ホーチミンとトマ・サンカラ 

 抗仏戦争が本格化してきた四七年春のこと、ホー主席は、フランス軍に軍需物資を運ばせないためにレールをすべて破壊するように命じた。 
二千キロものレールを、一体どのようにして破壊するのか、幹部たちは額を集めて「半年はかかる。人手は何人、爆弾何発合計いくら」と、相談の結果を報告した。するとホー主席は、「もっと短期間で、お金をかけないで」と、命令した。 人々は、「三カ月で、ダイナマイトを使用、人員は……」と計画を練り直す。 
 だが、ホー主席は「駄目だ。一週間でお金をかけずに破壊しなければ、フランス軍は汽車で武器弾薬を運んで内陸部に入り込んでしまう。その後では間に合わない」といった。 しかし、幹部たちには方法が見つからなかった。 
 ホー主席は、「それじゃ、私にまかせるか」といって次のような提案を人びとに出した。「みなさん、レールをはずしたら、その分を全部自分の物にしてもよい。できるだけ早く、たくさんのレールをとり壊してほしい」 いうまでもなく、遠方からも線路沿いからも村人たちは走り寄ってきて壊し始めた。枕木は上質の木で作ってあるから、住宅にも家具にも木の使い道は多い。なんと、一週間で二千キロの線路が消えてしまったのだった。 
 「一人の力は小さくて弱い。けれど、大勢が集まり力を合わせれば目的を達することができる。小さかった力は大きな力に変わる。これが、革命にとって、最も大切なことだ。力の結集、意志の統一それが成し遂げられて、初めて闘争に勝ち得るのだ。・・・これが、ホー・チ・ミン主席の教えだったのです」 と、クイさんは昔を偲んでいった。 
 抗仏戦争が終わって、鉄道が必要となった55年、ホー主席は人びとに呼びかけた。「もっているレールを政府に売ってほしい」。人びとは消費できず庭先に放っていたレールを政府に売った。そのため、まず千キロを半年で開通させることができたという。 
 さらに抗米戦の北爆の時には、駅はずっと「移動駅」だった。駅という建物に、人や物が集中するのは大変危険だった。そこで本来の駅の側には毎日貼り紙が出された。例えば、「今日の駅は北3キロの所」。貼り紙の前に人だかりがしては危険だったから、人びとは通りすがりに横目で読んで、急いでその地点へ向った。
                                                                大石芳野『闘った人々』講談社文庫

 ゲリラ戦の名人ホーチミンは、思考が自由で囚われがない。有馬頼義が針谷夕雲に言わせた言葉「人間が、自由で、好きなことに熱中している状態が、隙のないすがただと思う」は、彼のためにあるようなものである。「独立と自由ほど貴いものはない」の意味するところがよく分かる。つまり「独立と自由」のための闘争は、ホーチミンやベトナム民族にとって「自由で、好きなことに熱中している状態」でもあった。それを感じて大森実やアメリカのジャーナリストが「アメリカは必ず負ける」と見破ったのである。

 莫大な費用と時間を要する課題を、金を掛けずに瞬く間にやってのける。それが戦「術」である。アフリカのゲバラと呼ばれたブルキナファソのトーマス・サンカラは鉄道を建設するのに、国民に呼びかけた。「石を持ってきて欲しい
」と、人々は籠やエプロンで石を運んで線路の敷石にした。金銭的な報酬はないのに、住民たちが自発的に集まり、男も女も与えられた水筒と両手一杯の米を腰に誇り高く、サバンナに鉄道を敷いた。
 こんなことが、可能だったのは、彼の大胆な改革を国民がその目で見てサンカラを信じたからである。
  大統領となった1983年のスピーチで、サンカラは、自らを革命家とし、祖国の革命を「反帝国主義」と定義し、腐敗と戦い、森林を再生し、飢饉を防ぎ、教育や医療の普及を再優先課題として掲げ、その約束に忠実だった。
 例えば大規模なワクチン接種を実施したのは、アフリカではブルキナファソが初めてであった。キューバ人医師のボランティアにより、250万人の子どもが伝染病から免れることができた。乳児死亡率は2年もたたずして1000人あたり145人と急減した。 また、サハラ砂漠の進行を抑えるため、1000万本の植林による森林再生プログラムも始めた。そして教育にも力を入れた。入学率は、わずか2年で12%から22%に高まり、卒業し読み書きができるようになった人々は、他のものに読み書きを教えることが奨励された。
 封建的首長の特権を剥奪し、土地を強制収用して農地を小作農に再分配した。井戸の掘削や灌漑対策など農業関連に予算を集中して、ブルキナファソの単位当たりの穀物収穫量は3年間で2.2倍と飛躍的に拡大して、農業は自給自足を実現した。
 女性を閣僚や政府の要職に多くの女性を就任させ女性の地位向上に務めた。西アフリカでは初めて女子割礼を禁止、一夫多妻婚を禁止し、避妊の奨励など行い、女性から圧倒的な支持を得た。
 政府高官の汚職を許さず、脱税は徹底的に追及、特権階級であった公務員給与を引き下げ、それを公共事業に使った。自らも公用車をベンツから大衆車に替え、時には自転車や徒歩を用いた。飛行機も常にエコノミークラスを使った。言論の自由や報道の自由を認め、国民から圧倒的な支持を得た。反対に、特権階級からは猛烈な反発を受けた。

 87年10月15日、サンカラはクーデターにより殺害された。37歳だった。わずか4年の間に彼はブルキナファソに目覚ましい功績を残し、アフリカ諸国の圧政に苦しむ人々にも希望を与えた。今でもブルキナファソの国民は、サンカラに深い敬愛と尊敬の念を忘れていない。新植民地主義の蜜の味を忘れられないフランスがその背後にいたことは確かである。
 サンカラの死とともに、ブルキナファソは、政治腐敗と表裏一体の新植民地的支配、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、慢性的飢餓、絶望する農民たちという典型的貧困国家に戻った。

トスカニーニとアジェンデ 3 少年にとって主権者であること

   大阪市長は、「子ども議会」で中学生の要求に「それはあなたが市長になってからやってください」と言い中学生の反感をかった。彼は何のために子ども議会を設置したのか。
 一体「子ども議会」とは何なのか。子どものの要求を聞くことなのか、子どもに地方自治や政治を学ばせることなのか。もし「聞く」事であるなら、「聞き置く」事ではないわけであるから、聞きそれを実行するための根拠が無ければならない。「子どもの権利条約」を批准した以上、国も自治体も学校も根拠となるべき法律や制度を整え予算を計上しなければならない。そんなものはこの国の何処にもないから、子どもの要求は、ただ聞き置く事に過ぎない。では、自治や政治を学ぶためだろうか。であれば、本会議や委員会を傍聴する必要がある。議員と首長や行政責任者との遣り取りを聞いた後、関係者に質問が出来てこそ政治を学んだ事になる。議場の形と椅子の座り心地を知ることは、政治そのものを学ぶ事とは関わりが無い。
 子どもや生徒を主人公にするとはどういうことなのか。児童会や生徒会は、何をするところなのか。運動会の種目や文化祭の中身すら決められない。入学式や卒業式で「今日の主人公は皆さんです」と言われる時以外にないのでは無いか。そこで言われるのは、来賓に恥ずかしくないように、元気よく笑顔で教員の指示に従えという事に他ならない。判断や決定は、総代の読む答辞にさえ生かされない。
 教員のデモやストライキに生徒会が、支持や支援を決定したり参加することなど想像だに出来ない。個人的にプラカードをつくり沿道で声を挙げることもない。しかしかつては、安保条約反対のデモに小学生が参加し、勤評反対の子どもが府議会議場を占拠したこともあった。

 時折、アイディアの枯渇した商店街や町が「高校生がつくったお菓子」などを売り出して評判になったというニュースが、ネタの切れた報道番組に挟まれる事がある。大抵は制服を着た高校生が「開発」したお菓子を手にして画面に現れる。しかし、構想は商店街や町が既に作り、実行だけがアイドル代わりに女子高生に委ねられるのである。

 高校生を子ども扱いして、決定させず主権者としての構想力を育てようとしない風潮に怒らねばならぬ。先週土曜日のことだ、アメリカで銃暴力へ抗議して100万人近くがデモ行進した。これは過去数十年で最大規模。我々の高校生との違いは何か。

  フロリダ州パークランドのマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で乱射事件が起こったのはバレンタインデー、
高校生と教師17人が殺害された。アメリカでは2017年だけで346件の銃乱射事件がおこった。この最悪の事態でも、何も変わらないだろうという諦めが支配していたという。
 しかしアメリカでは、3000校以上、100万人を超える高校生が授業をボイコットした3月14日に続いて、3月24日100万人近くがデモ行進した。


World socialist web siteから一部を引用する。
Washington, D.C.An estimated 800,000 people marched in the main protest in Washington, DC, with crowds of people filling out the entire parade route along Pennsylvania Avenue. The second largest demonstration took place in New York City, where an estimated 150,000 people participated. Police estimated crowds of 40,000 and growing in Los Angeles early in the day. A crowd of 30,000 took part in the Chicago march, with thousands more in every other major US city. Demonstrations also took place in major international cities, such as London, Paris, Berlin, Sydney and Tokyo.
Student-led demonstrations of this size have not been seen in the United States since the mass demonstrations against the Vietnam War nearly fifty years ago. The scale of the demonstrations show that the profound crisis of American and world capitalism is working its way into the consciousness of young people and propelling a new generation into political struggle.


  日本で言うなら、反原発や核兵器禁止、森友真相解明を求めて高校生が50万人デモに参加することにあたる。アメリカでは、スピルバークが高校生たちに賛同して50万ドルを寄付するなど共感が広がっている。

  現地からの報道の中にこういう記述がある。
  「(銃規制)運動を主導した生徒たちの大部分は、高校で演劇課程も受けていた。また、学校新聞を運営し、放送ジャーナリズムを学ぶ若きジャーナリストたちでもあった。その1人デービッド・ホッグは、銃撃中に身を隠しながら級友たちをインタビューし、映像を公開。クリスティー・マは「生々しい感情を伝えるため、できる限りの写真を集めた」と言う。 確かにダグラスの生徒たちは、公教育が無情に切り刻まれるこの時代に、比較的裕福な地区の学校で特殊な機会に恵まれた。だが、演劇やメディア、演説、政治活動、討論などをきめ細かく教育されてきた生徒たちが、偶然にも学校銃乱射事件の当事者となり、それを見事に発信してきたという事実を前にして、これが陰謀だ、扇動だと中傷することなど到底できないだろう。 はっきりしているのは、標準テストでは測れないような能力に重点を置く課外教育が、公民権運動に積極的な市民を生むということだ」
 日本の高校では、例えば討論は「現社」などの一部を割いて、教師の与えた論点を逸脱しない範囲で進められるが、アメリカの高校では、学年を通して行われ、取材なども自ら行う。
 僕は多摩地区の高校で、これに近い授業をしていた。しかしS高校に移って、当初はもっと面白くやれると期待していたのだが、生徒たちがクラブ活動に埋没して放課後を調査や討議に使えない事が分かり断念した。ながく取り組む生徒たちは殆ど2学期間、短くても2週間放課後を使わねばならなかった。時には土日曜を博物館や工場見学にあてるから、試合は出来なくなる。しかしそれだけの価値はあった筈だ。僕の痛恨事の一つである。僕は「部活」中毒が青年の自立を破壊していると思う。



 

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...