抗仏戦争が本格化してきた四七年春のこと、ホー主席は、フランス軍に軍需物資を運ばせないためにレールをすべて破壊するように命じた。
二千キロものレールを、一体どのようにして破壊するのか、幹部たちは額を集めて「半年はかかる。人手は何人、爆弾何発合計いくら」と、相談の結果を報告した。するとホー主席は、「もっと短期間で、お金をかけないで」と、命令した。 人々は、「三カ月で、ダイナマイトを使用、人員は……」と計画を練り直す。
だが、ホー主席は「駄目だ。一週間でお金をかけずに破壊しなければ、フランス軍は汽車で武器弾薬を運んで内陸部に入り込んでしまう。その後では間に合わない」といった。 しかし、幹部たちには方法が見つからなかった。
ホー主席は、「それじゃ、私にまかせるか」といって次のような提案を人びとに出した。「みなさん、レールをはずしたら、その分を全部自分の物にしてもよい。できるだけ早く、たくさんのレールをとり壊してほしい」 いうまでもなく、遠方からも線路沿いからも村人たちは走り寄ってきて壊し始めた。枕木は上質の木で作ってあるから、住宅にも家具にも木の使い道は多い。なんと、一週間で二千キロの線路が消えてしまったのだった。
「一人の力は小さくて弱い。けれど、大勢が集まり力を合わせれば目的を達することができる。小さかった力は大きな力に変わる。これが、革命にとって、最も大切なことだ。力の結集、意志の統一それが成し遂げられて、初めて闘争に勝ち得るのだ。・・・これが、ホー・チ・ミン主席の教えだったのです」 と、クイさんは昔を偲んでいった。
抗仏戦争が終わって、鉄道が必要となった55年、ホー主席は人びとに呼びかけた。「もっているレールを政府に売ってほしい」。人びとは消費できず庭先に放っていたレールを政府に売った。そのため、まず千キロを半年で開通させることができたという。
さらに抗米戦の北爆の時には、駅はずっと「移動駅」だった。駅という建物に、人や物が集中するのは大変危険だった。そこで本来の駅の側には毎日貼り紙が出された。例えば、「今日の駅は北3キロの所」。貼り紙の前に人だかりがしては危険だったから、人びとは通りすがりに横目で読んで、急いでその地点へ向った。大石芳野『闘った人々』講談社文庫
ゲリラ戦の名人ホーチミンは、思考が自由で囚われがない。有馬頼義が針谷夕雲に言わせた言葉「人間が、自由で、好きなことに熱中している状態が、隙のないすがただと思う」は、彼のためにあるようなものである。「独立と自由ほど貴いものはない」の意味するところがよく分かる。つまり「独立と自由」のための闘争は、ホーチミンやベトナム民族にとって「自由で、好きなことに熱中している状態」でもあった。それを感じて大森実やアメリカのジャーナリストが「アメリカは必ず負ける」と見破ったのである。
莫大な費用と時間を要する課題を、金を掛けずに瞬く間にやってのける。それが戦「術」である。アフリカのゲバラと呼ばれたブルキナファソのトーマス・サンカラは鉄道を建設するのに、国民に呼びかけた。「石を持ってきて欲しい
」と、人々は籠やエプロンで石を運んで線路の敷石にした。金銭的な報酬はないのに、住民たちが自発的に集まり、男も女も与えられた水筒と両手一杯の米を腰に誇り高く、サバンナに鉄道を敷いた。
こんなことが、可能だったのは、彼の大胆な改革を国民がその目で見てサンカラを信じたからである。
大統領となった1983年のスピーチで、サンカラは、自らを革命家とし、祖国の革命を「反帝国主義」と定義し、腐敗と戦い、森林を再生し、飢饉を防ぎ、教育や医療の普及を再優先課題として掲げ、その約束に忠実だった。
例えば大規模なワクチン接種を実施したのは、アフリカではブルキナファソが初めてであった。キューバ人医師のボランティアにより、250万人の子どもが伝染病から免れることができた。乳児死亡率は2年もたたずして1000人あたり145人と急減した。 また、サハラ砂漠の進行を抑えるため、1000万本の植林による森林再生プログラムも始めた。そして教育にも力を入れた。入学率は、わずか2年で12%から22%に高まり、卒業し読み書きができるようになった人々は、他のものに読み書きを教えることが奨励された。
封建的首長の特権を剥奪し、土地を強制収用して農地を小作農に再分配した。井戸の掘削や灌漑対策など農業関連に予算を集中して、ブルキナファソの単位当たりの穀物収穫量は3年間で2.2倍と飛躍的に拡大して、農業は自給自足を実現した。
女性を閣僚や政府の要職に多くの女性を就任させ女性の地位向上に務めた。西アフリカでは初めて女子割礼を禁止、一夫多妻婚を禁止し、避妊の奨励など行い、女性から圧倒的な支持を得た。
政府高官の汚職を許さず、脱税は徹底的に追及、特権階級であった公務員給与を引き下げ、それを公共事業に使った。自らも公用車をベンツから大衆車に替え、時には自転車や徒歩を用いた。飛行機も常にエコノミークラスを使った。言論の自由や報道の自由を認め、国民から圧倒的な支持を得た。反対に、特権階級からは猛烈な反発を受けた。
87年10月15日、サンカラはクーデターにより殺害された。37歳だった。わずか4年の間に彼はブルキナファソに目覚ましい功績を残し、アフリカ諸国の圧政に苦しむ人々にも希望を与えた。今でもブルキナファソの国民は、サンカラに深い敬愛と尊敬の念を忘れていない。新植民地主義の蜜の味を忘れられないフランスがその背後にいたことは確かである。
サンカラの死とともに、ブルキナファソは、政治腐敗と表裏一体の新植民地的支配、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、慢性的飢餓、絶望する農民たちという典型的貧困国家に戻った。
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