『発端に抵抗せよ』

信仰と無縁風は、倦むことを知らない
 風の強い峠に経典を刷ったタルチョをはためかせれば、その数だけお経を唱えたことになる。マニ車に手を触れて回せばお経一巻を読んだことになる。なんたる手抜きの信心。かと思えば、五体投地でカイラス山一週の旅を一家を挙げて行う、なんたる苦行であることか。
 
開店はるか前のパチンコ屋に早朝からの整然たる行列して一日呆けて遊ぶ、彼らは怠け者なのか勤勉なのか。日本中に一体どれだけの人間がパチンコ屋の前に寒風をついて並ぶのか。
 元旦に天皇一家を見ようと集まった15万人は、天皇を敬愛しているのか、珍奇なものを見たい一心だったのか。もし敬愛しているのなら、天皇が沖縄の戦跡に足を運び頭を垂れたとき、彼らは何故大挙して行動を共にしょうとしなかったのか。

 共通していることがある。皆がやっているからと、自力で思考判断しないで済むことだ、判断は恐怖を伴う。世間や掟に従って目を瞑る。世間や掟とは多数派である、安心だ。安逸を貪ることが出来る。方向さえ見定めず、流され、長いものには巻かれろ。それを日本の政権は建国以来いつも推奨してきた。挙げ句の果てが、原野や雨林で飢え死にして原爆二発。

 どこであれ何であれ行列があれば生真面目に並び、メダルやタイトルを獲得した選手を見るために押し寄せる。彼らは何をしているのか。押し寄せ並ぶ自分自身を確認しているのではないか。多数派であることの心地よい安心感と興奮に浸る。激して涙し絶叫することもある。安逸とはそういうことである。
 
 多数など実在しない。
多数に属することが、何故快感なのか疑った方がいい。フジTVに「どっちでしょう」というゲーム番組があった。「朝食はパン派?ご飯派?」など他愛無い問いに応じて分かれる。分かれて多数派になった側だけが残り、少数派は失格する。初めは60人対40人程度に分かれていたのが、最終的には2対1に絞り込まれる。多数派を選び続けるといつの間にか少数になるという逆説がある。誰も何かがどこかが少数派なのだ。個々の事案では少数者である者の束が多数であるに過ぎない。

 「『発端に抵抗せよ』と『終末を考慮せよ』というあの一対の有名な格言を私は何度も考えてきました。でも、発端に抵抗するためには、それが発端だとわかるためには、終末が見越せなければならないのです。…ニーメラー牧師は、(御自分についてはあまりにも謙虚に)何千何万という私たちのような人間を代弁して、こう語られました。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた、と」『彼らは自由だと思っていた』(ミルトン・マイヤー 未来社)     ニーメラー牧師は第一次大戦ではUボート艦長であった。ヒトラーが教会を攻撃すると牧師緊急同盟をつくり抵抗。逮捕され強制収容所に終戦まで収容された
  「発端に抵抗せよ」とは、tvゲーム「どっちでしょう」程度の軽い乗りのふざけであっても、排他的意図を見極めて疑い抗うことである。
 戦後の説教で
ニーメラー牧師はこう発言している。
  「私には罪がある。なぜなら私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした

 制服導入への抵抗をためらう教員は少なくない。反対するのは臍曲がりの万年少数派だけだし、生徒の利益にもなると自分に言い聞かせてしまう。導入した以上
毅然と検査もしたくなる。服装を揃えても偏差値が上がらずかえって下がれば、髪型や茶髪にも目が行く。生徒の手前今更反対は言えない。職場の和を乱す少数派に転落するのは怖い。少数派には様々な不利益があり、それが多数派への傾斜を強化する。気が付いた時、理不尽な暴力を振るう教師の側で何も出来ない自分に気が付く。ついに傷害事件が起こりマスコミ沙汰になり箝口令が敷かれる。体罰も同じ経過を辿る。どんどん深みにはまる。自己を偽り多数派に近づき支払ったものは余りに多い、多くを支払ったことを考えれば現状を擁護する羽目になる。だつて臍曲がりどもは、いつの間にか職場から消えている。  『終末を考慮せよ

Best teacher of the year

投獄された教師を返せと押しかけた児童や父母があった
 Best teacher of the yearを選ぶ習慣が欧米の大学や高校にある。小学校や中学校にさえある。その年の卒業生が、最も「優れた教師」をたたえる。学校に於ける主権者は誰なのかを象徴する光景である。
 いくら主権者教育と力んでも、式では皆勤賞や優等賞など学校や行政側の視点だけで生徒を褒める場面が続く日本だ。主権者や主人公に相応しい場面は絶無に近い。
 

 自治体の中にも教育委員会が「best teacher of the year」賞を設けているところがある。教委が選ぶこと自身が不快であるが、その選定の基準の中にいい教師を育てた教師という項目があって暗い気持ちになる。つまり子どもや授業が好きであるとという条件を外して管理職も対象にしている。それがどうしてbest 「teacher」たり得るのか。
   新聞社が主催するものもある。先ず教師が自己推薦して、その中から校長会が審査選定する。自分の授業を自分で褒める神経は戴けない。仮令そう思っていても胸にしまうのがいい。式などでことある毎に古典の引用をしたがる管理職だ、「剛毅木訥仁に近し」を知らぬか。業も生徒も苦手な教師の逃げ場としての管理職に救いを求め、「行政の末端」自認し胸を張る者がいい教師を選ぶとは噴飯ものである。新聞社も詰まらぬことを続けるものだ。こんなことで取材情報源を確保するから碌な記事が書けない。
 

 藤野厳九郎は、仙台医専が帝大医学部に昇格すると辞任、故郷で開業した。魯迅は革命成就に立ち会えなかったが、革命後北京医大が藤野先生を教授として招こうとしたことがある。断っている、それでよかったのだと思う。お陰で魯迅も藤野先生も双方の国で敬愛され続けている。教師の消え方には美学がある。

 あるとき、生徒が廊下で僕を捕まえて「先生の授業、逆らって噛み付きたくなる、イライラするの」とえらい剣幕だ。

 「でも逆らえないのよね。言い出す言葉が見つからない。もう腹が立つ」という。
 「楽しそうに言うね」
 「そう、そうなの、このイライラが楽しいの、アハハ」と手を振りながら廊下を駆けて行った。

 敗戦直後の旧制中学生も、このような「腹の立つ噛み付きたくなる」ような気分の中で既成概念を解体したのではないだろうか。

 ある生徒は「先生の授業はいつもチャイムで突然終わる、中途半端で落ち着かない」と答案用紙の裏に書いていた。聞けば
 「普通、話には起承転結があるでしょう。先生の話は起の次にいきなり転が続いて結なしに突然終わったり、突然転から始まってそのまま切れたりする、落ち着かないんだ。どうなるんだどうなるんだって。イライラしたりモヤモヤしたりする」
  「困ったな、起承転結付けた方がいいかな」
 「駄目、駄目、中途半端なモヤモヤのお陰で次が待ち遠しくなる。授業が始まるとホッとするんだから」
  「まるで紙芝居だな」・・・紙芝居作家はそれを営業上やむを得ず意図したのだが、僕の場合はいつの間にかそうなってしまう。美的でない、腹が立って当たり前だ。

  つくづく、面白く難しいものだと思う。
高校生らしさを感じる瞬間である。中学生や大学生ではこうはならない。高校生には僕の授業の欠陥を、自力で埋めようとする意地がある。説明のつかない不安を楽しむ大胆な逞しさがみえる。中学生は、その逞しさが未だ芽ばえず、大学生のそれは枯れかかっている。
 我々の高校生はどんな教師をbest teacher of the yearに選ぶだろうか。教育のために献身し追放された先生を選び讃える覚悟が芽生えるだろうか。

 時代の空気も土壌も、少年たちに覚悟の芽が出るのを許さない。
   1933年の二・四事件では長野県だけで600名余りが検挙された、容疑は治安維持法違反。うち教師が230名、「教員赤化事件」とも呼ばれた。その多くが自由主義教育を掲げる優れた教師で、子どもや保護者たちかの信頼は厚かった。先生をを慕う生徒たちは「同盟休校」し、警察に先生の解放を要求する動きもあった。長野でも東北でも沖縄でも、Best teacherは真っ先に暗い時代の抵抗者となった。

いい授業とは何か Ⅱ

藤野先生は自分の授業をどう考えていただろうか
 選挙はそれまでの政治活動が評価される機会である。だから候補者が駅前に立って「○◇です、よろしくお願いします」という初対面的挨拶は、「何の政治活動もしませんでした」と白状しているに等しい。いい選挙活動とは言い難い。投票日に車を動員して支持者の投票を組織する宗教団体さえある。往生際が悪い。
 投票する側もされる側も、普段の政治活動を盛んにして、選挙期間は静かに日頃の活動を反省考察したい。
 卒業は、もう学ぶことはないことを自他ともに確認した瞬間唐突に訪れる。その個別の瞬間を、同じ時に括る「式」は無茶で無意味である。学びの足りない者も、とっくに超えた者も一括りにして涙で誤魔化す。。
 満腹も個別的である。一斉に満腹するはずがないのに、揃えたがる。死ぬのは更に個別的であらねばならぬ。しかし死までも揃えたがっている。高齢者の終末医療は打ち切れと言い出した者がある。終活の行き着く先は、一斉終末を告げる儀式だろうか。揃えられないものを、効率やケジメという呪いに惑わされ儀式で時期を揃えようとする、絶滅収容所が我々の日常に侵入しているのだ。揃えてはならぬもの、揃える必要のないものは放置する覚悟が必要になっている。

 卒業式は、同窓会と同じように虚像に過ぎない。どちらにとっても、蓄えられた知識や交友が実像である。結婚式は結婚生活に先立って作られる拡大された虚像であり、その虚像に合わせて実生活が営まれる。虚像がきらびやかな程、実生活との裂け目は大きく破綻する。虚像を結ばせるレンズや凹面鏡にあたるのが、仕来りや世間であり既に企業化が極まっている。現実は虚像に追いつかない。

 授業にとって、実像は未来にある。突然あるいは緩やかに授業や教師の生き様が思い出されて、現実を変革したり解釈構想する武器になる時現れるのが実像である。
 魯迅の書斎には藤野先生の写真がかけてあった。「
仕事に倦んで怠けたくなるとき、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び正人君子の連中に深く憎まれる文字を書き続けるのである」と言う具合だ。
 行動を促した言葉が、誰の教えであったか全く意識に上らないことも多い。我々が教壇で行うのは、未来の実像=成果を目指して虚像を見せる悲しい作業である。授業が思い出されたとき、我々はとっくに惚けたり死んだりしているのだから。
 藤野先生は、自分の授業をどう思っていただろうか。先生の肖像が
、北京の書斎で魯迅の勇気を奮い起こしているとき、藤野先生はそのことを知る由もなかった。我々は、「正人君子の連中に深く憎まれる」ことで歴史の中の実像に近づきたい。 

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...