「生活指導」で問われるべきは、量ではなく質である。下町のある工高では、指導の長さや表面的効果ではなく担任や担当教師の取り組みの中身が問われた時期がある。その底流には、指導はあくまで生徒の「権利」であって、生徒に対する処分=罰ではないとの共通認識があった。しかし、学級担任や校務分掌としての生徒指導部に人気はなかった。生徒が主体と言う考えにどうしても馴染めないからだ。日数や時間が過ぎたからokとは行かない。教師個人の個性が反映することにもなる。職員会議での議論もややこしくなる。指導内容抜きの教員個人間の言い争いになりが
ちだ。生徒に人気のあったのは、「グランドの草取り」。もう一度草取り指導してくれと言い出す生徒が続出した。担当二人の空き時間にやれば生徒は授業を脱ける、これは事前に職員会議で周知しておいた。工高は専門教科の実習や実験や製図が圧倒的、この時間を脱けることになる。
グランドの木陰は校舎からは見えないから、普段から彼らの喫煙場所でもあった。その付近で今度は草取りをする、教師と並んで。面と向かってでは無く草や空を診ながら、いつの間にか対話になる。授業や教師ねへの不満から親や校則への不満もゆっくり話し合える。将来への不安が口にでることも。草取りは心身を解すにも丁度良い。終わった時には、生徒の表情が柔らかい、同じように僕らも柔らかい表情になっていたに違いない。
しかし一見長閑な選択できる「生活指導」は、定着しなかった。
教員は「強制してこそ指導」との先入観から自己を解放できない。この傾向は学校の「偏差値」ランクが下がるほど著しい。ここに、経済的・文化的貧困への止みがたい無知と偏見がある。
加えて都立高校異動に関する「希望と承諾の原則」が、都教委による強制人事に変わったことも大きい。異動先の教育文化の違いを受け入れない教師が強制異動で増えたのだ。このような教師にとって、服装や頭髪の自由や、指導の選択制など論外だったに違いない。全都的に、全国的に「管理主義」教育が力を増していたのだ。 特定の生徒だけが管理されるように見える時、既に全ての生徒の自由も教師の自主性も侵害されているのだ。