「まくら」とは 噺の導入部である。
「先生、教師も芸人かい」と問う生徒が下町の工高にいた。「似ているな」と答えると
「頼む、俺を弟子にしてくれ」と言う。
その半年前は「子分にしてくれ」だった。
一応のテーマは掲げるが、授業としては全編脱線、言わばまくらだけ。クラスがかわれば別のまくらになった。教科書やノート無しで、起立・礼もせず教壇に立つ。それで芸人と定義したらしい。
桂小三治の高座は「マクラ」が抜群に面白かった。特に彼がヨーロッパ公演で体験した話がいい。まくらの語りを再構成してみる。
パリの空港で荷物を引きずって難儀していた小三治に、小柄な若者が寄ってきた。
「ニコニコしながら、『持ちますよ』と言ってくれたんです、その人が」
「私のことを柳家小三治だって分かって、話しかけて来たり、手伝おうとする人が、中にはいるんです。そういう人は目や、顔の表情で分かります。でも、その若者は私のことを人間国宝だなんて知らないで、『持ちますよ』と言ってきたんだ。これは、彼の表情を見てりゃ分かりました」
小三治は荷物を持ってもらい、丁重に礼を伝えた。その若者は、「いやあ、いいんです」と言いながら、ずっとニコニコしていた。
互いに互いを知らないから、話はそこで終わる筈だった。ところが、小三治は荷物を持ってくれた男と再会する。彼は、テレビのなかにいた。パリの若者は2019年秋、ラグビー・ワールドカップに出場していた。
「あ、あのときの・・・」
小三治は驚いた。それからというものラグビー日本代表の彼を夢中になって応援した。毎試合その選手が登場すると、テレビに向かって叫んだ。「タナカ!」
荷物を持ってくれた若い男は、日本代表のスクラムハーフ、田中史朗だった。
ここにはスポーツ観戦の思想が見事に展開されている。見たいのは、闘う選手の優劣やメダルの数や賞金の額ではない。まして日の丸掲揚ではない。人生を他人の活躍や成功に託すことではない。直接であれ、週刊誌の記述であれ、街頭であれ、自立した個人の出会いの思い出なのだ。負けても勝っても、しみじみ心の奥から湧き上がる出会いの記憶。記憶の中の出会い。
教師の授業が生徒に思い出されるとき、彼らの胸に去来するのは何だろうか。
石神井高校で三戸先生の講義「世界史」に巡り合う者は幸福だった。先生の「まくら」も長かったし、その日の世界情勢でまくらは縦横無尽に展開した。1960年代から80年は、世界が激動し若者が変革を求めて行動した時代である。聞き手と話し手の息詰まる緊張が教室にみなぎった。
しかも先生の授業は終わりの5分間に、受験知識も含めて過不足なく見事にまとめられていた。僕がこの高校に異動したとき先生は既に退職していた。まくらはいつでも聴けるものではない。どんな出来事が彼を待ち受けているか、分からない。だからその日限りの一発勝負と言ってよい。
僕は先生のまくらを聞きに出かけなかった。何故なら先生の授業のまくらは、先生と生徒たちの関係の中からしか生まれないからだ。真似はきかない。
都高教研組織者会議が終わったあと、先生とはよく飲んだ。先生を含む数人の読書会も長く続いた。話に集中したくて酔いたくなかったが、旨い酒であった。今僕は全く飲めないが、あの旨さは記憶にある。
授業が全編まくら噺になったのは、最初の赴任校が私鉄沿線の零細商工業地域の工高定時制課程だったからだ。あの頃定時制は全日制不合格者の溜まり場ではなかった。
三戸先生の生徒たちに受験知識は差し迫った重大事。零細商工業地帯に「働く青年」たちが求めていたのは、まず職場の春闘方針の総括であった。彼らは組合役員を含む逞しい青年たちだった。僕より年長もいた。
「先生、会社が儲かっているかどうやれば分かるのか」。咄嗟に財務諸表を持って来いと答えた。
その経験が授業形式を決定した。だから受験を視野に5 分の授業を組み立てる三戸先生が、羨ましくも遠い存在に思えた。しかしPTAによって高校増設運動が進められ、新設校が続々と開校。働く青年と僕の束の間の幸福な関係は霧散した。