炎天でも木枯らしでも子どもは動員され、命を縮めた |
夜、私は子供達の生い立ちや、家庭の様子を聞いた。・・・聞きながら思わず泣いてしまった。子供も、私に聞かれると、元気で騒いでいたのが急に萎れて目に涙を一杯溜めて語るが、そのうち泣きだしてしまった。松本馨は23歳で少年舎の寮父になった。この文章は子どもたちとの生活を、戦後日記風にまとめた記録の一部である。少年は11から13歳。その生い立ちを彼は「冬の日のそれよりも弱い日陰」と形容している。
S 父はSが七つの時発病した。母はSを連れて父の発病と同時に実家に逃げた。Sは昨年の春発病・・・重症の父と(療養所で)対面・・・
Y Yの母は長女を連れて、Yが五つの時、(父と姉と弟を置いて)家出してしまった。「・・・僕はその晩、ちっちゃな灯が遠くの方へ消えて行くのだけがわかった」・・・「お父さん、今思うとこの病気だったんだね。・・・死ぬ時お父さんとっても苦しんだよ」(Yたちは叔父に引取られるが酷く叩かれた)・・・
F 父は職人、母はFと共に収容されたが病室にて発狂し監禁されている・・・父は乳飲み子と五歳の女子に七歳の男の子を抱えて働く事も出来ず食に困る由
T 父は(全生園の不自由舎で)療養中。母は・・・人の噂では家出せしと・・・
U 父は昨年Uと共に収容。母は洋裁職にて弟妹二人を養い生計を立てている
M 父は一昨年の春M収容と同時に自殺す、と同時に母は家を追われ転々と食に追われている
V 父はVの記憶になし。母は兄妹二人とともに退院を待っている 松本義男(松本馨の筆名の一つ) 「病める子等」全生園文芸誌『山桜』1948年 4.5月号 p12~15 少年の名前は記号に置き変えた。 「病める子等」は二回続いたが未完のまま。若き松本の奮闘ぶりが描かれている。
療養所には子どもの作文が数多く残されて胸を打つが、松本が残した子供たちの生育歴等とともに知っておきたいのは、幾重にも重なる表現規制である。治安維持法などに基づく内務省の検閲、懲戒検束権に基づく療養所の検閲の二つが先ずあった。療養所ごとに、検閲官が存在した。
「この療養所にはコンクリートの塀がある」とさえ書けなかったと『全患協闘争史』にある。「塀がある」と書くことはそれを撤去する運動につながると見做されたからである。 さらに病友という仲間の視線は死ぬまで続いて筆を鈍らせる。学校には成績という仕掛けがあって、「治療して早く社会へ出たい」などと書けば、褒められはしなかった。
自分の作文・・・今回(数十年ぶりに)改めて読んだら、辛いとかちっとも書いてなくてびっくりしたよ。・・・作文にかけないこともあった。子供心にこういうこと言ってはいけない、やってはいけないということがある程度わかってくるから、それはみんな気をつけていたと思う。必要以上に気を使ってしまうんじゃないかね・・・ 鈴木トミ 『ハンセン病文学全集』 皓星社 第六回配本月報子どもが書かなかったこと、氷上恵介や松本馨の記述2も漏れた事実に想像を及ぼさねばならない。
子どもたちは、少年少女団に組織される。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並ばされ、頭を垂れ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は毎月、教練は月に二度あった。
(沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。)
院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。 多磨全生園患者自治会編 『倶会一処』 p112
行事から逃げる知恵も術もない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。
おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国と療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。
「少年団など馬鹿にし、ずるけてのらりくらりしていた、札つきの「わる」の少年たちの方が今に生きしのぎ、生き残っている」と『倶会一処』は続けている。ハンセン病療養所では、子どもの親権者は園長と定められていた。その園長官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割が使われた。親権者は「聖者」と讃えられ、豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まり、「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは、重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそが絶滅隔離の目指すところであった。
月一円の子ども手当は、こうした情勢下に生まれたを忘れてはならない。同時に要求して生まれた「子ども舎」は子どもだけの時間と空間をもたらした。それが「子どもの発見」である。
子どもの世界の確立は、青年や大人の世界の確立でもある。
「私は子どもたちとの間に空間を置かなければならないと感じるようになった。その空間は子どもたちの遊び場所である。遊びには冒険が伴う。冒険の伴わない遊びは大人の考えるもので、遊びとは違う。遊びには冒険が伴い、危険が伴う。その中で子どもたちは連帯感、責任や義務、友情を学ぶのである」 松木信(松本馨)『生まれたのは何のために』 教文館 p61
子ども専用の空間を作れば、大人の空間も出来る。文学青年や患者教師たちが集まり、園や全生常会(療養所内戦時体制を支えた患者組織)への不満なども語り合う。松本馨自身も小説を書き、子どもたちに読んで聞かせた。処々に子ども自身がモデルとなって登場、皆熱心に聞いた。この中に谺雄二少年もいて、この経験が彼を積極的に園内の図書館に向かわせ文学青年に成長させている。自立は危険とともに、新しい関係と視野を創造するのである。
これは、放課後の自由であるべき時空を「部活」と生活指導に占拠された現在の少年少女たちと教師についても、示唆を与えている。
点字を読むのも下駄を探るのも舌によった |
松本馨は後にハンセン病の症状の一つが悪化両足を切断。1950年には妻を亡くし視力も失い、「石であって人ではない」十年を経験する。その苦難を経て患者自治会長や全患協会長を務め、予防法体制と徹底的に闘い続けた。指の感覚も無くなり、点字を読むのも下駄を探るのも舌を使う生活であった。にもかかわらず厚生省との交渉では、図面や文書の細部まで頭に入れて、官僚を論理的に追い詰め驚かせている。
参考 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊