子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある Ⅱ 松本馨の闘い

炎天でも木枯らしでも子どもは動員され、命を縮めた
 承前
 夜、私は子供達の生い立ちや、家庭の様子を聞いた。・・・聞きながら思わず泣いてしまった。子供も、私に聞かれると、元気で騒いでいたのが急に萎れて目に涙を一杯溜めて語るが、そのうち泣きだしてしまった。
   父はSが七つの時発病した。母はSを連れて父の発病と同時に実家に逃げた。Sは昨年の春発病・・・重症の父と(療養所で)対面・・・
   Yの母は長女を連れて、Yが五つの時、(父と姉と弟を置いて)家出してしまった。「・・・僕はその晩、ちっちゃな灯が遠くの方へ消えて行くのだけがわかった」・・・「お父さん、今思うとこの病気だったんだね。・・・死ぬ時お父さんとっても苦しんだよ」(Yたちは叔父に引取られるが酷く叩かれた)・・・
   父は職人、母はFと共に収容されたが病室にて発狂し監禁されている・・・父は乳飲み子と五歳の女子に七歳の男の子を抱えて働く事も出来ず食に困る由
   父は(全生園の不自由舎で)療養中。母は・・・人の噂では家出せしと・・・
   父は昨年Uと共に収容。母は洋裁職にて弟妹二人を養い生計を立てている                  
  父は一昨年の春M収容と同時に自殺す、と同時に母は家を追われ転々と食に追われている
   父はVの記憶になし。母は兄妹二人とともに退院を待っている
   松本義男(松本馨の筆名の一つ) 「病める子等」全生園文芸誌『山桜』1948年 4.5月号 p12~15   少年の名前は記号に置き変えた。  「病める子等」は二回続いたが未完のまま。若き松本の奮闘ぶりが描かれている。  
 
 松本馨は23歳で少年舎の寮父になった。この文章は子どもたちとの生活を、戦後日記風にまとめた記録の一部である。少年は11から13歳。その生い立ちを彼は「冬の日のそれよりも弱い日陰」と形容している。
 療養所には子どもの作文が数多く残されて胸を打つが、松本が残した子供たちの生育歴等とともに知っておきたいのは、幾重にも重なる表現規制である。治安維持法などに基づく内務省の検閲、懲戒検束権に基づく療養所の検閲の二つが先ずあった。
療養所ごとに、検閲官が存在した。 
 「この療養所にはコンクリートの塀がある」とさえ書けなかったと『全患協闘争史』にある。「塀がある」と書くことはそれを撤去する運動につながると見做されたからである。 さらに病友という仲間の視線は死ぬまで続いて筆を鈍らせる。学校には成績という仕掛けがあって、「治療して早く社会へ出たい」などと書けば、褒められはしなかった。
 

 自分の作文・・・今回(数十年ぶりに)改めて読んだら、辛いとかちっとも書いてなくてびっくりしたよ。・・・作文にかけないこともあった。子供心にこういうこと言ってはいけない、やってはいけないということがある程度わかってくるから、それはみんな気をつけていたと思う。必要以上に気を使ってしまうんじゃないかね・・・ 鈴木トミ 『ハンセン病文学全集』 皓星社 第六回配本月報  
 子どもが書かなかったこと、氷上恵介や松本馨の記述2も漏れた事実に想像を及ぼさねばならない。                   

 子どもたちは、少年少女団に組織される。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並ばされ、頭を垂れ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は毎月、教練は月に二度あった。

 (沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。)
 院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。            多磨全生園患者自治会編 『倶会一処』 p112 

 行事から逃げる知恵も術もない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。

 おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国と療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。 
 「少年団など馬鹿にし、ずるけてのらりくらりしていた、札つきの「わる」の少年たちの方が今に生きしのぎ、生き残っている」と『倶会一処』は続けている。
 ハンセン病療養所では、子どもの親権者は園長と定められていた。その園長官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割が使われた。親権者は「聖者」と讃えられ、豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まり、「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは、重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそが絶滅隔離の目指すところであった。

 月一円の子ども手当は、こうした情勢下に生まれたを忘れてはならない。同時に要求して生まれた「子ども舎」は子どもだけの時間と空間をもたらした。それが「子どもの発見」である。
 子どもの世界の確立は、青年や大人の世界の確立でもある。

 「私は子どもたちとの間に空間を置かなければならないと感じるようになった。その空間は子どもたちの遊び場所である。遊びには冒険が伴う。冒険の伴わない遊びは大人の考えるもので、遊びとは違う。遊びには冒険が伴い、危険が伴う。その中で子どもたちは連帯感、責任や義務、友情を学ぶのである」    松木信(松本馨)『生まれたのは何のために』 教文館  p61

 子ども専用の空間を作れば、大人の空間も出来る。文学青年や患者教師たちが集まり、園や全生常会(療養所内戦時体制を支えた患者組織)への不満なども語り合う。松本馨自身も小説を書き、子どもたちに読んで聞かせた。処々に子ども自身がモデルとなって登場、皆熱心に聞いた。この中に谺雄二少年もいて、この経験が彼を積極的に園内の図書館に向かわせ文学青年に成長させている。自立は危険とともに、新しい関係と視野を創造するのである。

 これは、放課後の自由であるべき時空を「部活」と生活指導に占拠された現在の少年少女たちと教師についても、示唆を与えている。

点字を読むのも下駄を探るのも舌によった
 生徒も教師も極限までゆとりを奪われ、身近な世界を疑うことも、自治能力を養うことも出来ない。そしてますます競争に明け暮れ、未来の不安定な生活を準備してしまう。
 松本馨は
後にハンセン病の症状の一つが悪化両足を切断。1950年には妻を亡くし視力も失い、「石であって人ではない」十年を経験する。その苦難を経て患者自治会長や全患協会長を務め、予防法体制と徹底的に闘い続けた。指の感覚も無くなり、点字を読むのも下駄を探るのも舌を使う生活であった。にもかかわらず厚生省との交渉では、図面や文書の細部まで頭に入れて、官僚を論理的に追い詰め驚かせている。

『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある / 氷上恵介と松本馨

子どもにも患者作業 広報用写真だから何もかもが新品だ
 野間宏が日本の最も暗い闇と呼んだハンセン病療養所で、日本最初の子ども手当が始まったことを君は知っているか。それは日米開戦の年であった。戦争の狂気に日本中が飲み込まれていた時期の奇跡でもある。僕は奇跡という言葉を好きになれないが、日本の子ども手当が「奇妙な国」で昭和16年に始まったことを「奇跡」と言うことに殆ど躊躇いはない。
 

  「あなたがたは、面積が四十ヘクタールで人口が千余人という、まったく玩具のような小国が、日本列島の中に存在していることをご存じだろうか。・・・厳とした国境があり、みだりに出入国はできないし、また憲法や建国の精神というものもあって、国民生活に秩序があることも一般の国家と変わらない。ただ変わるところは、どのような国、つまり資本主義の国にしろ社会主義の国にしろ、すべての国がその目標を発展ということに置いているのに反して、この国では滅亡こそが国家唯一の大理想だということだ」            島 比呂志 「奇妙な国」『ハンセン病文学全集3 』p230 (島 比呂志は作家(1918 - 2003) 東京農林専門学校助教授時代発病。国立癩療養所大島青松園隔離収容、翌年星塚敬愛園へ転園。同人誌「火山地帯」を主宰。らい予防法国家賠償法訴訟の切っ掛けをつくった)

 「奇妙な国」は、日本の中に何箇所も作られたが、その最初の国は全生病院(後の多磨全生園)であった。先ず、戦中のハンセン病療養所多磨全生園の子どもたちの生活を見てみよう。
 

 戦中の1943年、氷上恵介は全生学園教師を引き受け、園長(彼が奇妙な国の独裁者である)印を捺した「学事世話係を任ずる」との辞令じみたものを渡された。同じものは患者自治組織全生常会役員も渡され、療養所の支配関係を示している。
 教師となった余禄は、小さな机と読書灯。12.5畳に8人の雑魚寝生活は変わらない。先任の牧田先生と、20人あまりを上級生と下級生に分けて受け持った。症状悪化に苦しむ者も多く、病棟に入ったり出たりで生徒数は一定しない。義務教育段階を過ぎた年齢の少年少女のために夜学補修科もあって、思春期の男女が公然と同席できる数少ない機会となっていた。悩みは本が無いこと。氷上先生は新聞社の兄さんに手紙を出して、教科書を古本屋から手に入れて使った。
  B25が日本本土を空襲する。子どもたちの生活も悪化の一途。氷上先生は、せめて友達になって話を聞こう、仲間になって遊びながら学ぼうと決意する。国語は百人一首、理科は狭い園内の薬草を探したり、栗を拾ったり、体育は三角ベースをしたりで教育技術や教材不足を精一杯補った。 
 子どもたちと園内を歩いている時に、首吊り死体(ハンセン病それ自体による絶望ではなく、あらゆる血縁関係や社会関係から隔離され、死ぬまで収容されるという状態による絶望が、自殺を促していた)に遭遇することもしばしばあった。
 だが最大の問題は、ひもじさ。牧田先生と相談して園内の耕地を借り、自分たちの下肥を奪われないようにして腹に溜まるさつま芋やじゃが芋を育て、先ずは食べ余りで澱粉の実験をした。氷上先生に教わった人達は、いい先生だったと誰もが言う。子どもの話をよく聞き、話は決して飽きさせることのない優しい先生だった。

 1944年、薪不足で風呂は二ヶ月に一度、棺桶の板さえなくなる。

  「・・・野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野鳥は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った」           ラザロ・恩田原  (松本馨 ハンセン病者は本名を捨て、複数の筆名を使わねばならなかった)

 栄養失調による死者は増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。 

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。
 寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業(患者作業 深い谷から重い炭俵を担ぎあげる、重い敷石を運ぶ、目の不自由な患者が大きなタライで洗濯をする、園内の仕事を患者は半ば強制的に割り当てられた。報酬は1日に牛乳一瓶を買える程度)をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求した。
 それが日本で最初の子ども手当になった。患者たちの互助組織全生互恵会 (財団法人全生互恵会である。患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、当時の運営実権は園側にあった)から月一円の日用品費が、「奇妙な国」多磨全生園全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうかと僕は睨んでいる。 彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉も聞いている。子どもの患者はその大部分が青年になる前に死んでいた。その時代に彼は、子どもに死を待つ子どもの絶望ではなく、未来を迎える希望を見ていたと言えよう。

 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ時期の長島愛生園や戦後(1950年)の松ヶ丘保養園の様子が検証会議証言にある。

  長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                                
 (松が丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。                   
 月一円の日用品費は、「奇妙な国」の子ども手当と言うべきである。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まること、更に朝日訴訟(1957年)で憲法25条を巡って争われた日用生活費が僅か600円であったことを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず増額され、新良田教室(岡山県立邑久高校定時制課程新良田教室。全国のハンセン病患者を対象として昭和28年の「らい予防法」闘争により昭和30年長島愛生園に設置された)に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。

 松本馨が交渉した相手は、園の事務官(厚生官僚)であったという。人間的対応をする事務官であったと松本は書いている。
 当初は半日ずつの作業が毎日行われていたが、当時は週三日半時間ずつになっていた(別の記述では1時間ばかりのガーゼ伸ばし等で子どもの収入は月30銭~50銭とある)
 だが、子ども作業廃止と一人一円支給の画期性はいくら強調しても不当ではない。

 本物の「奇跡」に相応しく、歴史の何処にも記述されていない。なぜならこの奇跡を根拠とする、組織としての教会や宗団がないからである。
 志賀直哉であれば、この事実をどう書いただろうか。(彼には、北条民雄『命の初夜』の芥川賞選考に関して苦い記憶がある。他方彼は、松本馨同様内村鑑三にも深く傾倒していた。)

 松本は同時に、
全生学園を卒業した少年と児童を分離することも要求して実現させている。
 こんな証言がある。
 (草津)楽泉園には少年寮や少女寮もなく・・・大人たちが夜に男女の話をしていた。わたしは子どもでしたので「早く寝ろ」と大人たちに言われても、うるさくて眠れずに困りました。『楽泉園入所者証言集 中』 創土社 p127~128
 子どもには、子どもだけの時間と空間が必要なのである。これをハンセン病療養所における「子どもの発見」だと僕は考えている。
 この時、松本馨は23 歳であった。この後の彼の波瀾万丈については、稿を改める。

 引用は『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊からとった。

記 1941年の日雇いの賃金は1日2円、対して1957年の日雇い賃金は1日500円であった。

To every Japanese ・ Gandhi / 紛争を煽る日本への戒め

GANDHI SEVAGRAM ASHRAMから
 「・・・あなた方を敵視しているわけではありませんが、私はあなた方の中国に対する攻撃を激しく憎悪しています。あなた方は立派な高みから帝国の野望へと落ちてしまったのです。あなた方がその野望を実現することはできないでしょうし、あるいはアジアを分断した張本人となるかもしれません。
・・・私は、南アフリカからインドに帰国してから・・・日本人僧侶たちと親しく交流するようになりました。・・・その精進ぶり、堂々たる忍耐力、日々の礼拝への不屈の献身、愛想の良さ、種々の状況にも動じぬ姿、平和な内面を明瞭に物語る自然な微笑み、これらのために私ども皆から慕われたのです。・・・
 あなた方はその隣人の古典文芸を自らのものとしてきたではありませんか。互いの歴史、文化、および文学についてあなた方が持つ理解、それはあなた方を現在そうであるような敵同士ではなく、友人として結びつけるべきものなのです。
・・・私どもは帝国主義に抵抗せねばならぬ独自の立場にいます。私どもはあなた方の野望やナチズムに負けず劣らず帝国主義を嫌悪しています。私どもの抵抗は英国の人々を傷つけようとするものではありません。彼らを変えたいのです。私どもは丸腰で英国の支配に抗っています。・・・
 無慈悲な戦争には最終的な勝者がいない、ということが何故あなた方にはわからないのか不思議でなりません。・・・私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています。それらの文章が全て誤っており、私があなた方の琴線に正しく触れられたらいいのにとどんなに祈っていることか! 何はともあれ、私には、人間たるもの必ずや応えてくれるだろうという不滅の信条があります。迫り来るインドでの運動を着想したのはこの信条がもたらす力に支えられてのことであり、あなた方にこの請願をしようと思い立ったのも、この信条に基づくものなのです。 あなたがたの友 ガンディーより」1942年7月26日    日本語訳の全文はここ←クリック
    Gandhiによる原文はここに←クリック

 ガンジーがこれを書いた年の情勢は、どうであったか。 


1942/03   Gandhi 「英国人がインドにいることが、日本のインド侵略を招く。 彼らが撤退すれば日本を引きつけるえさはなくなる」と述べ、英国の即刻撤退を強く要求。
1942/06/05 ミッドウェイ海戦。日本海軍は主力空母4隻、搭載全機263機を失うが、大本営はミッドウェイで日本海軍は敵の施設に大打撃を与えたと発表。
1942/12/31 ガダルカナル撤退(ガダルカナル戦は、日本守備隊への補給がろくに行われず、将兵は悲惨な餓死を遂げたことから餓島と呼ばれた)

 ガンジーも第一次大戦では、まんまと英国に引っ掛けられた。将来の独立を匂わせ、英国は大戦参加をもちかけたのである。ガンジーはこれに応じ、120万のインド兵と物資を投入した。
 にもかかわらず約束は反故。大英帝国はローラット法(1919年対インド法。令状なしの逮捕・裁判抜きの投獄権限をインド総督に与えたとアムリットサル大虐殺(英軍ダイヤー将軍指揮下のグルカ兵に非武装群衆への発砲を命じ、広場の出入り口に配置した機関銃で「弾がなくなるまで」撃ち続けた。死者1200名、負傷3600名。大量虐殺の首謀者ダイヤー将軍には、2万ポンド(現在の日本円で数億円)の寄付が集まった)を以てインドを力と法で弾圧した。
 第一次大戦にこと寄せて、同様の提案を英国は孫文に伝えたが、彼は見事にその意図を見破り論破している。←クリック   

 英国はドイツ植民地の奪取を目論み、インドの兵力と物資を騙し取ったのである。ガンジーは高い買い物をした。 (英国は、同時に中東を巡ってはアラブ人とユダヤ人を同時にペテンにかけ、現在に至る世界の混乱を招来させている。日本も日英同盟と英国の要請を口実に自ら大戦に参戦、中国や太平洋におけるドイツ権益を略取して図に乗った。)

 「私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています」は些かも的外れではなかった。既にその剣は、自国民と敗走する自国兵にさえ向けられていたのである。皇軍中枢は、自らの特権を拡大、八紘一宇と言いながらアジアに国内に帝国主義的支配・弾圧の網を巡らせたのである。
 

 これは過去のことではない、2019年現在の日本の問題でもある。大戦に敗北した途端、米国の戦争体制に70年以上も嬉々として加担、それで日本は何を得たと言えるのか。

 「あなた方には請願を聞く耳がなく・・・」これは教委言うところの、教育困難校生徒たちの呟きでもある。あなたとは行政であり学校であり世間である。
 「教育困難校」とは何か。在校生を教育することの困難性を言うのか、確かなのは行政や学校が在校生の教育を放棄して「教育困難」にしていることである。本質は、特権階層の形成過程が被差別階層形成過程と一体という仕組みにある。青年を階層分離・隔離して、「教育困難」層から知識と自治を遮断、従順な態度だけを植え付けてきた。
 大英帝国が、ことある毎にインド人に自治は無理だと言い続けてきたことを思い起こしたい。

 「教育困難高」KH校一年生二人が、
授業中ベランダに寝そべっていたことがある。聞けば 
 「授業中に話してたら「殺すぞ」って言われて、ショックで・・・」と言う。普段の二人は授業中教室がうるさくなると、
 「静かにしなさいよ」とたしなめる側であった。であれば彼女たちが喋っていたら、何でお喋りしていたか聞かねばならない、それが教育の前提である。授業の中身そのもので煩くなることは大いにあるのだから。それが嫌なら教員免許は返上せねばなるまい。
 「指導重点校」を検索にかけると、進学指導重点校や進路指導重点校ばかりが出てくる。たった一つ、生徒指導重点校に関するものが出てくる。
ここ←クリック         
 暗澹たる気持ちになる。こんな取り組みをしていたら、教師は学習に集中できない。教頭を増員して生活指導は校長と教頭に任せる必要がある、教員は授業に専念する。それだけで、生徒たちとの対話的関係は形成される。教委は、校長と教頭の煩雑な事務を免除する体制をつくる。学校設備はSSH並に(東京では筑駒が指定されている、実験教育が貴種作りならsshは廃止しなければならない)。良い設備を、高い偏差値の特権にしてはならない。

 あおり運転を繰り返し「殺すぞ」と凄んだ自称経営者が捕まった。彼は貴種であるとの妄想に取り憑かれていたのか、その「優雅な」生活振りをSNSで「下々」に披露したが誰も敬意を払わない。彼にとって外車によるあおり運転は、高圧的に「下々」の服従を迫る手口である。彼は、外車に乗る「対話不能」者になっていた。
 何がそうさせたか、それは裁判の過程で明らかにしなければならない。彼のなかで善悪は、どう判断されたのか。正常な自由意志だったのか薬や病気で判断困難な状態だったのか。後者だとすれば責任は社会が負わねばならない。
 しかし彼は根っからの小心者だったと見える、覚醒剤がきれ外車が奪われた途端萎んでしまった。まるで戦前戦中の皇軍の如き振る舞いである。

 首相経験者が1979年衆議院選挙に初出馬演説で、開口一番支援者に対して「下々の皆さん」と発言した事実はよく知られている。そればかりではない、1983年の高知県議選の応援演説では「婦人に参政権を与えたのが最大の失敗」と言い放ち、その後も老人や病人に「死ね」と言わんばかりの発言を繰り返している。にもかかわらず当選し続けて、「ナチスに学べ」と人々の恐怖を煽る。彼も「対話困難」者或いは「対話不能」者である。彼は自分自身が憲法99条に拘束されていることにさえ留意しない。
 国家機関とマスメディアが結託、自らの犯罪行為は棚に上げたまま近隣諸国に向かい、退け、黙れ、無礼者、などの暴言を放っている。

 そればかりか、自らの傲慢な姿に酔う有様。まさに煽り運転中毒である。米国制武器片手に過去の亡霊を目覚めさせ、「聖戦」の旗に見惚れている。
 Gandhiの「あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞く」は、今や現政権とこの社会にも向けられている。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...