戸籍から消えた祖母がくれた学童帽

 「ハンセン病療養所多磨全生園」で、塹壕のような溝が掘り起こされたのは2016年12月。開設当初から患者逃亡を阻止のために設けられた。新聞は発見と報道したが、おかしな言い方だ。古代の集落跡であれば、知るものも記録もないから「発見」と言えるが、この逃亡防止の溝で隔離された元患者は生存して、その生々しい記憶は今なお生きている。


 残土は積み上げられ土塁となったから溝はかなり深く急斜面、目や手足に障碍を持つ者が落ちれば這い上がれない。一度隔離されば火葬場の煙となるまで外には出られない。絶滅隔離を知らしめるおぞましい遺構である。

   

  この溝に入って遊んだ微かな記憶がある。小学校入学直前、少なくとも三度。熊本電鉄に乗り、大きな森のある駅でおりた。谷や資材置き場で遊び弁当を食べたまでは覚えている。資材置き場で足を滑らせてて出来た膝の傷は、今もはっきり残っている。帰りは父の背。

 新調の学童服・学童帽・ランドセルを着用して出かけた日もある。「汚れるから遊べないよ」と問うと、父は「今日は学校に行く練習じゃ」と答えた。


 この時の記憶が甦ったのは、菊池恵楓園と土屋文明の関わりを調べていた時だ。アララギの普及を目指して土屋文明は絶滅隔離政策下のハンセン病療養所にたびたび足を運んだ。

春の日に並びて吾を迎えくれし合志村の友らよ一年過ぎぬ          1938年『少安集』

と土屋は詠んでいる。熊本の北方に位置する合志村は、恵楓園の所在地である。

 その時を、 菊池恵楓園の畑野むめさんは 『検証・ハンセン病史』 河出書房新社刊  の中でこう証言している。

 

  「土屋文明先生は、弱い人によくする方でねえ。・・・前はね、外からここに来るなら、この患者地帯(溝で隔離された区域をそう呼んだ)に入るときは、目の少し出るくらいの大きなマスクして、予防着着て長靴ば履かにゃ、入られなかったの。参観人は皆そんな格好して入ってきよった。消毒液が置いてあって、そこを通って入ってきよった。 土屋先生はね、最初から私服のまま、とっとと入ってきて。自分の服着たまま重病人のところに行って、話をしたり。そういう人だったよ。 昭和十二年(1933年)においでたときも、(講話で)高いところにするような造りしてあるでしょう、それを「こんなものは取られんかね」て言うて。下りて一様に話したいってね。偉い人だけど、そういうふうな親しみやすい先生だったな。だけど、みんな畏れとったよね。「黒鉄の文明」とか言ってね。歌には、やかましゅうしておられた。畏れられちゃおったけど、弱いもんにはよかったなあ」


 文明がやってくる日、菊池恵楓園の歌人達は不自由な手足、不自由な目をおして門まで出向き歌人土屋文明を感激させている。白い隔離の壁を纏ってどうして、言葉と心の遣り取りが、共感相互理解が出来ようか。それは年齢、時代を問わない。


 その門の写真を見付けた時、僕は「溝」がどこに在ったか、なぜ父が入学直前の僕を三度もここに連れてきたのか。その手掛かりをつかんだ気がした。

 恵楓園正門は停車場の北に接し、「溝」は電鉄「御代志」停車場から北に伸びる線路伝いの森の中にあった。それが子どもには自然の谷に見えた。恵楓園の前身、九州7県連合立九州らい療養所は、「多磨全生園」と同年1909年開設。遊んだ1954年には側面も崩れ、森と一体化していたに違いない。


 気絶するほどの大怪我だったが、帰宅時には綺麗に包帯が巻かれていた。妹がいなかったのも。弁当の後眠ってしまったのも、次第に謎が解けた。小さな妹には僅かに感染の可能性があったが、学齢以降の子どもや大人には感染しないことを父は既に知っていたのだと思う。

 恵楓園正門を抜けた先の面会所に、眠り込んだまま誰かに面会した。「学帽・ランドセル姿」の僕を見たいと父に懇願したのは、誰だったのか。土屋文明を門まで出迎えた中にいたかもしれない。 祖母は和歌を嗜んでいたと聞く。   続く


もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...