北朝鮮とロシアの接近で思い出したことがある。

   当blog『「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという作為』   を再再引用する。

     あれは確か1992年の二学期だった。二人組が準備室にやってきた。

 「ねえ、褒めてやってよ」と僕の横に来ていきなり言う。

 「今日の○○、かわいいでしょ」 

 「いつもかわいいじゃないか」と言うと○○さんが照れている。

 「そういえばいつもと違ってる」

 「でしょ、スカートも短くなったし、化粧もしてないでしょ」

 「うーん、美人になったし賢く見える。どうしたんだ」

 「・・・一年生の時は私たち別々のクラスで浮いてた。友達は出来ない、つまんないことで担任にガミガミ叱られてばっかり。でも負けたくないから突っ張るしかないじゃない」

 「二年になって同じクラスになって、似たもの同士ですぐ友だちになった」

 「それで、このクラス何となく居心地がいいのよ、先生もぼーっとしてるし、気が付いたら突っ張る必要がない、突っ張るって疲れるのよ、だからやめちゃった。そしたら親も急に優しくなるし、・・・」

 「だからさ、褒めてやってよ、えらいでしょ」 

 「えらいよ、二人とも。突っ張るのは疲れると気付いたのも、その友だちの変化に気付いて「えらい」と言ったのも」

 「私も突っ張るのやめるよ、ほんとだよ」

   

 事柄は何かをなして遂げられるよりは、なさないことによって思いがけない形で実現することがある。青少年は猫に似て、追えば逃げ、ほっておけば寄ってくることがあって難しい。僕はつくづくそう思う。

 でもね、「何もしないこと」は「何もしないこと」によって維持されるのではない。「何もしないこと」をすることによってしか起きない。人間は他人の目を意識して、知らず知らずのうちになにかをしてしまう惰性・癖がある。例えば小舟が、海流中にあって何もしなければ、流され翻弄される。どちらにも流されないためには、エンジンをかけ、船首を海流に向け、海流と同じ速度で進まなければならない。海流の方向も早さも刻々変わる、一刻たりとも注意は怠れない。しかし他人からは「ぼーっとして」何もしていないように見えなければならない。でなければ猫は警戒する。

 数日後、○○さんのお母さんが、挨拶にみえた。控えめで品のいい人だった。

  ○○さんを連れてきた少女は、数学に於いては天才的能力を持っていた。数学の授業は熟睡していても試験は満点。 試しに最も難度の高い大学入試問題を与えると、暫く考えて易々と解く。しかも模範解答より美しく短い。字の配列もバランスがとれて美しい。明晰という言葉が浮かんだ。だが数学の教員は、やれば出来るのに寝てばかりいるとおかんむりで、いい成績はつかなかった。僕はその分野に進学させなければならない、と考えいろいろ試みたが、彼女はすっかり臍が曲がってしまっていた。

 学校は、生徒の才能を探り当て伸ばすことはなかなか出来ないが、漸く芽生え大きく成長し始めた才能を打ち砕くことだけは確実にやり遂げるのである。これがプラス・マイナスゼロならまだ救いはある、どう見ても大きな欠損である。


  北朝鮮を「突っ張るしかない」状況に追い込んだのは、米日韓。ソ連中国に接近した地域に混乱を巻き起こしたのは日米結託の「単独講和」であった。民族を一方的に分断し、片方だけに賠償したのだ。あたかも地球上に存在しないかのような扱いだった。「突っ張らなければ」完全に無視される。

    「・・・一年生の時は私たち別々のクラスで浮いてた。友達は出来ない、つまんないことで担任にガミガミ叱られてばっかり。でも負けたくないから突っ張るしかないじゃない」

 「二年になって同じクラスになって、似たもの同士ですぐ友だちになった」

 「それで、このクラス何となく居心地がいいのよ、先生もぼーっとしてるし、気が付いたら突っ張る必要がない、突っ張るって疲れるのよ、だからやめちゃった。そしたら親も急に優しくなるし、・・・」

 「だからさ、褒めてやってよ、えらいでしょ」 

 「えらいよ、二人とも。突っ張るのは疲れると気付いたのも、その友だちの変化に気付いて「えらい」と言ったのも」

 「私も突っ張るのやめるよ、ほんとだよ」

 北朝鮮は突っ張る必要が無くなったと僕は見ている。日本だけが急速に没落しながら突っぱれもせず、東アジアで「浮いて」いる。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...