椋鳩十が、快惚として聞き入った正木先生の授業

授業も裁判も、正木先生の独壇場
 賑やかに生徒が発言し動く授業が「いい授業」だろうか。それが生徒の自主性を引き出すものなのか。
 昔ユースホステルに泊まると、ペアレントと呼ばれる経営者が、食後に宿泊青年をホールに集めてミーティングをやるのが定番だった。ゲームや歌で交流するという触れ込みだった。僕は少年の頃、こういうことは得意で好きでもあった。だが18歳になろうとする春、『アデンアラビア』に意識を殴られて、ゲームや歌から覚めた。

 ミーティング好きのユースホステルでは、ものを考えられない。ミーティングの主役は、若者ではなくペアレントであり、若者は乗せられた道具に過ぎなかった。
 ユースホステルに泊まるぐらいなら、無人小屋の方が心地よいと思うようになった。一日中尾根を辿って誰とも会わない日もあるが、途中の景色とともに物思いに耽れる。
 今でも、旅館で着飾った女将が挨拶に来るのが嫌で堪らない。まるで客は女将登場の道具立てだ。観光地の列車や船に乗れば、ギターや三味線片手に地域おこしの仕掛け人が現れて、無理矢理盛り上げる。迷惑で鬱陶しい。うっかり旅も楽しめない。静かに景色を眺めることが、まるで犯罪であるかのような雰囲気がある。 

 先生は、ガリバンの英文を解釈するだけでなく、詩の世界の中に、私たちをひきこんでいき、あるいは、哲学的文章では、思考の泉のほとりに私たちを立ちどまらせるのであった。
 正木先生は、驚くほど、雄弁な先生であった。
 正木先生の放課後の講義は、現代の小・中学校で行われているように、子どもたち個々の力をひきだすために、一人一人に発表させたり、個々の意見をひきだすといったものからは、はるかに遠く、正木先生がひとりでしゃべりまくる独壇場とでもいうべきものであった。そして、正木先生のおしゃべりは、実に、魔力をもったものであった。
 私たちは、正木先生の人生論に、鑑賞論に、快惚として聞きいるのであった。
 時には、正木先生の下宿先まで皆で押しかけ、夜を徹して、芸術を語り、人生を語るのであった。
 中学校の二、三年生の芸術論であり、人生論であるから、青くさく、鼻もちならぬものであったにちがいない。しかし、それでも、正木先生は私どもと口角泡をとばして議論したりするのであった。真剣になってやり合うのであった。そして最後には、正木先生に、さんざんやりこめられても、上等のお酒に酔ったように、心の中が、ぼうとあたたかくなり、何か、幸福とでもいうような不思議な気持になるのであった。
 今でもあの当時のことを考えると、青春の日のロマンといったものであろうか。あるいはまた、青春そのものといったものであろうか。心のふつふつと燃えた若き日が、よい匂いのように、心をつつむのである。

                                         椋鳩十 『児童心理』1978年11月号

   正木先生とは、戦前から軍国主義を批判し、戦中には「首なし事件」(1944年)で官憲による拷問を告発した正木ひろし弁護士である。戦後も多くの反権力事件、冤罪事件を手掛けた。
 正木ひろしは、帝大在学中から旧制中学で英語を教え、椋鳩十を教えたのは大正中頃であった。
 深く魔力のある授業に、若者は忽ち引きずり込まれ、時間も空間も忘れてしまう。お喋りも先生への質問も、授業から覚めてようやく始まる。そしてその稔りは、時間をへてノートや行動に現れる。   
   椋鳩十は信州飯田の中学生だったから、正木先生の下宿には歩いて行けた。歩きながら先生の授業と自分の意見と仲間の見解を繰り返し練り上げる。その時間が個性を引き出す。夜を徹して語り合い「さんざんやりこめられても、上等のお酒に酔ったように、心の中が、ぼうとあたたかくなり、何か、幸福」な気持ちになる。この幸福な気持ちが、正木先生と椋鳩十たちの「共同作品」と言うことが出来る。優れた教師と世界を共有出来る喜び、これに勝る教育の意義はそうはあるまい。あらゆる青春の出来事は、こうした共同作品として生まれる。

 講義から夜を徹しての議論までの長い思考とやり取りを、切れ切れのマニュアル化した数時間に納めることはとうてい出来ない。生徒の自主性を引き出すとの触れ込みのどんな取り組みも、所詮は理論=テクニックとそれを信奉する教師の添え物に過ぎない。練り込まれた計画に基づいて指示通りに動く駒に過ぎない。深く長い個人の思考を伴わないからである。
良い教育の条件に「歩いて行ける」は欠かせない。歩いている時間と空間そのものに教育的機能があるのだから。放課後の講義に夕闇が迫れば、一旦中止して「晩めし食ってからうちに来い」と言える街を目指す都市政策、教育行政を持たないこの国の未来は暗い。

 正木ひろしは、旧制高校で理科から文科へ転じている。美術教師も務めたことがある。そのハイブリッドな教養が縦横無尽の講義となり、法廷での見事な弁論を構成している。教師にとって最も肝心なのは、無駄な程に広く深く学ぶことである。それが好きで堪らないことである。教師たちは好きで堪らない学びに時間を割けないない。それが大きな争点にならないこの国の未来は無いに等しい。


追記 僕は横文字の氾濫に腹を立てているから、「ハイブリッド」を使いたくなかった。しかしどうも言い換えがきかない。「雑学」ではない、そこには思想性が欠けている。「ハイブリッド」な教養は、物事をずらして見ることが出来るから、権力批判にたどり着きやすい。渡辺崋山や高野長英が蛮社の獄に連なったのは、その知識の構造がもたらしている。日本の大学が、副専攻を制度化しないのもこのためだ。つまり日本の大学は、構造的に権力迎合的なのだ。

糞の役にも立たない官僚的な教師

糞の役にも立たない官僚、面白くも可笑しくもない
 そもそも私は馬鹿正直で、なにかいたずらをしては、担任の教師に、こんないたずらをしたのは誰だと云われると、正直に手を挙げた。そしてその教師は、私の成績表に操行ゼロと書いた。
 ところが、担任の教師が変ってからも、自分のいたずらに対して、相変らず正直に手を挙げていたら、その教師は正直でよろしいと云って、私の成頒表に操行百点と書いた。
  ・・・
 ある期末の歴史の試験の時のことである。問題は十問ほどあったが、私には殆ど出来ない問題ばかりだった。・・・
 私は全くお手上げだった。私は窮余の一策で、十問目の「三種の神器について、所感を述べよ」という問題だけとり上げて、答案用紙に三枚ほど勝手なことを書いた。その内容は、三種の神器は、話にはいろいろ聞いているが、この目で見たわけではないから、所感を述べよ、と云っても無理だ。八咫鏡にしても、実物は誰も見た者はいないのだから、本当は四角かも知れないし、三角かも知れない。私は、自分の眼でしっかり見たものについてしか語れないし、証明されたものしか信じない、というようなものであった。
 ところが岩松先生は、その歴史の答案に採点して生徒達に返す時、大きな声で云った。
 「ここに一つ、変な答案がある。私の問題の一つについてしか答えていないが、それがなかなか面白い。私は、こんな独創的な答案は初めて見た。こいつを書いた奴は見どころがある。百点だ。黒澤 !」
 と、その答案を私の方へ突き出した。皆、一せいに私を見た。私は、赤くなって暫く動けなかった。
昔の先生には、自由な精神を持った、個性豊かな人物が沢山いたのである。
それに較べると、今の先生は、ただのサラリーマンが多すぎる。いや、サラリーマンというより、官僚的な人物が多すぎる。こんな先生の教育は、糞の役にも立たない。第一、面白くも可笑しくもないだろう。

                                            1984年  黒澤明『蝦蟇の油』岩波書店

 あるとき職員会議で、校長から神社参拝させるという提案が出た。そうしたら金子先生が、何か効果がはっきりしたらやったらいいじゃないですか、神社参拝したらどういう効果があるか、と言っちやったらしい。そうしたら校長がえらい困った。時局下で監視が来ているでしょう。それで開先生が立ち上がって、「多分、きみそれはあれだな、うっかり言ったんだな」と言ってとりなしたという。しかし、結局みんな追われちゃったらしいんです。
                                           1982年 斉藤喜博 『聞く』明治図書

 斉藤喜博が師範学校学生であった頃の出来事である。時局下の監視とは配属将校の臨席である。戦中戦前の学校教育を受けた教育者や文化人の回想を読むと、意外なことに個性的な教師に恵まれた人が多いことに気付く。
 糞の役にも立たない官僚的教師の跋扈はどこから始まったのだろうか。
 学校の官僚化を象徴するのが、入学式や卒業式の式次第だ。卒業生や保護者に向けて、おめでとうございますの挨拶もない。ぶっきらぼうに、開会の辞と閉会の辞に挟まれて、国歌斉唱や校長式辞が並び、教育委員会告示までが挿入されている。これがあるお陰で、教員は卒業とは何か、学校は誰のものなのかを考えない。保護者は式の何処にも登場しないことのおかしさを議論しないで済む。式次第のかげには通達のもたらす形式がある。
 形式は、人間の思考を眠らせ腐らせる。式次第から匂うのは肥大化して硬直化した「官」と、消えかかる「私」。
 普段はお喋りとイタズラにに余念のない反抗的生徒が、卒業式では神妙にしているのも気に入らない。 黒澤明の担任が「正直でよろしい。操行百点」と書く余地もない。一貫性があれば、正直でよろしいと言えるが、場が変われば恐れ入るのはただの調子者に過ぎないからだ。その代表が元都知事であった。教員には君が代を強制しておいて、自身は「オレ歌わないもん」と言ってはばからない。文化的一貫性や自由な精神の見えない底の浅い作家であった。

 戦中戦前の学校教育を受けた教育者や文化人たちが、個性的な教師に恵まれたのは何故だろうか。
 彼らが接した教師たちは、大正デモクラシーの自由な空気の中で育った世代である。自由が生き方や仕草に染みついている。彼らが教壇に立つ頃、軍国主義的世相が押し寄せてきた。若いから反発も強い、一言どうしても出てしまう。

 「何か効果がはっきりしたらやったらいいじゃないですか、神社参拝したらどういう効果があるか」と言っちゃった金子先生は、帝大出であり旧制高校的自由も享受していた。軍国主義教育の軽薄な非合理性は我慢ならなかったに違いない。金子先生とともに飛ばされたのは、帝大出の人たちであった。
 対して 黒澤明が『蝦蟇の油』で「糞の役にも立たない」と腐した教師たちは、総じて団塊の世代以降。高度成長期にマスプロ教育で育ったから、行事も授業も効率と画一化が前面に出る。教室の壁や廊下にも点検表があふれた。定期試験問題の共通化や評定平均の統一までが画策された。「面白くも可笑しくもない」ことを真顔でやった。僅かな遅刻で女子生徒を殺し、ドライヤーを持ってきたと言い生徒を殴り殺したのはこの時代の教師である。


 教師が殴りたがり、点検したがるのが、その教師の生育背景に由来するとしたら、殴られる少年たちの怒りのやり場はない。どんな育ちのいかなる教師に教わったとしても、青少年たちが保証される教育の最低限を規定したのが、旧教育基本法であり子どもの権利条約である。

           





失敗から学ぶための条件


 「和解する教室」Ⅰ~Ⅳで書いたような行動を、部活が売りのS高生たちはやってのけるだろうか。S高は偏差値も入試競争率も進学率も「1-6」のH高より余程高い。しかし、1-6のような自治を実現することは金輪際出来ない。なぜならS高では入学してから卒業するまで、クラス自治の経験を持てないからだ。素直な生徒たちは部活に全関心を預け、教室はまるで3時からの部活の分断された「待合室」となる。待合室に暴動はあり得るが、決して政治化しない。
 
 「現社」で放課後を使ってのグループ毎の調査や見学などは出来ない、部活は絶対だからだ。土日に博物館や地域を巡ることも不可能、練習試合でそんな時間は1分たりとも無いのだ。
 「現社」教員としての僕は、手足をもがれた気がして滅入った。黒板の前だけが「教室」だった。生きた世界からは隔離されていた。
 学級内集団も、クラブ毎にしか形成されない。したがって学級共同の要求としての自治や授業が自覚されることはない、まして要求にまで高められることはない。S高生ひとり一人の社会的意識は決して低くないが、それが集団化することはなかった。なんとかしたい、自分たちの手で集団をよくしたいという熱気の前提、クラスに対する愛着が育たないのだ。


 これは支配する側にとって願ってもないことだ。たとえ卒業後、職場や地域に深刻な問題が起きても、部活で培った社会的無関心は容易には回復しない。
 日本の高校生の政治化は、「部活」がダムとなって堰き止めている。卒業後、ダムとしての「部活」の機能に気付きそれを突き破ることに成功した者は、逞しい社会性を持つようになる。だが気付くのに、短くとも数年を要する。戦時下の少国民が、軍国主義的悪夢から覚醒するまでよりはるかに長い。社会変革の主体として若者が再び登場するのは、日本の青少年が部活の幻から覚めるときである。

   失敗に向き合った(「和解する教室」)の高校生に比べると、F先生(「心を病んだ先生」)は自分の失敗を認めない強情さに満ちていた。
 F先生に対する生徒たちの暴発は、卒業文集に現れた。全ての生徒から「死ね、死んでください」と書かれてしまう。この時までF先生は、生徒の不満に気付かなかったのだろうか。生徒たちは、担任に不満や要求を押さえつけられて何も言えなかったのだろうか、3年間も。卒業文集の原稿を担任が目にしてから卒業式まで、2・3ヶ月はある。同僚たちは何を見ていたのだろうか。どうして、再び担任になりたいとの
F先生の希望を受け容れたのだろうか。
破綻を認めない頑迷さが二発の原爆に繋がった
 そもそも彼の総括が独善的であった。3年間の方針に質的な誤りはなく、ただ量的徹底性がなかったというもので、担任はしない、休む、生活指導しないという選択はあらかじめ排除されている。日本軍の思考に酷似している。独善性は強化され徹底をめざし、破綻する度に独善性は硬直した。直面する事態を分析する哲学も、打開を決意する思想もない。
 F先生二度目の担任では、生徒との接触は入学前の3月末から始まり、昼休みも一緒に弁当を広げ、学級通信は一日二回になる。これが生徒にとってどんなに暴力的なことなのか、気付くことはなかった。取り組みに効果が見られない時、彼の脳裏に去来したのは、未だ足りないもっと強くだけである。弱音は言えず、方向転換することが出来ない。巨艦巨砲主義から脱却出来なかった海軍と変わらない。
 致命的なのは、生徒側に話し合いが生まれなかったこと、学級に対する愛着の欠けらもなかったからだ。

 自己認識から逃げたくなるほど、学校や学級に対して冷めてしまった生徒たち。その集団を規律の強化・徹底で乗り切ろうとする教師たち。F先生が精神に異常を来しても気付かなかった同僚たち、異常に気付いても狼狽えるだけの管理職。最悪の組み合わせである、この組み合わせがなにゆえこの学校に起きたか、失敗から徹底的に学ぶ必要がある。僕がこの学校に異動を命じられて、何が可能か考えるとF先生の辿った経過が重く胸に迫ってくる。

記 原発の破綻、年金原資による株価政策の破綻、民営化の破綻、いずれも政府はその失敗を認めず真剣に向き合うことはない。向き合うためには、「和解する教室」の生徒たちのように、集団、彼らの場合は国歌に対する愛着がなければならない。これが、現在の政権には全くない、あるのは肥大化する特権意識だけだ。それは、おそらく彼らの生育歴に深く関わっている。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...